米沢のお殿様

 山形県の南部に「米沢」という街があります。戦国武将の中でも、飛び切りに名の高い、仙台の伊達政宗が、生まれた街であります。元々、伊達氏の所領でしたが、江戸時代には、上杉氏の領地となって、明治維新まで続きました。紅花で染め分けた「米沢紬(つむぎ)」で有名で、近年は、リンゴやさくらんぼなどの果実生産でも高く評価されているいます。

 日向の国の高鍋藩主の次男・治憲が、10歳で上杉家8代藩主・重定の養子となります。重定の娘・幸姫を妻に迎え、1767年、家督を次いで、第9代藩主となります。17歳でした。日本に276の藩があったのですが、その中でも名君と称される人物はそう多くありません。この上杉治憲(後に鷹山と称します)ほどに優れた「大名(だいみょう)」はいなかったのではないでしょうか。国家を動かしたのではありませんが、十五万石ほどの小藩の藩主として、その手腕を十二分にふるって、藩政の改革を断行したのです。

 彼の結婚生活ですが、彼の妻は、知的障害を持っていました。治憲は、心からの愛情と尊敬を持ってこの妻を愛します。10歳ほどの知的能力しかない妻に、人形を作ったり、遊び道具を与えたのです。20年間、妻の亡くなる日までその愛は変わりませんでした。藩主として「跡取り(継承者)」が求められて、子を産めない妻に代わって、10歳年上の「側室」を、一人だけもっただけでした。その側室は、米沢に置き、妻に対しての配慮を忘れませんでした。側室との間に子どもたちが与えられますが、しっかりと家庭教育も行いました。

 彼は、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしてはいけない』、『貧しい人々へ思いやりの心をもて』、『恩(親と師と君主)を忘れてはいけない』、『徳を高めなさい』と、子たちを教えました。嫁いでいく娘には、『生まれた国に相応しく貞淑でありなさい』と言葉を残したのです。理想的な家庭を建設した人として、治憲は名高い人物です。
 
 その鷹山(治憲)が、家督を譲るに当り、藩主の心得として伝授したものに、『伝国の辞』があります。ほんとうに短い3条だけのものですが、上杉鷹山が考えていた「藩主像」は、次のようです。

(写真は、米沢城の堀です)

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
   (国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはな
   らないものです)

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
   ( 人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです)

一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
   ( 国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられてい
   る国家や人民ではありません)」

 このような理念で、日本という国を建て上げるなら、堅固な国家として再構築できるに違いありません。《政治の私物化》が日本を駄目にしてしまいそうな危機感の中、自分の居室の畳を張り直そうともしない治憲のような指導者を、心から願う必要があります。私たちには、賢い先人たちの知恵があふれるほどに残されているのです。不変の真理に、耳を傾け、謙虚に学び、実行して行かれるようにと願う次第です。