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代議士の西村眞悟氏が、次のような記事を投稿されていました。その一部を引用してみましょう。『・・・そこで、店舗を各国に展開するコンビニのセブン・イレブンが各国の店舗内に設置した義援金箱に入れられた金額を公表しているので、それをご紹介したい。言うまでもなく、コンビニは子供から大人までの普通の庶民が、大金を持たずに日常の買い物をする場所である。従って、一店舗当たりの義援金額は、その国の国民の素朴な対日感情を表していると思われる。これは、我が国の友好国は何処なのかという我が国の国家戦略にも影響を与えるべき要因である。次が、各国内のセブン・イレブン店舗内の義援金箱に入れられた一店舗当りの金額である。
第1位、インドネシア 108519円
第2位、台湾 63892円
第3位、シンガポール 20491円 2011.08.08 Monday name : kajikablog 』
親日家のインドネシアのスカルの大統領が、大変好んだ日本の歌があるようです。「愛国の花(昭和13年、作詩・福田正夫、作曲・古関裕而で、渡辺はま子が歌いました)」です。彼自身もよく口ずさんだと言われています。
1 真白き富士のけだかさを こころの強い楯として
御国につくす女等は 輝く御代の山ざくら
地に咲き匂う国の花
2 老いたる若き諸共に 国難しのぐ冬の梅
かよわい力よくあわせ 銃後に励む凛々しさは
ゆかしく匂う国の花
3 勇士の後をあとを雄々しくも 家をば子をば守りゆく
優しい母や、また妻は まごころ燃える 紅椿
うれしく匂う国の花
4 御稜威のしるし菊の花 ゆたかに香る日の本の
女といえど生命がけ こぞりて咲いて美しく
光りて匂う国の花
インドネシアは、16世紀頃から、特産の香辛料の権益を得ようとしていた、イギリスやポルトガル、そしてオランダなどの国が、覇権を競って植民地化を画策していましたので、そういった動きの矢面に立たされていました。しかし18世紀に入りますと、インドネシア全土がオランダ統治下におかれてしまいます。そのオランダの植民地であったインドネシアが、独立していくために、日本と日本軍の果たした役割は実に大きなものがあったのです。もちろん、日本の軍政下におかれた時期がありましたが、日本の敗戦後に、再びオランダがインドネシアを支配しようとしたときに、スカルノらによる独立運動が起こり、その運動に、残留していた日本軍が協力を惜しまなかったのです。ついに1949年12月に、独立が国際的に承認されるのです。 その残留日本人への感謝を込めて叙勲も行われております。
白人支配下にあったアジア諸国の先駆けとなって、日本が勇敢に戦ったことを、このインドネシア国民は高く評価しているのです。とくに日本の軍政下に置かれたときの司令官が、今村均中将で、その軍政は、実に紳士的で、未だにインドネシアの学校の歴史教科書には、その軍政の模様が記されているとのことです。この今村中将の甥子が、私の大学の級友でした。彼のお父さんも軍人で、ベルリンで行われたオリンピックの「馬術」で惜しくも優勝を逸っした西中尉(ロスアンゼルス大会では優勝)の補欠として参加したほどの馬術の名手でもありました。戦後、山西省に残留し、昭和24年4月、太原攻防戦に敗れた残留部隊は、解放軍に投降しました。今村方策隊長(中国の「百度百科」でも、写真付きで来歴が紹介されていますhttp://baike.baidu.com/view/3324446.htm)は、その直後、敵将と掛け合い、部下の身の安全を確認し、青酸カリを飲んで自決したのです。戦時下で、日本軍兵士が、虐殺だけしかしなかったのではなく、インドネシアでも中国でも、現地人から尊敬を受けた兵士たちが、またいたことを覚えておきたいものです。
父君が、武人として、部下から敬慕された上官で、中国の蒋介石軍にも解放軍にも尊敬された方だったのですが、級友も、また凛々しい男だったのを思い出します。日本の過去を否定だけするのではなく、輝いていた過去、戦時下にも、敬意を受けていた人々のいたことを知るべきかと思うのです。大震災に見舞われた日本へ、そういった過去を評価するインドネシアのみなさんの草の根の支援が、抜きん出て多額なことは、よい対日感情の表れなのであります。
(社員は、インドネシアの「一風景」です)