イギリスに学ぶ

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 イギリスと言うよりは、大英帝国というべきなのでしょうか、それほど歴史と格のある国家と言えるでしょうか。でもアジアやアフリカなどの国々を植民地化するような横暴な支配を行った歴史もありますから、手放して格付けするのも問題は残りそうです。

 日本が、封建国家から脱却して、近代国家となっていく過程で、その模範としたのが、この大英帝国でした。長州藩士の志道聞多(のちの井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、野村弥吉(のちの井上勝)の五人が、洋行留学(密航してイギリスに留学)をしたのです。「長州五傑」と言われる面々でした。1863年、明治維新の5年ほど前のことでした。同じ時期に、薩摩藩は、19名の留学生がイギリスに密航しています。アメリカではなかったのです。

 ところが、四カ国連合(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)が、長州藩の下関を砲撃する事件、「馬関戦争」が勃発してしまいます。それを聞くと、井上と伊藤は、危険を冒して帰国をします。その井上は、後の三人には残って、学びを続けるように命じるのです。

 残った山尾は造船業を学び、明治維新政府の殖産興業の要職に就き、野村は鉄道を学びました。野村はのちに「井上勝」と名乗るのですが、「日本鉄道の父」と呼ばれるほどの活躍をしています。また遠藤は大蔵省に出仕し、貨幣制度を研究して、「日本造幣の父」と呼ばれるに至ります。あの大阪造幣局の桜の通り抜けは、実は遠藤が発案なのです。伊藤は「日本内閣の父」、井上は「日本外交の父」ということで、5人とも、維新後に新政府の要職に就くのです。明治元年の1868年に帰朝しています。

 少なくとも、明治維新後の日本が、欧米に遅れをとっていたものを取り返していくために、この五人は留学したこと、ロンドンでの学びは意味深いものがあったことになります。明治初期に、イギリスの影響を強く受けたことは、意味深いものがあったことになります。

 いつでしたか、journalist で、tourist writer の兼高かおる女史が、TBSのテレビ番組の「兼高かおる世界旅行」で、30年以上も世界中を訪ね歩いて、つぶさに見聞した方でした。その仕事を終えた時に、次のようなことを、兼高かおるさんは言っているのを聞いたのです。『もう一度、ここぞという思いで訪ねたい国はどこですか?』と聞かれて、この方は、『イギリスを訪ねてみたい!』と言っておいででした。

 それが若い私には、印象深かったのです。政治家や学者ではなく、journalist の目で見た世界で、強烈な印象を残した国という点で、私も、イギリスを訪ねてみたい思いにされたのです。イギリス人には、蒸気機関車のスチーブンソンがいて、ブラウニングという詩人がいて、アフリカ大陸を宣教し探検したリビングストンがいます。彼らは、その生涯を終えて、ロンドンの Westminster Abbey(ウエストミンスター寺院)に葬られています。

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 また、“Never,never,never give up 、ナチス・ドイツの猛攻の前に、母校の後輩たちに向かって、そう言ったのが、ウインストン・チャーチルでした。悪の枢軸に屈することのない、不屈の思いを持って、イギリス国民を鼓舞した首相のことばは、実に重いものがありました。

 この有名な言葉は、19411029日、チャーチルが学んだ母校であった、ハーロー校(Harrow School)で行った演説で語ったものでした。同窓の後輩たちに向かっての演説でした。戦時下のイギリスの真っただ中で、対ドイツとの戦いは余談を許しませんでした。そんな時局に、チャーチルは、自分の心の内にあった確かな信念と強い意志を、後輩たちに告げたのです。

 多分、この地上でなされて、数限りない演説の中で、最も強烈で、強く人々に迫ったことばの一つと言えるでしょうか。このことばは、戦争という国家的危機状況の中で、政治を任された責任者としての、強固な決意が込められていたのです。映えある大英帝国が、どんなに困難な状況に立たされても、決して絶望しないでいること、最後まで戦い続ける決意を鼓舞したのです。それは、イギリス国民に、希望と勇気を与えたのです。

 チャーチルは、戦争の終わった後も、イギリス国民を導いた政治家でありました。1965124日(日曜日)彼はその、90年の生涯を終えています。130日に、「国葬」が営まれ、棺は、「聖マーティン教会( Church Street, Bladon, Woodstock, Oxfordshire, England )」に運ばれ、両親の葬られた同じ墓地に葬られています。ちなみに、時の日本の岸信介首相(長州閥の流れを汲む人でした)も、葬儀に臨席しています。人間は、棺に覆われて、その生涯の全てが評価されるのでしょう。

 「和魂洋才」と言う、不思議な slogan の下に、日本の国作りが行われていくのですが、お隣の群馬県は、養蚕業のメッカで、絹糸の生産の牽引車であった「富岡製糸場」があったことで有名です。わが家に、時々訪ねてくださるご婦人の写真が、この富岡製糸場の記念館に張り出しあてあると言っておられました。実家でも養蚕をされていて、ご自分は、製糸場で働かれたのだそうです。この製糸業は、フランスに学んでいるようです。輸出で得た資金で、日本は国作りをし、工業化と軍国化をしていったわけです。

(ウイキペディアによるスチーブンソンの蒸気機関車、チャーチルの学んだハロー校です)

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