久しぶりに、都会の家を離れて、海を見に行って来ました。月曜日の午前中、街中の「汽車站」から「平潭」行の長距離バスに乗り込みました。知人の男性が、『そこは家内の出身地で、家内と生まれたばかりの娘がいますので、一緒に行きましょう!』と言ってくださって、外国人の私たちだけで行く手助けをしてくれたのです。実は、友人たちに内緒にしてでかけようと思ったのですが、私たちの計画を探り出されて、家内が、『実は、平・・・』といってしまってから、その友人がみんなに電話をして、この島の出身者たちにわたりをつけてくれたからなのです。

 島に着きましたら、そこの「汽車站」に、一人の方が出迎えてくれたのです。9月から、私たちの街の大学で、英語教師を始める若い女性で、前から知っていた方でした。海を見ると歌いたくなる歌がいくつかあります。思わず、浜辺に立っている私の口からついて出たのは、唱歌の「海」でした。

海は広いな  大きいな
月が昇るし  日が沈む

海は大波  青い波
揺れてどこまで  続くやら

海にお舟を  浮かばせて
行って见たいな  よその国

海は広いな  大きいな
月はが昇るし  日が沈む

 九十九里の浜辺も、江ノ島も相良の浜辺も美しいのですが、砂浜の規模に、雲泥の差があるのです。さすが大陸の海、遠浅の海浜がえんえんと続いていて、浜の大きさと広さは半端ではないのです。対岸に台湾があるのですが、遠すぎて見ることはできませんが、さらに、その向こうには日本列島があり、はるか遠くにはアメリカ大陸があるわけで、『海は広いな、大きいな・・・』と歌ってしまったわけです。

 この季節には、毎夏、早起きして何度も静岡の海に、泊まりがけで出かけて、子供たちと過ごしました。途中、スピード違反で検問にひっかかって、切符を切られてしまったりしたこともありました。『お父さんは悪くはないよね!』と、下の息子が弁護し同情してくれたのが懐かしいです。38℃以上の高温の連続の日々でしたが、潮風は、やはり心地よく、潮のにおいも懐かしくかぐことが出来ました。泳ぎませんでしたが、海水に足を入れましたら、どうしても泳ぎたい衝動にかけれましたが、やめてしまいました。日本のような葦簀(よしず)の「海の家」があったら泳いだのですが。

 帰る前の晩、彼女のご両親が夕食に招待してくれたのです。この島独特の料理を作ってくださって、実に美味しくいただきました。海鮮の郷土料理で、ここでしか食べられないもので満腹になりました。みんなで歌ったり、お話したり、テレビまで一緒に見てしまいました。彼女は、自分と弟妹の映った写真と、お父さんとお母さんの若かり日の写真を見せてくれて、しきりにお父さん自慢をしていました。中国語で、ハンサムを「帅shuai」と言うのですが、しきりに「帅」を繰り返していて、お父さんが照れて、それで実に嬉しそうでした。胃を病んでおられて、今は、仕事をしていないのですが、他の省のトンネル工事の技術者として働いてきたのだそうです。お母さんも、始終ニコニコして歓待してくれました。

 たくさんの親切で、3泊4日の旅行を、昨日終えて、わが家に帰ってきたのです。初めての知らない島で、人と海と美味しものに出会って、帰って来ましたら、雨が降っていて、良いお湿りで歓迎されたようでした。

僕の夢

 この写真の中の文章は、小学6年生の鈴木一朗が、「僕の夢」という題で書いた作文です。『僕の夢は一流のプロ野球選手になることです!』と言って書き出しています。そのために何をしているのかといいますと、『・・・365日中、360日は厳しい練習をやっています!』と続けています。11歳の少年野球選手が、その夢の実現のために練習を重ね、プロ野球選手になります。さらにアメリカのプロ球界でも、その夢をつないで活躍し、今日に至っているわけです。

 だれもが夢をみますが、夢が実現するよりも、はかなく消えてしまうことのほうが多いのです。私の長男は、イチローよりも一学年上で、同じように、プロ野球選手を夢見ていたのです。小学校から中学と野球を続けましたが、彼の夢は成就しませんでした。決して努力が足りなかったわけでも、好いコーチに巡り合えなかったのでもありません。生きていく道、天職として付与されたのは、夢とは違ったわけです。それは挫折とは違います。別の世界で精一杯に生きている彼を見て、私はその生き方に誇りを覚えるのです。有名になることも、財産を備蓄することもないようですが、人の生きる道を、一人の人として誠実に歩んでいることに、拍手と喝采で応援しております。

 11歳の一朗が、今、38歳になりました。3歳から野球の練習を始めたといいますから、35年もの間、一つのことに集中して生きてきたことに、心からの敬意を表したいのです。どんなに素晴らしい記録を上げ、チームに貢献してきても、やはり肉体の衰えは、いかんともしがたいようです。人の全盛期、ことのほかスポーツの世界のそれは、短いものであります。40歳を過ぎても現役として活躍し続ける選手も、たまにはいますが、ほとんどは、三十代の後半は終盤でしょうか。

 『イチロー、ヤンキースに移籍!』というニュースを聞いて、アメリカのプロ野球界の厳しさを、改めて知らされたわけです。それは実績主義、成果主義の世界であって、情の入りこむ余地のない社会だからです。下の写真は、移籍会見の時のイチローの表情を捉えたものです。「男の悲哀」があふれていますが、実に男らしい顔ではないでしょうか。一つのことに打ち込んできた男の顔です。いずれ、このような時を迎えるの覚悟していたのでしょうけど、シアトル・マリナーズが「不要」を表明した直後の彼の表情です。

 戦後、芋をかじりながらほそぼそと育てられた団塊の世代の子が、イチローの世代です。敗戦で、夢が砕かれ、野望が砕かれた父や母たちが、団塊の子を生んで育てたのです。力道山がアメリカ人のプロレスラーを空手チョップで打ち破る様子を、出始めたテレビで、大声で声援して観ながら育ちました。古橋が水泳の日米競技会で活躍し、白井義男がプロボクシングで世界チャンピオンになり、日本車がアメリカ国内を疾走するようになる時代に大きくなったのです。『ベーブ・ルースやゲーリックが活躍する米球界で、まさか日本人が活躍することなどない!』と決めつけていた私の思いに反して、イチローは、さして大きくない体で、12年も活躍し続けてきているわけです。私に、力道山や白井義男を彷彿とさせてくれたのが、イチローでした。息子の叶えられなかった夢を、実現してくれたのもイチローなのです。

 今、シーズンの後半、ヤンキースの8番打者、左翼手として再スタートを始めました。彼の律儀な生き方、野球愛が、いいえ11歳の夢が継続され、ボロボロになるまで励まれるように、『ありがとう!』と言いながら、心から応援したい、そう願っております。