「長幼の序」という言葉があります。年少者は年長者に、一歩も二歩も譲ることなのでしょう。ただ一日でも日数が多い人は、それだけ経験したことも多くあると言った意味で、『<一日(いちじつ)之長>がある!』と言います。goo辞書によりますと、「《「孟子」滕文公上から》年長者と年少者との間にある秩序。子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方。」とありました。
週末の土曜日になると、小学生から大学生たちが5~6人、我が家にやって来ます。家内が日本語を教えているからです。授業の合間や終わった後に、彼らの話を聞いていて、新発見をしたのです。こういった場面は、これまでなかったからです。小学生が、大人でも大学生でも、彼らを相手に話をする時に、怖じたり遠慮したりしないで、しっかりと自己主張をしているのです。
自分が小学生の頃、大人の話し合いは、ただ聞いているだけでした。その話に口出しをすると、ジロッとみんなに睨まれて、『子どもは黙っていなさい!』と牽制されるのが落ちでした。そう言った社会でしたから、新中国の社会は、思ったことや感じたことを、率直に言い表せる社会なのだということを知って、感心させられたのです。
これは何時か読んだ本に書いてあったことですが、かつての中国でも、経験の少ない若者が、意見を言う機会があったのだそうです。位の高い人や年長者は、それを制止しないで、じっと聞いたのだそうです。建設的な意見なら、それを汲み上げて、高く評価をしたようです。若いからと言った理由だけで、無視しなかったのが、中国の社会だったのです。
92歳の方が、87歳の人に、『君、まだ若いなあ!』と言うのを聞いたことがありました。二人とも相当な年齢、同世代なのに、一歳でも二歳でも年下の人には、そう言った物言いをするのが、日本の社会の序列、人間関係なのだと再確認したわけです。
だからでしょうか、自己主張と言った点で、日本人は中国のみなさんに叶わないのではないでしょうか。人の話を聞いている間、『何を話そうか?』と、中国人は考えているように見受けられます。だから喧喧諤諤(けんけんがくがく)、あちらでもこちらでも話が交わされ、賑やかなのです。同席している私たち日本人は、聞き役に徹してしまうのです。遠慮ばかりではいけないと感じた昨日の土曜日でした。
(写真は、”ウイキメディア”の「万里の長城/発達嶺」です)