『こころよき言は蜂蜜のごとくにして 霊魂に甘く骨に良薬となる。(文語訳聖書 箴言16章24節)』
私が生まれた街、当時は、郡部で山の中の村でした。後に合併によって大都市の一部になった村なのです。その地域には、方言があって、独特な言い回しがありました。家の中では、標準語でしたし、自分は病弱で外で遊ぶことが少なかったのですが、それでも方言が、今でも、ひょっとすると出てくるのです。
その方言の中に、「よっちゃばれ」と言う言葉があります。人が集まること、集まっている状態、集まりを、そう言うのです。『教会は、いろんな人の〈よっちゃばれ〉です!』と言う言い方です。性格も、関心も、価値観も、教育も、生活程度も、思想も違う人たちが、呼び集められていると言う意味で、「よっちゃばれ」なのでしょうか。
最近、そう言った「人の集まる場」がなくなっているのではないかなと思うのです。集まることを嫌う人たちが増えているわけです。我慢したり、自分を押さえたり、周りの人に合わせたりして、気を使うのが嫌な人が多くなって、一人でいた方が気楽でいい、そういった人が増えているのでしょう。不登校や不出社なども、そんな理由もあるかも知れません。
漢字を学び始めた頃に、「人」」と言う字が、人が人に支えられた状態を表す象形文字だと学んだのです。人は一人では生きられず、家族や仲間や友人がいて、彼らに支えられ、自分も誰かの支えになる、それが人であるわけです。” person “ は、ギリシャ語が元で、” perusona ” で、“ per” と “ sona ” に分けられ、「(前置詞で、〜当たり、〜毎に」と「声」の合成語です。声をかけ合って交わる者を言っているのでしょうか。
そばにいるだけではなく、言葉を介しながら交流をしながら、生きるように、神さまは、「人」を造られたのではないでしょうか。人と話すのは、時間も必要ですし、待ったり、聞いたり、感じたりしなければならないので面倒なのでしょう。それで、面倒を避けて、一人でいるのを、現代人は、とくに好むようになっているようです。
高校の頃に、後ろの席に座っていた同級生とは、喋った記憶がないのです。話しかけても、ニコッとしたり、目を向けるのですが、言葉を交わさなかったのです。知る限りでは、誰とも話さなかったのです。教師との受け答えはしていたのにです。ある有名中学から、その高等部に進まないで、入学してきたのです。決心して一生懸命に勉強して、東北地方の優秀な国立大学に進学していきました。その後の消息は不明です。『こんな奴がいるのか!』と思った変った同級生でした。
親子の間で、兄弟の間で、級友間で会話がない人が多くいるようです。一人でいるのがいいのです。でも、人は言葉を語るように造られてありますから、言葉を引き出して上げる人や機会が必要なのです。そう言った場を提供している人たちがおいでです。群馬県下で、駄菓子屋さんを経営していらっしゃる方は、店にやって来る子どもたちのために、「人とつながる場」を設け、子どもたちに提供する努力をされておいでです。「居場所」、「思い出を作る場所」なんだそうです。
そんな場所が、日本中に、いえ世界中にあったらいいですね。人は、究極的には、孤独ではいられないのです。孤独の中に閉じ込もってしまった原因があるのです。それを解いて上げたら、人はもっと快活に生きていけるようになります。面倒なことを避けないでいられるような場を提供し、機会を設けたら、人は心を解き放つことができるのでしょう。「よっちゃばれ」が機能しますように!
「教会」は、そのような場でもありますし、教会の主であるイエスさまとの交わりの場でもあります。人だけの交わりだけでないことが、人と人との関係を最善に保つことができる場となります。賛美し、みことばを聞くことによる「父と子と聖霊」なる神さまが、「二人、三人集まる中」にいてくだるのです。
.