ハイジャンプ

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古代イスラエル民族には、人の価値を「金銭」で量ることが、伝統的に読み継がれている書の中に記されてあります。この「人身評価」には、次のように書かれてあります。

「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。」とです。孫たちのうち、男の子たちは、もうすでに5歳を越えていますから、60歳をはるかに過ぎた私よりも、「5シェケル」も高価だということになります。女の子も、二十歳を過ぎますと、母親よりに評価が高くなるのです。

私たち男は、61歳になると、3分の1以下の価値に激減するわけです。日本の公務員や企業人の「定年」、つまり「退職年齢」は、2013年から、「65歳」に引き上げられたようです。私たちの時代は、「60歳定年」でしたが、労働人口が少なくなってきたからでしょうか、変えられてきています。ここ中国では、男性が60歳、女性が55歳が、「定年」ですが、引き上げが検討されているそうです。まあ、「後進に道を譲る」ことは、理にかなったことなのではないでしょうか。がっかりすることはやめにしましょう。

ところが、その書の中には、「老人の前では起立せよ」、「白髪は光栄の冠である」とも書かれてあるのです。深沢七郎の小説「楢山節考」に出てきます、「姥捨山(うばすてやま)」の伝説に比べて、老いた者に対する「敬意」がることに、何となくほっとさせられます。まだ溌剌としていた壮年期に、あるお婆さんにお会いしたー時に、彼女は、『こんな汚いばばあになってしまって・・・・』と言っていたのを聞いて、悲しかったのです。誰かに、そう言われたのでしょうか。または、才色が衰えてしまった悲しさでそう言ったのでしょうか。老人は、もっと輝いて好いし、感謝されて好いのではないでしょうか。その書の勧めは、「もっと誇らしく生きるように!」との激励に違いありません。

誰でしたか、正月になると腰に髑髏(しゃれこうべ)を下げて、「正月や 冥土の旅の 一里塚・・・」と詠んで出歩いた人がいたようです。私は、「15シェケル」を満額受け入れて、こう詠みましょう。「人生の 仕上げのための ハイジャンプ」と。

(写真は、「血圧計」です)

慈母と厳父

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明日から十二月、最後の月を迎えます。どなたも、この2013年を、感慨深く思い返しているのではないでしょうか。毎年、その年を、「漢字」の一字で表すのですが、「暑」が選ばれても好いほどの猛暑、酷暑の夏を思い出します。豪雨、ゲリラ豪雨などと呼ばれた、異常な降雨量の年でしたから、「豪」も好いかも知れません。ということは異常気象の年でしたから、「異」はどうでしょうか。

小説家で、物理学者の寺田寅彦が、こんなことを言っています。『日本人は自然の「慈母」としての愛に甘えながら、「厳父」の恐ろしさが身にしみている。予想しがたい地震台風にむち打たれ、災害を軽減し回避する策に知恵を絞ってきたところが西洋と違う。』とです。日本のように、こんなに自然の恵みをいただく国は、めずらしいのではないでしょうか。でも、時としては、「雷親爺」のように、自然界が牙をむき襲ってもくる国でもあります。ビクビクしたと思ったら、満開の桜や山を萌えさせる紅葉に慰められたりされて、私たちは生きてきたのです。

二人の兄と一人の弟、四人兄弟の私たちも、母の「優しさ」と父の「厳しさ」とで育て上げてくれたことも思い出されます。そんな母に、一度だけですが、叱られたこともあります。また、あの父に、褒められたり、煽(おだ)てられたり、抱きすくめられたこともありました。剛柔、織り交ぜて両親の子育てがあったのです。

不思議な思いがするのは、父が六十一の誕生日の直後に亡くなり、父よりも長生きしている自分が、父を思い返している今、年上の感じがしないのが、なんとなくすぐったいのです。やはり、父は記憶の中にある父だからなのでしょう。もう少し長生きして、親孝行をさせて欲しかった父に比べて、長寿を全うした母の晩年の穏やかな表情が思い出されます。

今月は、二人の孫と私の誕生月なのです。みんなバラバラに別れ住んでいますから、一緒に誕生祝いをしたいのにできないのが残念です。これからの孫たちと、年々老いていくジイジの私ですが、その年齢差に、人生の面白さがあるのに気づくのです。中国語の「老」は、「老いていく」という意味だけではなく、「経験豊か」とか「箔(はく)のついた(値打ちがあって貫禄があると言ったことでしょうか)」との意味があるのです。それで、奥さんのことを「老婆(laopo)」と言います。これは、「老いてしまっておバアになってしまった妻」ではなく、「愛妻」のことです(夫のことは「老公(laogong」)。

としますと、「完成」に向かっているのでしょう。明日からの新しい月に、心を弾ませてくれることが起こることを願いたいものです。そして「箔」をつけるために、輝いた「2014年」を迎えたいですね。

(写真の花は、「水仙」です)