初耳

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中学校3年の国語の教科書に、「二つの悲しみ~戦争が残した出来事~」という一文が掲載されています(光村図書)。戦後、千葉市稲毛にあった「引き揚げ援護局」に勤務されていた、杉山竜丸氏が記したものです。昨年の7月に、その全文を、このブログに掲載しました。学校教育の中で、15歳になる中学生に、こう言った種類の「悲しみ」があることを伝えているのを知って、感じることが多くありました。

感じ入った私は、昨年度と今年度、二年に亘って、この文章を使って、日本語学科の学生のみなさんに作文をしてもらっているのです。息子をなくした父親の悲しみが、一つ目の悲しみです。肩を震わせて慟哭する父親の姿が印象的でした。また、食べ物が欠乏し、弱くなっていた祖父母に頼まれて、小学校3年生の少女が味わうのが、二つ目に悲しみです。メモを手に援護局にやって来ました。母親をなくした少女は、父の戦死の知らせを、この作者から聞くのです。『泣いてはいけない!』、二人の妹もいて、『しっかりしなくてはいけない!』と言われて来たのです。目に涙をいっぱいにしても、じっと我慢をして聞くのです。

戦後の日本で、こう言った経験をした人がいたことは、中国で教育を受けてきた学生にとっては初耳、新発見だったようです。「悲しみ」への共感を記していました。そういえば、私の小中高大のどのクラスには、「父なし子(ててなしご)」が何人もいました。<時代の子>なのです。彼らは、どのように戦後を生きてきたのでしょうか。お母さんが、八百屋の手伝いをしながら育てられていた「ターボー」はどうしてるのでしょうか。おじいさんとおばあさんに育てられていた「ショウチャン」、お父さんの遺品の帽子をかぶってチャンバラをしていた「ジュン」はどんな今を過ごしてるのでしょうか。

学生のみなさんは、「平和」、「和平」を希求しているのです。二度と再び、あのような「悲しみ」を味わうような時がこないように、切望しているのです。武力、軍事力を持つことによって、相手を威嚇し牽制することでしか保たれない「平和」なのでしょうか。刀をちらつかせる以外に、交渉できない外交なのでしょうか。驚くほどの科学的な思考をしている現代人もまた、愚かなのかも知れません。それでも、「地に平和を!」を願う<ハナキン>の夕べです。

(写真は、”ウイキメディア”、平和のシンボルの「ハト」です)

衣替え

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この土曜日に、『一緒に食事をしましょう!』とのお招きで、指定のレストランに公共バスに乗って行きました。バスを降りて、先に郵便ポストで手紙を投函したのです。その道のどこでだったでしょうか、上半身裸の男の人を見かけました。もうすっかり夏が到来したのだと思わされたのです。ここ華南では、時々見かける光景なので驚きませんが、みなさんの服装が小綺麗になり、色鮮やかさがましている中での裸は、ちょっとそぐわなくなってきています。私が長く過ごした日本の社会では、六月一日は、「衣替え」です。制服を着る学生や警察官のみなさんは、冬服から夏服に替える時なのです。

こちらのみなさんは、裸(最近は少なくなってきています)、Tシャツ、長袖、コートなど、実に自在に服装を選んで生きておられます。人によって気温の感じ方が違うのですし、社会制約もありませんから、自由でいいなと思います。それに引き換え、日本では、カンカンに太陽が照りつけているのに、黒の学生服を我慢してきている様子を、以前はよくみかけました。

日本で励行されている「衣替え」も、実は中国の宮廷で行なわれていた習慣を、日本の社会が受け入れて、6月1日から9月30日までが夏服、10月1日から3月31日までが冬服の着用期間になったわけです。地球温暖化、社会の多様化の中で、制服を着なければならないみなさんは、自由にはできないわけです。髪を切って、指定の制服に帽子と黒革靴、ズックの肩掛けカバンで、中学に入学しました。詰襟が、アゴにきつかったのですが、『もう子どもじゃないぜ!』と自覚が湧いてきたのを思い出します。

そう言えば、こちらの大学の先生たちの服装も自由でいいと思っています。これからはジーンズ、七分丈のズボン、ポロシャツ、Tシャツの方がいらっしゃいます。ですから私もネクタイなど締めなくなってしまいました。『来学年は、きちんとしよう!』と思っているのですが、果たしてどうでしょうか。でも空調の備わっていない教室もありますので、教室が決まってからのことになるでしょうか。冬には、厚手のコートは必需品ですし。

しかし、最近の若いみなさんの服装は、渋谷さながらで、秋葉原のファッションで身を飾っている若い女性もおいでです。女性のスカートの着用が、ずいぶん多くなっているのに気付かされております。それにひきかえ、『男性がお腹を出して歩くのだけはやめて欲しいのです!』、そう小声でお願いしておきます。そう、ご馳走になった、イタリアのローマで、日本人の板前に教わった店主の握ってくれた「江戸前ずし」は、とても美味しかったのです。

(写真は、”ウイキメディア”による「にぎり寿司」です)

20回目の家

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生まれてから今まで、住んだ住所を正確に数えて見ました。20ありました。父と一緒に5回、父から独立して今まで15回になります。それは荷造りをし、荷ほどきを繰り返した引越しの回数になるのでしょうか。生まれた家は、いつでしたか、母と兄たちと訪ねた時に、『ここであなたと徹ちゃんが生まれたの!』と、母に教えてもらって分かったのです。沢の谷間で、参拝客を止める旅館の離れで、日当たりの悪い家だったのでしょう。長く人が住まなかったので廃屋のようでした。それからだいぶ経って再訪した時には、崩れ落ちていました。

記憶が深いのは、八王子から越した街でした。そこで二十歳まで住みました。小中高大と、両親と二人の兄と弟と一緒に暮らしたのです。居室が二間と茶の間と台所の小さな家でした。そこに父が風呂場を大きく拡張していました。よく6人もで住んでいたと感心してしまうのですが、それだけ家族の距離が、物理的にも心理的にも近かったことになります。4人で喧嘩を繰り返した家ですが、それででしょうか、今も四人兄弟は人が羨むほど仲が好いのです。

所帯を持ってからでは、生まれ故郷と同じ街に引っ越して、一番下の息子が生まれてから、6人で過ごした家でしょうか。三間と台所で、道路を挟んで事務所がありました。一時期は、そこで10人で生活していたことのある家です。豊かではないのに、人の世話をやいて、同居者を迎えていたのです。近所のみなさんには、随分とゴチャゴチャと賑やかで、迷惑だったことでしょうか。子どもたちも、きっと思い出深い家ではなかったかと思います。

そういえば、長男が生まれて産院から退院してすぐの夜に、国道の工事中にガス管が破れて、消防士に『避難してください!』と言われて、着の身着のまま、長男を入れた衣装ケースを左手で抱え、家内の手を引いて逃げたこともありました。また、上の階でガス爆発の火災があって、被災したこともありました。3人の子と下の子がお腹にいた時でした。命からがら奇跡的に守られたのです。『引火しなかったことが信じられません!』と、現場検証をしていた消防士が言っていましたから。まさに、二回も火の危険の中からの<エクソダス>があったことになります。

20回目の家は、友人の同僚が、ご両親のために買われて、内装を綺麗にしてありました。でもご両親は田舎が良くて、越してこないまま空き家だったのを、お借りしたわけです。夜間の車や酔客の声がうるさいのが玉に瑕(きず)ですが、これまでのどの家よりも快適なのです。そんなこんなで感謝な日々を過ごしております。ご安心ください。

(写真は、前に住んでいた家の裏庭に咲いていた「花」です)

水無月

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「水無月」、六月の別名です。「梅雨」の時期をこう呼んだのには、訳があったのでしょうか。旧暦ですと、「五月」が梅雨の季節であったのですが、この「五月」を「皐月(さつき)」と言いました。梅雨の時期なのに、「皐月晴れ」と言ったわけです。雨の止み間の晴れのことだそうです。そう呼び始めた人は、「皮肉」で言ったのだと思ってしまったのですが、ちょっとネットの「語源由来辞典」を見ることにしましょう。

「水無月」は次のようにあります。「水の無い月と書くが、水が無いわけではない。<水無月>の<無>は、神無月の<な>と同じく<の>に当たる連体助詞<な>で<水の月>という意味である。陰暦六月は、田の水を引く月であることから、<水無月>と言われるようになった・・・」とありますが、後者の説の方が当を得てるようです。

「皐月」は次のようにあります。「<耕作>を意味する古語の<さ>から、稲作の月として<さつき>になった。<早苗>を意味する<早苗月>が約され<さつき>となった説もあるが、<早苗>の<さ>も耕作の<さ>が語源とされる。漢字<皐>には<神に捧げる稲>の意味があるため、<皐月>が当てられたと思われる。」とあります。

今日は快晴ですが、熱風ではなく、午後の帰宅したての部屋の中を通って行く風の動きは、爽やかで気持ち好いほどです。なるべくNHKのニュースを、ネットで聞くことにしてるのですが、昨日は、熱中症で救急搬送された方が大変に多く、亡くなられた方もいたと言っていました。これから梅雨、夏を迎えますが、去年の様な暴雨や異常高温にならないようにと、心から願っております。

こちらは、昨日から「児童節」、「端午節」の三連休です。朝でかけての帰りの道は、随分と混んでいました。遠出をしない家族連れの車が、町の北方にある近場の「森林公園」と「動物園」に行くのでしょうか、渋滞していました。お父さんたちは、子どもに、『どこか連れてって!』と言われて、家族サーヴィスの日になっているのでしょうか。その車の列を眺めながら、子どもたちを乗せて、あちらこちらと出かけた日々が、とても懐かしく思い出されたのです『お父さん、<イカの串焼き>買って!』と四人に言われて、『ダメ!』と言ったことが悔やまれてならないのです。もう二度とやってこない機会ですが、もし、また言われたら、財布の中を覗かずに、『いいよ、腹一杯食べな!』と言って奮発しようと思っている、「六一」の夕方です。

(写真は、”クックパッド”から、子どもたちが食べたかったのとはちょっと違う「イカの串焼き」です)