祭りも近いと 汽笛は呼ぶが 荒いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が 日暮りゃ恋しく なるばかり
小川のせせらぎ 帰りの道で 妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに 仔馬は集い 鳥はなく
あー 誰にも 故郷がある 故郷がある
お嫁にゆかずに あなたのことを 待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは 杏の花の まっさかり
赤いネオンの 空見上げれば 月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと 想い出します 囲炉裏ばた
あー 誰にも 故郷がある 故郷がある
1973年に、作词、山口洋子、作曲、平尾昌晃、歌、五木ひろしの「ふるさと」がレコードとして発売されました。この年に、20年ぶりに生まれ故郷の街に戻った私にとって、この歌は、とても印象的に聞こえ、『この山や川の街がお前の故郷だよ!』と、再確認してくれたのです。生まれて二ヶ月半の長男を連れて東京から帰ってきたことになります。まだ生まれた家が廃屋のようにでしたが残っており、幼い日に駆け巡った山や川や原っぱの景色も、20年の歳月によってはかき消されてはいませんでした。そこは父と母の故郷ではなく、戦争中、軍務によって赴任してきた父の勤務地だったのです。
秋には、アケビの実を取って米びつの中に入れては追熟をさせ、柿をとり、栗を拾い、川では魚をとるといった、まさに、小学校唱歌の『うさぎ追いしかの山、小ぶなとりしかの川・・・」の世界だったのです。長女、次女、次男とこの町で生まれました。家内と私にとっては、子育てという大きな責任を、社会的な責任と同じように共に果たした土地でした。たくさんの人と出会い、交わりを持ちましたが、ほんとうに心を許すことの出来た人たちは、やはり僅かでした。裏切られたり、中傷されたりもありました。心を許せる人との出会いは限りがありました。私にとって故郷であっても、この地の方言を話せませんから、どうしても「余所者(よそもの)」に過ぎず、封建的で閉鎖的な土地では、なかなか溶けこむことは難しいものがあったのだと思います。
父の仕事場のあった山の中には、もう知人はいませんでした。父の事務所のあった街中には友人や知人がいて、『雅ちゃん!』と呼んでくれる人も召されてしまってからは、その方のご遺族とは没交渉になってしまいました。でも、源氏の落ち武者の部落だと言われる土地に、30近くになっていた私を見て、『雅ちゃん?』と呼びかけてくれた父の元部下に会ったのは驚きでした。父の知人がいなくなり、そして私は、その「ふるさと」を6年前の夏に去ったのです。
しかし、そこには、家内の妹が義母を見るために、私たちに変わって越してきてくれて、残っていたのです。義母が昨日召されましたから、もう私の「ふるさと」には誰もいなくなったことになります(義妹も近くその町を去るかと思いますが)。故郷の父も母もなく、親族や知人がいなくなってしまったら、「ふるさと」は思い出、記憶の中にしかないことになりますね。『・・・あー 誰にも 故郷がある 故郷がある 』淘汰にはありますが、一歩も百畝も遠のいてしまったでしょうか。「さらにすぐれた故郷」のあることを確信し、異国の生活を続けてまいりましょう。
(写真は、あけびの実です)