再見

 福岡県南部、筑後平野を流れる筑後川の河口に、久留米という伝統的な町があります。この町で、1911年3月24日に、家内の母が誕生しました。大きな商問屋を切り盛りする未亡人だった母親のもとで成長します。娘時代、貧しい人を見ると、母親の目を盗んでは、倉庫に跳んでいっては、米を手渡してしまうということを繰り返していたのだそうです。天皇が巡幸された時には、接待役に選任されて、栄誉ある奉仕もしたとか。そんなことを聞いています。「久留米絣(かすり)」で有名な、井上伝をよく助けたこともあったそうです。

 東京の女子大に学び、卒業したら、教員になりたかったのですが、母親に反対され、すぐに結婚し、6人の子をなしたのです。最初の子が生まれた時に、今の天皇陛下の「乳母」に選任されたのですが、何らかの理由で辞退したそうです。戦後、食糧難のおりに、肋膜炎を患い、死線をさまようのですが、奇跡的に医癒しました。離婚問題、子育て問題など、様々な必要のある人を助けて、今日まで生きてきたのです。私の母と町の路上で会って、生涯の友人にもなってくださったのです。

 今朝、北京時間11時半頃に、長男からメールがありました。『本日7月5日午前10時過ぎ、おばあちゃんが天に召されたと、先程、叔母から連絡がありました。これから◯◯へ向かう予定です。午後3時くらいには医大の方が献体の為に亡骸を引き取りに見えられるそうです。叔母は市役所などの手続きで忙しいそうです。 』とありました。この地上での輝かしいこと、戦争中や戦後の困難、よき業のすべてを置いて、天に帰っていったのです。101歳3ヶ月と十日の生涯でした。

 39歳の時に私が大手術を行った時には、ブラジルから駆けつけてくれ、私の傍らにいてくれました。実の母のようにしてくれた義母でした。貧しかったのを知っていたのでしょうか、東京に出て帰りしなになると、いつも握手を求めてきたのです。必ず、掌(たなごころ)に一万円を握らせる握手をしてくれたのです。自分の可愛い娘を嫁がしたのですから、その婿殿も可愛かったのでしょうか。

 人生とは長いようで、短いのですね。造物主のもとで、安からにお過ごし下さい。やがて、再び相目見ゆる日の到来することを心から信じて、さようなら!、再見の方がいいかも知れません。

(写真は、義母が子供時代に嬉々として泳いで遊んだ筑後川の夕日です)

良き指導者を!

 『家庭を治められないで、国を治めることはできない!』、『妻や子が満ち足りないで、国民を満ち足らせることはできない!』、『家族が幸福でないのに、国民を幸福にはできない!』、これは私が教えられ学んだ大原則であります。小さなことに忠実でないものには、どの社会も大事を任せることができないからです。一国の命運を握る政治は、遊戯ではないからです。「新党結成」の必要性が、どこにあるのでしょうか。自分の属した政党を離脱して、何の実績もないまま、新しい政治活動をするなどということは、万死に値します。その上、妻に三行半をたたきつけられているような人が、国運を決めてよいのでしょうか。

 もし小事を忠実にこなすなら、例えば、子育ての半分を自分が責任をとり、老いていく父や母の世話をし、町の貧しい人、病んでいる人たちに暖かな心を向けられるような人は、国体の大事を果たすことができるのです。多くのリーダーが、『私には重大な責任がある。それゆえ家庭のことなどにかまってはおられぬ!』といい、外に愛妾を囲って養う余裕を見せようとしているのです。そうなら「家庭」とは、変人にみられないための隠れ蓑に過ぎなのです。そんな家庭で育つ子どもは悲劇ではないでしょうか。

 「憂国の志士たち」は、自分の立身出世のためにではなく、国の命運が好転していくためにその青春を捧げきったではありませんか。地を這い、辛酸を舐め、打たれ投獄されながらも、明日の国の開明を信じて国家に殉じました。真の政治家たちは、命を賭して、国難に対峙してくれたではありませんか。敗戦という致命的な国情を、過ちを正し、豊かな国家形成の幻をもって立った政治家たちが、幾人もいたではありませんか。 

 その人の意思が国を動かしたと言うよりは、1億もいる国民の安寧を願う大いなる力が、人を立て、用いたに違いありません。否定的な将来しか予測できない今、そういった実績を思い起こし、その勉励努力の上に、国を再建していく、新しい指導者を心から願うのです。党利党略に死に、おのれの名誉心に死んだ、国を思う、国をなす1つ1つの家庭を考える指導者のことであります。理想的な指導者を願うのではありません。理想に向かって砕骨粉身してくれる、金に淡白な心を持つ人が相応しいのです。社会的弱者のために、金など目にくれず、東奔西走している若者たちのいることを知っています。彼らの楽天主義は、『金は必要なら後からついてきます!』と言わせているのです。

 私たちは、自分の国に責任を持って生きていかねばなりません。なるようになるといった日和見な考え方から、自分の国の再興を、切々と願おうではありませんか。彼らの末裔であるなら、きっとできるからであります。

弱音

 「弱音を吐く」、これは、自分の苦しさや辛さを口に出さないことなのかも知れません。自分の母親がそうだったので、この私も、弱音を吐くことが少なく今日まで生きてきたと思います。今回の風邪で、実を言いますと今日も37.4℃ほどあるのですが、うなされはしませんでしたが、初め頭痛が激しく、波のように一晩中繰り返していました。こういった頭痛は、初めてのことで、頭痛持ちの方の苦しさが、やっと分かったようでした。そうしましたら、今度は咳が出てきて、腹筋が痛くなるような咳だったのです。結局、最高体温は、39.4℃で、2日ほど苦しみました。こういった時に、女房は、『痛いよーう!』とか『苦しーよ!』とか言うのですが、私は、こういった言葉を使わないのです。性格なのでしょうは、じっと我慢してしまいます。「上手な感情表現」の記事を読みました時に、その著者は、痛い時には『痛い!』、暑い時には『暑い!』、苦しい時には『苦しい!』と、正直に気持ちを表現したほうがいいと言っていましたが。

 正直に自分の感情を、繰り返し言い続けるのを聞くのは、とても気になってしまうのですが、伴侶の弱音を聞くのは夫の義務なのかも知れないと、まあ納得しているのですが。母が、学校に通っている子どもたちに、『少しでも小遣いを上げたい!』という思いから、町工場でパートと働いていました。その頃は、和菓子の最中を作る工場に勤務していたのです。この工場から、家に帰るときに、向こうから大型のダンプカーがやってきたので、路側帯に自転車を寄せて、車をやり過ごそうとしていました。ところが、その車のボルトで、母の両足に大怪我を負わせたのです。町の病院に運ばれて、痛みに耐えている母の苦しそうな表情を、駆けつけた私はみました。『お母さん、大丈夫?』と聞くと、頭を縦にふって答えていました。言葉にならないほど、苦しかったのでしょう。

 その病院では治療は無理ということで、立川の共済病院に転送されて治療が行われました。なんと1年近くの入院になってしまったのです。一時は、両足切断の危機もありましたが、もち直したしたのでした。その母の負傷直後の様子と、闘病生活を眺めながら、『なんて強い母なんだろう!』と思わされたのです。生まれた時から、弱音を吐く実の母や父なしで、じっと我慢の子で独りで生きてきたので、そういった強さが培われたのでしょうか。きっと言いたいことがたくさんあったのでしょうね。いつだったか、『あなたが女の子だったら、いろいろなことを話したかったけど、男の子だから・・・』と言っていたことがありました。弱く見える母を見せたくない、大正の女の意地もあったのかも知れませんね。90歳前後から、『胸が痛い!』と時々言い始め、帰国するたびに、そう私にも訴えてきたのです。この母にして初めての《弱音》だったと思います。

 後になってから、胸部に疾患があったことが分かったのですが、私たち子どもは「異口同音に、「気分のせい」に決めつけたのでした。帰国時には、『一緒に散歩しよう!』と連れ出していました。それが真実の母の気持ちだったのを、察してあげられなくて、こればかりが心残りです。女房のように、大声で言ったほうがいいのかも知れませんね。きっと自分も、もうすこし年をとったら、弱音を吐くのでしょうか。私は母のように弱音を吐かずに生きようと思っていましたが、加齢は、信念を変えるのかも知れません。それよりも女房に似ていくのかも知れませんね。

(写真は、母の生まれ故郷に咲く「櫻花」です)

39.3℃

 《39.3℃》、日曜日に、冷房の中でうたたねしていて、『さむい!』と思いながら、消さないで昼寝を続けていました。月曜日になって、キリキリと頭が痛み始め、咳がではじめ、寝込んでしまいました。体温を測ると、この体温でした。《冷房に弱い》、これが私の体質なのかも知れません。あるとき、一日のセミナーに出席していました。『やけに寒いな!』と思いながら、我慢していましたら、この時もまた風邪を引いて寝込んだのでした。今とは違って、私たちの国でも冷房機具などなかった時代に、私たちの世代は育ちましたから、こんな厄介な病気にかかることはなかったのです。

 夏には扇風機はあったでしょうか、冬には炬燵もあったでしょう。『暑かった!』とか『寒かった!』という感覚の記憶はほとんどないのです。貧しい時代の記憶というのは、次第に薄れていくのはないでしょうか。結婚した当初、東京の都下で世帯を持ったのですが、クーラーはありませんでした。それでも問題なく生活できたのです。それからしばらくして中部の山岳地帯の街に移り住んだのですが、子育て中のわが家にはクーラーはありませんでした。私の師匠の家にはあったのですが。アメリカの南部の田舎町で、大きな電気商を営んでいた家庭で育った彼には、それは生活必需品だったに違いありません。少し羨ましかったのは事実ですが。

 熱にうなされながら、家内がアイスノンを頭に当ててくれて、『水をどんどん飲んでね!』と勧めてくれました。汗をかき、下着を変える、それを繰り返しながら、昨晩になってから、やっと37.2℃に体温が下がってきました。39℃というのは、半世紀ぶり以上の経験だったようです。小学生のとき、学校を休んで寝ていると、頭がクラクラとして、天井を見ると、その節目がだんだん大きくなったり小さくなったりする《幻覚症状》があったのです。今回の家には木板の天井材は張られてありませんで、コンクリートに白い塗料が塗られてあるので、そういった幻覚はありませんでしたが、小学生の頃を思い出していました。

 昼頃になると、熱が下がってきて、食欲が出てくるのです。すると母が、『お刺身でも食べる?』といっては、リヤーカーで挽き売りをしてくる栗山さんから買ってきて、ホカホカにたいたご飯で食べさせてくれたのでした。今回も、そのことを思い出して、『刺身が食べたい!』と女房に言おうと思いましたが、こちらでは、なかなか手に入りそうにない代物(しろもの)ですから、その言葉を飲み込んでしまいました。その代わりに、大根おろし、どこかで見つけてきた梅干し、おかゆを作ってくれて、やっと昨晩は食べることが出来ました。いつも食欲があるのですが、今回は、食欲がなく、日曜日の晩に、友人夫妻が持参してくださった大きなスイカだけを食べていたのです。

 この《冷房病》というのは、科学病、現代病、贅沢病と言えるのでしょうか。いやー、夏の高熱というのは、実にきついものです。貧乏育ちのわれわれの世代には、どうも似合わない電化機具に違いありません。食欲が出てきたので、食べたいものを思い巡らしている今であります。好きなスイカが、なおのこと好きになってしまいました。   

Oh the Places You’ll Go

2012年7月2日 09:00 (ロケットニュース24)
最高の卒業祝い! 父親が娘のために13年間かけて準備した特別な贈り物とは?

6月といえばアメリカでは卒業式シーズンである。ブレナ・マーティンさんも6月初旬に高校の卒業式を迎えた一人だ。大人社会への一歩を踏み出すその記念すべき日に、ブレナさんは父親から特別な贈り物をもらった。
ブレナさんの父親はその卒業祝いを準備するのになんと13年もの歳月を費やしていた。お金では決して買えないその贈り物にブレナさんは大感動。さらに、この話をネットで知った多くの人々に感動を与えている。
父親は卒業式の日にブレナさんに一冊の絵本を贈った。『Oh the Places You’ll Go(邦題『きみの行く道』)』という題名のその本は、人生のさまざまな出発のおりに贈られる本として知られている。
ブレナさんは本の表紙を見て喜んだ。「とっても嬉しいわ。この本、大好きだから」と。だが、父親は「いや、今その本を開けてみて」 と言う。父親に促され、最初のぺージをめくると、そこには幼稚園の時の先生がブレナさんのために書いたメッセージがぎっしり書きこまれていたのだ。
それを見た瞬間、涙が込み上げてきたとブレナさんはいう。まだ困惑中のブレナさんに対して、父親は言った。「幼稚園に入学してから今までの13年間、毎年、ブレナを教えくれた先生、コーチ、校長先生全員にブレナのことについて書いてもらってきたんだよ」
父親はブレナさんが大人への一歩を踏み出す来るべき日のために、この特別な「プロジェクト」を13年もの間ブレナさんに言わずに進めていたのだ。
事の顛末を知ったブレナさんは号泣。そして、昔の恩師たちが自分のために書いてくれたメッセージを夢中で読み進めた。本には励まされる、温かい言葉がたくさん溢れていたという。そして、ブレナさんがこの話をネット上で書き綴ったところ、多くの共感と感動の声が拡がった。
ブレナさんは文章の最後をこう締めくくっている。「こんなに感動的で、思いのこもった、懐かしい気持ちになるものをもらって、本当に驚きました。この愛情のこもった贈り物を準備してくれた父親をどれだけ愛しているか言葉にできません」
旅立ちの日に贈られたこの特別な卒業祝いは、ブレナさんにとって一生の宝物となるにちがいない。
(文=佐藤 ゆき)
参照元:imgur(英文)