朝になると、『ナットーオ、ナット!』、夕方になると、『トーフーウ、トウフ!』、夏になると、『キンギョーエ、キンギョ!』、『サオダケーエ、サオダケ!』と売り歩く呼び声が、よく聞こえたものです。最近では、車のスピーカーから録音が流れている場合が多いでしょうか。ここでも、美味しくて有名な饅頭の曳き売りが、夕方近くになると、何人もが同じ呼び声で、自転車とか三輪車、電動自転車売で歩いて売る声を聞きます。日本も中国も同じ風情の中で日常が送られてきているのをひしと感じているところです。イタリアやポルトガルあたりに行くと、同じ光景を見られそうですね。
兄の友人が、豆腐屋の倅だったので、夕方になると自転車に大きな木箱をつけて売り歩いていました。中学生だったから、「勤労学生」だったことになりますね。お父さんがいたのかどうか知りませんが、家業を継いで店を切り盛りしているのでしょうか。それにしてもトウフとか納豆というのは、スーパーで特売品目になっているので、大量生産を安価で卸しているので、曳き売りは競争することができなくなってきたのではないでしょうか。
食べ物や物干し竿だけではなく、「クズヤ」とか「バタヤ」と呼ばれるおじさんが、三輪車を曳きながら、『クズヤーア、クズヤ。お払い物はありませんか?』と歩いていたのを思い出します。そういうおじさんの手伝いをして、ドブ川の中に入って、金属物を拾ったことがありました。僅かな小遣いをもらったでしょうか。母に怒られたのを思い出します。
四国に「大王製紙」という、あの「エリエール」という香りの好いティッシュペーパーで有名な会社です。この会社の創業者は、三輪車を挽いて町から町を歩き回り、「廃品」を回収して歩いていたと聞きます。その主要なものが「古紙」だったそうです。彼は集めリだけでなく、加工も始めたのです。新聞紙をくしゃくしゃとしてハナを噛んでいた時代ですから、アメリカ文化の影響で、やわらかなちり紙が箱に入って出回るようになり、一挙に需要が伸びたのが、このティシュペーパーでした。そういった時流に乗って、日本有数の製紙企業に成長した会社です。四国に行きましたとき、この会社の門前を車で走ったのを覚えています。
遠慮なんて全くない、いたずら小僧の私たちは、『バタヤーッ!』と遠くから呼びつけては、からかったりしていました。ところが、このおじさんの家に行って驚いたのは、いくつかの小さな会社の責任をもっていた父などとは比べられないほどの、立派な家に住んでいたので驚きました。地道に、廃品を集めて回って生きていると、そんな利益をあげられるのですね。私は山の中から八王子という、東京西部では大きな町に越してきたとき、クラスに「バタヤ」の娘がいるということで、弁当箱を手にお金を持って買いに行ったのです。ところが「バター」などなく、お父さんは廃品回収業だったのです。肺炎を病んで、父が滋養が高いといって、東京のデパートから取り寄せてくれた「バター」を舐めて元気になってきたので、母に願って買いに行ったわけです。笑い話ですね。
車の台数が増え、町が綺麗になり、高層アパートが林立する中、巷の風情が、この華南の地にはまだまだ残っているので、ちょっとほっとします。道路際に題を出したり、ゴザを引いたりして、いろいろなものを売る店が、家の前の道路にあふれていたのですが。この数ヶ月、市役所の監督の規制でしょうか、なくなってしまいました。『ブーブー!』と独特な音がして、『オイ、コラ、道路を開けろ!』で散っていってしまうのです。果物など、普通の店には比べられなく安かったので、利用価値があったのですが。他の地域の路地裏などには、まだ盛んに露店で物を売っているようです。これも、衛生問題などで、年々減っていく風情なのかも知れません。さびしいものです。
(写真は、〈1956年ころの甲府市内で見かけた「金魚売り」です)