凡に生きる

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 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 (詩篇9010節)』

 この水面に竿さす人の姿が、私は大好きなのです。静かな湖面に竿をさし、どこから来たのでしょうか。どこへ行くのでしょうか。対岸の家に帰るのか、または友人を訪ねるのか、それを私は知りません。

 竿を肩にする姿がいいのです。目を水面に向ける真剣さが伝わってくるのです。どうも渡し舟ではなさそうです。この人は、きっと魚を獲る漁師で、漁をしているのでしょう。その魚を売って、家族を養い、子に漁を教えるのです。自分の生涯をこの一事に捧げて生きています。

 この人のお父さんも、そのようにして生きていたにちがいありません。まさに凡(おお)に生きる人たちなのです。彼も彼の子も孫も、父親の後を継いで、父のように生きるのでしょう。ありきたりの一生を繰り返して、受け止めて生きていくのでしょう。

 エンジン付きの大きな船を操縦することだってできそうです。でも、そうしないのです。大海に漕ぎ出すことだってできそうです。でも、そうしないのです。父親のように凡に、この川に生きてきているのです。

 誰かに励まされたり、また貶(けな)されることもなく、ただ寂寞の中を、流れに棹さして生きるのです。流れるのは、川ばかりではなく、時代も世代も全てが流れて、元のままではないわけです

 一人で生まれ、孤(ひと)で生きて、そして独り死んでいくのです。でも、神さまの見守りがあったのを覚えていません。この絵の水面は、今は静かなのです。大雨を受けて激流、濁流になることもあったのでしょう。わが家の下を流れる巴波川を、春夏秋冬、朝な夕なに眺めて、源流の「しめじが原」のことなどに思いを向けています。

 『それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇9012節)』

 それゆえ、私たちは、自分の分の生きる日々に思いを向けるように、神さまはおっしゃるのです。幸いな日も、辛い出来事の日もあったのです。喜んだ日も悲しんだ日もあったのです。いつか、その舟も竿も子に譲る日、死すべき日が来るのです。その日を迎えても、慌てないためにです。人の世は短いのです。

 しかし神さまは、《永遠の神》でいらっしゃるのです。そして、凡に生きてきた私たちも、永遠に生きられるのです。私の日を定められた神さまを信じ、飛び去る日が来るまで、祈りながら定められた日々を、また凡に生きるのです。神と伴に。

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遥かなる野に咲く桃花

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 共に礼拝を守った方からのメールに添付されていた、この春の「桃の花」の写真です。もうすでの桜の季節は終わって、桃の花の季節が、華南の地にはやってきているようです。「桃源郷(とうげんきょう)」とは、《陶淵明の「桃花源記」に描かれている桃林に囲まれた平和で豊かな別天地から》俗界を離れた別世界。仙境。理想。》だと、goo辞書にあります。

 山梨県の富士五湖地方から甲府盆地へ行く、山越の道路を通りますと、眼下に「桃色の絨毯」のような、濃いピンクの桃畑の景色が広がるのです。一面、勤勉な農夫が手入れした桃畑に花が溢れるのです。短い時にしか見られない光景で、圧倒されてしまったのです。

 それに比べ、この写真は、一本の枝に咲く桃の花なのですが、長く過ごした地に訪れた春の便りを、思い出させてくれるように知らせてくださったのです。5年ほど前に、梅林に連れて行っていただき、梅の香と花を楽しんだのを思い出します。帰りに、ご夫妻と息子さんと五人で、郷土料理のレストランに案内してくださって、〈花と団子派〉の私は、両方を楽しませていただいたのだのです。

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 春が来て、春に花々が咲くと、真冬の縛りの氷解の時の到来を告げるのですが、国と国、民族と民族、人と人の関係が解かれ、和む時が来るように願わずにいられません。昨日は、若い友人が、私たちを春の川辺に連れ出してくださいました。帰りに、「いちご大福」を買って、わが家でお茶の時を持ちました。美味しい春でもあります。

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注意注意のこの頃です

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 「呼子(笛)」と言う whistle をご存知でしょうか。時代劇の映画で、同心や与力や町方が奉行所から出てくる場面がありました。その与力や〈岡っ引き(奉行所の同心という今でいうお巡りさんの私的な従者をそう呼んでいました。)〉が、町中で、怪しい犯人に出会うと、仲間を呼ぶために吹く笛が、この呼子笛なのです。

 何年か前に、家内が、散歩中に珈琲&お土産屋さんで、私に買ってくれた〈リストバンド(wristband )〉があります。それには、方角磁石と、この「笛」がついているのです。

 歳をとってきたので、行方不明になったり、転んで怪我をしたりした時に、助けを呼べるようにと、買ってくれたのです。昔、子供たちが出かける時につけた〈迷子札〉と同じで、〈迷爺札〉まで持ち歩く今日この頃なのです。

 昨年暮れあたりから、大平山に熊が出没しているとのニュースを聞きましたので、大平散歩には、これを携行しているのです。先日、百均に行きましたら、〈熊出没時の鐘〉が売られていました。買いませんでしたが、そうしましたら、先日の大平山行きの折に、年配のウオーキング姿の方が、上の方から降りて来られて、その鐘を鳴らしながら歩いておられました。

 春分の日に、孫娘の高校合格の知らせのために、長男家族が訪ねてくれました。一緒にお昼をし(息子夫婦が逆招待してくれました)、進級した孫息子のために祈る時もありました。その出先で、〈熊退治用鐘〉を買ってしまったのです。そんなことで、自分の身を守るためや、救助を認めるための緊急連絡用に、多くの護身工夫をしようと思っています。

 自転車は、家内の入院中に、退院したら乗れるように買った婦人用自転車(ママチャリ)から、中古ですが、折り畳み自転車に換えています。そして、しっかり〈ヘルメット〉もかぶっているのです。一昨日のメールで、すぐ上の兄に、〈転倒注意〉を促されました。倒れたら再起不能になる可能性大と、兄が主治医に言われたとのことで、その注意の分かち合いでした。なお、注意注意の今日この頃であります。

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やっぱり面白さいっぱいのBaseball

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 「出藍の誉れ」ということばが、印象深く感じられてしまいました。これは、弟子が師匠の学識や技量を越えることのたとえ。[由来]「藍」は染料に使う藍草のこと。藍草で染めた布は藍草よりも鮮やかな青色となるが、その関係を弟子と師匠にあてはめて、弟子が師匠の学識や技術を越えるという意味。学問の重要性をうたった荀子の言葉に由来する。[出典]「荀子」勧学。

 ワールド・ベースボール・クラッシック(World Baseball Classic で、日本野球がアメリカチームを破って、優勝を決めました。この野球の起源ですが、次のように説明されています。

 『野球の起源は明確にはされていないが、イギリスの球技である「タウンボールtown ball」が、イギリス系移民によってアメリカに持ち込まれた後に変化し、野球として形成されたと考える研究者が多い。1830年代から1840年代に原型が成立した後、主にアメリカの北部で盛んとなり、南北戦争(18611865年)を機に南部にも伝えられたことでアメリカ全土において人気を博するようになった。19世紀後半を通じてルールに大幅な改良が加えられ、現在の形となった。(ウイキペディア)』

 日本に伝えられたのは、次のようにです。『南北戦争に従軍後、お雇い外国人教師として来日する。1873年(明治5年)に第一大学区第一番中学で英語や数学を教える傍ら生徒に野球を教えた。同校は翌年から開成学校(現東京大学)となり、立派な運動場ができると攻守に分かれて試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、そこで野球を体験した人達が中心となって野球は日本全国へと広まっていった。現在の繁栄する日本野球の種をまいた人としてその功績は計り知れない。(「野球殿堂博物館」より)』

 アメリカに始まり、日本に伝えられてから150年の節目に、WBCの大会で、AmericaNational team を、32で破って勝って、優勝を決めてしまったのです。これは、まさに「出藍の誉れ」ではないでしょうか。

 ウクライナでは、兵器を用いた〈戦い〉が行われて続けている現在、ボールとバットを用いて、野球の世界選手権が、平和の内に行われたのです。母国の名誉のために、平和的な《闘い》が行われるのは、人類が、どれほど平和を希求しているかの象徴的な表れだと感じてなりません。

 子どもの頃に、石ころや水たまりの中で、三角ベースの野球をし、父と家の前の道路でキャッチボールをし、青田や千葉や川上や小鶴や大下などのスター選手の活躍に胸を踊らされたのです。そこには夢がありました。すぐ上の兄は、その夢を追いかけ、野球が好きで、高校野球に青春を燃やしました。

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 あの太平洋戦争には、日本はアメリカに負けたのですが、戦時下には、中学校野球、都市対抗野球、東京六大学野球などの大会が相次いでが中止された中、「職業野球(今のプロ野球です)は、野球ファンにとって唯一の娯楽だったのです。敗戦国日本は、そのアメリカの助けで、廃墟から立ち上がることができました。

 敗戦国の子どもたちの栄養補給のために贈られた “ LARA 物資 “ の粉末牛乳(鍋で煮て教室で配られました) を飲んで、強固な体をいただいた、われわれ祖父の世代、その孫たちの世代が、平和の内に、闘いを繰り広げて決勝で、《恩》を返すことができたのでしょう。

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 投打に秀でた大谷翔平選手が、相手チームの善戦ぶりを賞賛する姿は、まさに、麗しい Sportsman ship で、感動的でした。勝って、有頂天になって驕らない態度は素晴らしかったのです。

 さて、私たちの孫が、アメリカの高校の〈YAKYUboy 〉で、選抜チームで活躍中です。日米の血を継いでいるので、今回の日本チームに招聘された ラーズ・ヌートバー(Lars Taylor-Tatsuji Nootbaar )選手の背景と同じなのです。

 やはり野球は面白いスポーツです。準決勝で、メキシコチームに向かって、大声援の中で、短く拍手したのが大谷翔平でした。彼には、相手に対しての respect (敬意)が溢れています。勝っても、相手への思いを忘れないのは、どんな賞にも劣らない優れて高貴な振る舞いでした。試合後のインタビューで、ダルビッシュ選手が、臆する若手に、楽しく野球できるような務めを果たしたことを、大谷翔平が大きく評価していたことが素晴らしかったのです。

 今日は、たまの温泉日でしたが、施設のテレビ中継に見入ってしまい、勝利の瞬間を見届けることができました。

(高校生の時に作成した「大谷翔平ノート」です)

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観覧車などを思い出して

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 週初め、宇都宮に、「まちなかメディカルカフェ in 宇都宮」の定例の集いがあって、家内と一緒に行って来ました。以前、一緒に礼拝を守っていた姉妹の紹介で、この会を知ったのです。県都には、行く機会が少ないのですが、久し振りでした。この東武宇都宮駅の近くに市の福祉センターがあって、その10階の窓からの宇都宮の近傍の景色は、美しかったのです。

 子どもの頃、山間部の家から、街に連れ出してくれた父が、父に事務所のすぐそばに、一軒の百貨店があって、そこの屋上に、「観覧車」がありました。それに兄弟みんなで乗せてもらった覚えがあります。兄たちは、父の会社の索道というケーブルに乗って、山奥の採掘場や材木置き場に連れて行ってもらったことがあったようですが、幼い弟と私には、父は許可しませんでした。

 それでも、百貨店の屋上で、その上で回転して上下する観覧車に乗った記憶があるのです。昨日、私たちの降りた東武宇都宮駅の古写真があって、その屋上の風景も映っていました。そこに「観覧車」が写っていて、子どもの頃を思い出したのです。周辺の子どもたちも、一度や二度は、ここの百貨店に連れて来てもらって、観覧車に乗ったのでしょう。デズニー以前の世の中でした。

 お昼には、百貨店の上階に大食堂があって、そこで「お子さま昼食(あの頃はランチなんて言わなかったでしょう)、カレーだったか、オムライスだったかを食べたんじゃあないかな、と思い出しています。古き良き時代だったのです。

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 そういえば、「サーカース」にも、父は連れ出してくれたのです。ライオンはいなかったのですけど、馬とかピエロとか、空中ブランコなんかがあったのだと思い出します。街は賑やかでよかったのですが、自然が溢れた山の中で、幼児期を過ごせたのは、はるかによかったと思すのです。

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 東京に出て来て、級友の女の子が、「バター屋」をしていると聞いて、弁当箱を持って買いに行ったことがありました。肺炎になって退院してから、父は、滋養強健のために、瓶に入ったバターを、いつでも舐められるようにしてくれていたので、自分でも買ってみようと思って、母におねだりしたのでした。ところが、廃品回収をする人を「バタ屋」と言うのだそうで、何も買えずに家に帰って来たのです。

 兄たちも弟も、バターを食べるのを、父に禁じられていたのだそうで、「一人天下」だったのを思い出して、特別扱いの子ども時代を思い出して、兄弟たちに申し訳なさを覚える今の私です。

(以前の「東武百貨店」です)

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負うた子に教えられての今

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 『ぼく、イエスさま、だいすき!』と言った、まだ幼かった息子に、『お母さんもイエスさま、大好き!』と答えると、『じゃあ、イエスさまを半分ずつだよ!』と答えが返ってきたのです。大好きなイエスさまを、母親に取られたくなかったのか、何時でも分け合わなければならない、4人兄弟の中で育ちながら学んだので、愛して大好きなイエスさまを半分ずつに分け合うことを提案したのかも知れません。子どもって、本当に面白いと感じたことです。

 聖書の中に、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若いときの子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は・・(詩篇127・3~5)」とあります。私に、4人の子どもがあることを聞かれた方が、思わず『ブッ~!』と笑われたことがありました。その時の雰囲気からしますと、軽蔑したと言うよりは、意外だったことと、二人の子のお母さんの目からは、『ちょっと多すぎるんじゃあない!』と言った思いからの笑いだったと解釈しています。

 この方のご主人は、中堅企業の部長をされていて、重役でもありました。ところが、私はパートで働きながら牧師をしていたのです。『我が家では収入が少ないから、子供を育てることが出来ないのです!』と言われる方がいて、子どもを持たないようにしておいでです。それででしょうか、2020度、一人の女性が生涯に産む子供の数が、《1.33》だと、ニュースが報じていました。

 私は4人の子どもを与えられたと信じているんです。決して自分たちで計画して産んだのだと思っていません。詩篇の記者が言うように、子どもは「賜物」で「報酬」だと信じているのです。もちろん経済的な理由だけではないと思いますが、この少子化傾向は、さらに『加速していく!』と危惧されています。

 もう十数年前になりますが、私の「矢筒」の中にある子どもたちで相談したのでしょうか、親を心配して、長男からは、e-mailで長々と問い合わせてきました。また長女が代表して電話をくれました。『お父さん。これからは、もっとリラックスして生きたらいいよ。私たちはお父さんが分かっているんだ。』と言ってきました。彼らには、、とうの昔から、私の弱さが理解されているのでしょうか。

 『可愛い子には旅をさせろ!』と言われたように、彼らを遠くにやって、生活させられたことは、よかったのだと思うのです。でも一番の喜びは、彼らが、主を恐れて生きることを知って、主が、いまだに大好きなことであります。 

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 片道の燃料だけで飛んで行って、復路の可能性を断ち切った神風特攻機のような生き方ではなく、十分な燃料を積んで、帰って来ることも、他の土地に移動することも自在に出来るような、柔軟性のある生き方を、私の老後にして欲しいと願ったのだと思うのです。私が憧れた生き方が、まだ続いているのでしょう、それを心配しているようです。

 本当に、『そうだ!』と思いました。それまで、だいぶ肩を張って頑張り過ぎて、生きて来たかも知れないからです。『お父さん。人にお願いすべきことは、謙ってお願いすべきだと思うわ!』、と自分の責任だけで立とうとしている私に忠告してくれたのです。『負った子に教えられ』たわけです。

 『みんなで大好きなイエスさまを分け合うことにしよう!』、と今でも思わされている、「春告花」、桜があちらこちらで七分、八分の知らせが入る今日この頃です。

(満開の「思川桜」です)

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ベツレヘムの星

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 先週、大平山名物の焼き鳥、団子、卵焼きでのお昼をしに行って、ご一緒に食べたご婦人が、ご帰宅後の玄関の脇に咲く花を撮って送信してくださったのが、「辛夷(こぶし)」と、もう一つは、この「ベツレヘムの星」です。

 「みんなの花図鑑」に次のようにあります。『日本へは明治時代の末期に渡来した。 観賞用に栽培されているものが逸出して野生化している。 英名はスターオブベツレヘム(star of Bethlehem)である。 キリスト生誕を知らせたベツレヘムの星にたとえられた名前である。 和名はアマナに花が似ていることからつけられたものである。 ただし、本種は有毒なので食べられない。 属名のオーニソガラムやオルニソガルムの名も使われている。 属名の Ornithogalum は、ギリシャ語の「Ornithos(鳥)+gala(乳)」からきている。乳白色の花の色を表している。』

 日本名は「オオアマナ(大甘菜)」で、それに比べ、英名には、夢や希望があります。東方の博士を導いた星になぞらえた花なのです。その星は、ことさらにベツレヘムの満天の夜空を輝かせたのです。この星について、聖書は次のように記しています。

 『イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。(マタイ2112節)』

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 救い主の誕生後に、このような出来事があったのです。イエスさまは、恐れるヘロデの殺害計画を免れて、父なる神のご計画された「救い」を成就されておいでなのです。東方の博士たちを、この「万軍の王」の元に導いた「星」が、「その方(王)の星」であることが知らされていました。この幼子が、異邦人の博士たちに、「救い主」、「王」であることを知らされたのには、驚かされます。それで幼子を目の前にして、彼らはひれ伏して礼拝したのです。

 『 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(黙示録2216節)」

 まさに、イエスさまは「輝く明けの明聖」でいらっしゃると、自らも言っておられます。その聖書の記事に関連づけられて、地中海沿岸を原産地として咲いている花に、「ベツレヘムの星」と命名したのは、素敵ですね。

 それが下野の野辺の家の玄関に植えられて、春を告げるように咲き誇っている様は、素晴らしいことです。冬の夕空に、また朝方の黎明に孤高の光のような金星が光り輝くと、「あの方の星」を思い出すのです。

(「ベツレヘムの星」と「明けの明星(中日新聞撮影)」です)

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アネハヅルの飛翔を

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 『神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。 神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」 夕があり、朝があった。第五日。(創世記12023節)』

 姉羽鶴が、上昇気流の発生の時を読み、隊列を組んで飛ぶ、あのヒマラヤの高峰を飛び行く「飛翔力」を備えているというのは、創造者である神さまが与えておられに違いありません。動植物が、危険や安全を察知する能力は、生まれながらに備えられているわけです。このアネハヅルを、詠んだ茨木のり子の詩に、「鶴」があります。

鶴が
ヒマラヤを超える
たった数日間だけの上昇気流を捉え
巻きあががり巻きあがりして
九千メートルに近い峨峨(がが)たるヒマラヤ山系を
超える
カウカウと鳴きかわしながら
どうやってリーダーを決めるのだろう
どうやって見事な隊列を組むのだろう

涼しい北で夏の繁殖を終え
素だった雛もろとも
越冬地のインドへ命がけの旅
映像が捉えるまで
誰も信じることができなかった
白皚皚(はくがいがい)のヒマラヤ山系
突き抜けるような蒼い空
遠目にも賢明な羽ばたきが見える

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なにかへの合図でもあるかのような
純白のハンカチ打ち振るような
清冽な羽ばたき
羽ばたいて
羽ばたいて

わたしのなかにかわずかに残る
澄んだものが
激しく反応して さざなみ立つ
今も
目をつむればまなかいを飛ぶ
アネハヅルの無垢ないのちの
無数のきらめき

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 駅伝がブームで、とくに大学選手権のかかった箱根や出雲のレース、高校や一般、女子にまで行われています。母校や所属の市や県や企業団体の栄誉を襷に結んで、懸命に疾走しています。かつては地味な運動競技で、駅伝コースには、まばらな応援者しかいませんでした。

 それは孤独との戦いばかりではなく、自身の走力の限界ギリギリを、苦難の行者のように、走者はぎりぎりで、まかされた区間を走るのです。襷を渡して倒れ込む姿を見て、『もう二度と走らないだろうな!』と思うのは、傍観者の私たちだけで、彼らは、翌年または走るのです。車で、あの駅伝コースの箱根の山を走ったことがあります。足で走る難儀が、それで分かったのです。

 群れの先頭をゆくアネハヅルは、限界を迎えると、次に先導鶴が代わるのだそうです。群全体を見守り、その飛翔する群れは整然とし、統率されているのです。彼らには、母校などありません。誇りもないのです。神から賜った《いのち》を繋ぐために、励まし、支え合って飛ぶのです。創造者に信頼して、賜った本能を働かせて、群れで飛んで行くのです。

 私たちも、ヒマラヤのような高い山の経験があり、フィリピン海溝などの深みの体験がありながらも、激励者、慰籍者、先導者なる神さまに導かれて、己が人の道を生きるのです。肉親や指導者や友、家族に励まされ、様々があって、それらすべてが益でした。救いに預かった者の幸いをかみしめている今です。

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感謝な朝を迎えて

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 氷が溶けて、水がぬるみ、木々の梢が茶色から淡い桃色に変わってくると、待望の春が感られると思い出すのが、孟浩然の五言絶句の「春暁」です。

春眠不覚暁(しゅんみんあかつきをおぼえず)
処処聞啼鳥(しょしょていちょうをきく)
夜来風雨声(やらいふううのこえ)
花落知多少(はなおつることしるたしょう)

 この作者の孟浩然は、それほど出世欲が強くなかったそうです。泰然自若な生き方をした人だそうです。当時は、「科挙」に受かることで、人の価値とか任官の地位も収入も、決まっていました。この人は、それほど強欲に合格を願わなかったようです。「詩聖」と言われた、同時代人の杜甫が3回も受験しても、合格しなかったように、この人も三度不合格だったようです。

 困っている人を看過ごすことができないで助けたり、金品に対してはきっちりと生きた人だと言われ、総じて大らかな人だったのです。李白たち、同時代の詩人たちに尊敬され、今流、日本流に言う、『孟先生!』と呼ばれ敬意を受けていたようです。

「春眠」を、躊躇もしないで楽しめる、自然を愛し、その自然の季節の動きに応じて生きていける人だったに違いありません。当時の役人は、朝早く起き、夜遅くまで働いていた中で、任官しなかった孟浩然は、自然人のようにして生きていたのです。

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もう早寝、早起きが身についてしまって、朝寝坊など人んどしたことがない私ですが、たまには、ベッドの中でグズグズしてみたいこともありますが、なかなかできません。父親が、そういった朝を迎えていたのをみたことがありませんので、父譲りの寝起きなのかも知れません。

先日も、起き抜けに、ガタッつと地震がありました。茨城県南部が震源でした。ああ言うのが、春眠を打ち破る自然界の働きなのでしょう。磐石だと言われる建物も、耐震装置があってもなくても揺れるのです。人が積み上げ、築き上げた物を、揺らしてしまうのです。12年目を過ぎた東日本大震災の記憶が、まだ消え去りません。

建物も持ち物も、自分を支えているのではなく、「巌なる主」とおっしゃる神さまがお支えくださるのを確信し、今朝も目覚めて、新しい日を、感謝して迎えております。昨日、わが家を訪ねてくださったご婦人と、一緒に私たちは外出をして、お昼を一緒にしました。そのご婦人のお宅に咲く木蓮の花の写真を送ってくださいました。

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あ な た

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 日本語クラスで、「作文」の前期後期の講座を指導を、主にさせていただきました。教科書はありませんでしたので、一コマ一コマの教材を準備したのです。どう展開するかのヒントを、同じ街の師範大学で教えておいでの日本人教師から教えていただきました。旭川の高校で英語教師をされ、退職後、その職を得ておいででした。

 ある時、どうしようかとを思い巡らせていた時に、映画俳優の渥美清が、アフリカのロケ先から、お母さまに書き送った手紙があると言うことを知って、探したのです。ありました。

『拝啓、おふくろさま。僕、元気。』

 コメディアンだからでしょうか、文才に長けていたからでしょうか、実に簡潔な手紙を書かれていたのです。こんな無事の便りを書くことのできることを知って驚いたのです。さらに、南極探検隊にご主人を送り出された奥さまが、書いた手紙もありました。

『あ な た!(文字ひとコマ空きもquotation mark はありませんでした)』

 この方が、夫婦愛の極致、具現とも言うべき文面には、度肝を抜かれたのです。離れている距離や期間が遠く長いほど、たくさんのことばで綴りたいはずなのに、それを押し殺して、「ひらがな三文字」の手紙を書いた情愛に驚かされました。

 当時、福井県坂井市丸岡町の「丸岡文化財団」が、「日本一短い手紙」を募集していたのです。それで、私のクラスの履修者に、「短い手紙」、「三行ラブレター」などを書いてもらったのです。三年学んでいる学生への挑戦でした。その作文資料は、引越し、引越しでどこに入り込んだか消失してしまいました。ずいぶんと傑作がありました。

 1993年に、日本一短い手紙」の第一回の募集があって、今も、この手紙の募集が続いているようです。次のような文章が、受賞されています。

父さん、老人病院でも

また窓際族だね。

でも今度は、神様がよく見える

特別席だよね(お父さんへ)

 

どうせ大好きなんだから

お母さんに「愛してる」って言ってあげなよ。(お父さんへ、17才男)

 

迷ったら

笑顔がうまれる方へ、

進んで下さい。(こどもたちへ、52才女)

 

てんきんってわるもんが

せんせいをつれてった。

やっつけるから、もどってきて。(せんせいへ、4才)

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