花束

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今週、私たちは、《結婚47周年》を迎えたのですが、若い友人であるご夫妻が、大きな中華レストランで、お祝いの席を設けてくれたのです。お二人のお嬢さんと息子さん、この11年来、何くれとなくお世話くださっているご婦人(大学の法学部の先生)、そしてよく知ってる小四生が同席してくれました。

会食を終えて、このご夫妻の家に行って、交わりをしたのです。市内の有名なパン店のケーキを、みなさんで食べて、茶菓をとりながら話を交わしたのです。そして、その席で、夫人の友人で、時々、一緒になる方が、同席できない代わりにと、《花束》を家内にくださいました。それが、この写真に写っている花です。家に帰って、花瓶に挿して、客間に置いたものです。

毎年、覚えていてくださって、こんなに好くしてくださるのです。老夫婦が、異国の空の下で、仲良く、助け合って生活してる姿を見て、わが事の様に喜んでくれるからでしょう。何時でしたか、前に住んでいた小区に入ろうとした時、通りすがったご婦人が、『好夫婦哪!(好い夫婦だよ)」と言ってくれました。時々見掛ける外国人の老夫婦が、仲良く歩いてる姿、生活している様子は、好い印象を与えているのでしょうか。

意見の衝突や、習慣や趣味など、様々な違いと場面を通り越しながら、ごく並みに、一緒に生きているのが好いのでしょう。同じ価値観や人生観や世界観を持ちながら、相手を認めながら、生きていられるのは、感謝なことです。『若いご夫婦に、好い模範になれたらいいな!』、『日本人だって好い夫婦ができるんだよ!』と思ったり、願いながら、《共に白髪の生えるまで》は経験してしまっていますから、《暇乞い(いとまごい)するまで》、もう少し共に支え合って行こうと念じたところです。

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辺鄙

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この地球上には、数多くの道があります。思い返すと、子どもの頃は足で、その後は自転車、運転免許証を取ってからは車、こちらに来てからは足と<的车deche/タクシーです>とバスで、名高い道から名のない道まで、どれほどの数と距離を歩き、ペダルを踏み、ハンドルを握りながら歩き、移動した事でしょうか。

そんな道の中に、「哲学の道」があります。京都市内の一劃に、多くの哲学者が住んでいたからでしょうか、また、哲学しながら歩く人が多いからでしょうか、そう呼ばれる道があるのです。<京都おもしろスポット>に、その歴史が次の様に記されてあります。

『南禅寺から銀閣寺に至る疎水は、桜がたくさん植えられ春は桜、秋は紅葉で散歩する人を和ませてくれます。京都の哲学者、西田幾多郎がこの道を思索にふけりながら散歩していたことから「思索の小径」と言われていました。その後、西田幾多郎の愛弟子田辺元や三木清らも好んでこの道を散策したことからいつしか「哲学の道」とも言われるようになり、1972年に正式に「哲学の道」と銘々されました。哲学の道のなかほど、法然院のそばには西田幾多郎が詠んだ歌が石碑に刻まれています。』

日本屈指の哲学者の西田幾多郎が、その《遊歩道》を、自然をめでながら散策していて、『こんな時は、何も考えないで、孫や夕食のおかずの事を思っていよう!』と、そんな思索しかしなかったのだろうと、凡人の私などには思えるのです。孫やおかずも、哲学者の思索は、やっぱり「哲学」の内なのでしょうか。まだ歩いた事がない道ですが、いつか哲学しながら(?)歩いてみたいものです。

この西田幾多郎が、ある時、『水沢の如(ごと)き辺鄙(へんぴ)』と言ったのだそうです。京都に住む西田から見たら、この「水沢」は、確かに東北・陸奥の岩手の町ですから、「辺鄙」だったのは確かです。西田とて、北陸の石川県河北出の人でしたから、そんな事は言えないはずです。ところが、この水沢(今は合併して「奥州市」となっています)には、一人の天文学者がいたのです。[Z項]と言う天文学上の法則を作り上げ、世界の天文学会では名だたる、「木村栄(ひさし)」が、観測に何十年も没頭した街だったのです。

そんな偉業を、陸奥の片田舎で果たしたので、『そんな辺鄙な街で、そんな偉業を遂げたのだ!』と、木村栄と水沢をたたえて、そう言ったのです。人類の貢献者は、「辺鄙な村」の出身者が、意外と多いのではないでしょうか。私も、鹿や熊の出る山奥で生まれているのですが、それと自分とは関係なさそうです。

先日、立命館と早稲田で「哲学」を修めた若き学者が、お二人、わが家を訪ねて来られました。こちらの大学で教えておられる日本人です。家内が、カレーと野菜サラダとおひたしで夕食をもてなしましたら、とても喜んでおいででした。あれって「哲学の喜び」なのかと思っていましたら、久し振りの日本食が食べられた、<単なる喜び>だった様で、安心しました。

(水沢駅ホームの「南部鉄器風鈴装飾」です)
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