名をもって呼ばれる神

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 『まことに誠に汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は、盜人なり、強盜なり。 門より入る者は、羊の牧者なり。 門守は彼のために開き、羊はその聲をきき、彼は己の羊の名を呼びて牽きいだす。   悉とく其の羊をいだしし時、これに先だちゆく、羊その聲を知るによりて從ふなり。 他の者には從はず、反つて逃ぐ、他の者どもの聲を知らぬ故なり』 (文語訳聖書 ヨハネ伝1015節)』

 『示しがつかなくなることと、尊敬の意味で、自分の牧師には、「さん」ではなく「先生」と呼ぶように、信者に言っています!』と、先生呼称主義でない、「さん主義」の群れで育った私との〈先生呼称〉の問答で、同世代の牧師さんたちが、そう答えが帰ってきました。

 私が学んだ学校も、伝統的に教師をお呼びする時は、” Mr and Mrs “ だったのです。もちろん英語にも、” reverend ” と言う呼称があります。ところがアメリカの教会から派遣された宣教師であり、教師であった方の始めた Mssion School だったので、伝統的にそういう呼称でした。聖書で、教会の主であるイエスさまは、「先生」について、また「父」について、次のようにおっしゃられています。

 『されど汝らはラビの稱を受くな、汝らの師は一人にして、汝等はみな兄弟なり。  地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、すなはち天に在す者なり。(文語訳聖書 マタイ伝2389節)」

“But be not ye called Rabbi: for one is your Master, even Christ; and all ye are brethren.And call no man your father upon the earth: for one is your Father, which is in heaven.” KJ version

 この呼称の一件は、そう簡単ではなさそうです。「先生」付きで呼ばれてみると、けっこういい気持ちになるのは事実です。四人の子どもたちの父親への呼称は、抵抗がありませんが、それでも、ある教会では、牧師さんを、「霊の父」、「霊父」であるとしています。これには、やはり聖書的には問題がありそうです。ヘブル書に、次のようにあります。

『汝らを導く者に順ひ之に服せよ。彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば、汝らの靈魂のために目を覺しをるなり。彼らを歎かせず、喜びて斯く爲さしめよ、然らずば汝らに益なかるべし。(1317節)』

 信仰を指導してくださる方への「従順」や「尊敬」や「感謝」を表すことで良いのではないでしょうか。私の親しかった宣教師さんは、信者さんからの「感謝」のことばを受けると、その「感謝」を主にお渡しして、ご自分では受けないような生き方をされていました。主の前に、ご自分は、当然なことをしたに過ぎないと思われたからでしょう。問題というのは、天国では、この二つの呼称はないからです。きっと、名前で呼び合うのでしょう。神さまが、名を呼ばれる方でいらっしゃるからです。

 実際、職業としての教員を、実は女子校で、しばらくの間やったことがあって、初々しい声と表情の女子学生から、「先生」って呼ばれると、何か嬉しい気持ちがして、ウキウキしてきたのです。

 私が就職した最初の職場は、研究所でした。先生と呼ばれた過去を持つ職員と、そうでなかった職員との間に、何かぎこちない関係があったのです。しかもその方の教え子が、同じ職場にいたからです。同世代の課長でも、教員ではなく、調査機関にいた人にとっては、面白くなさそうだったのです。

 先日、ニュースをラジオで聞いていましたら、刑務所の中での呼称に変化があったのだそうです。刑に服している人を、「さん」付けで呼び、刑務官を「先生」から「さん」に変えたのだそうです。入ったことがまだないので、「番号」で呼ばれていたと思っていたのに、今度は「さん」になって、戸惑いがあるのではないかなと心配しています。もっと戸惑っているのは、刑務官で、先生でもないのに「先生」と呼ばれ続けて来ての変化は、ちっと混乱することでしょうか。

 中国には、「先生/ xiansheng 」と言う言い方があります。大人の男性を「先生」、大人の女性女性を「女史/ nvshi 」と言うのです。ですから、ご主人を、奥さんは、『私の夫です!』と言う時に、『我的先生wodexiansheng』と言っていました。まさに、先に生まれたことであって、決してが偉さではないのですが、丁寧な言い方なのかも知れません。職業の先生は「老/ laoshi 」です。

 私たちの社会では、相手をからかう意味で、そう呼ぶこともあるようです。でも多くは、相手をいい気持ちにし、おだての意味で、そう呼んでいます。

 鼻持ちならないのが、先生同士で、相手を呼び合う時に、「先生」と呼び合うことです。また事務の方が、教師を呼ぶ時に、そう言います。世間から離れた世界で、世間知らずのみなさんの世界で、使われているように感じます。でも、この良いところは、名前を忘れてしまった時に、思い出さないで済む呼称で、便利なのでしょう。

 面白い経験が、私にはあります。著名な牧師さんを、特別伝道集会にお招きした時に、男女お二人の伝道師の方が随行して来られ、わが家に、女性伝道者が泊まられたのです。私たちの教会は、先生の呼称のない教会でしたし、宣教師はいましたが、助手はいても伝道者の呼称を、私は持ちませんでした。初め、この伝道師は、「先生」と呼んでいたのですが、私が献身者だと分かってから、「兄弟」と呼び方を変えて、彼女は一段高くなられたのです。学校では先生でしたが、教会では先生でない私は、こう言った変化に、不思議さを覚えたのです。

 でも今、小学3年生のお嬢さんが、私のことを『ジュンさん!』と、お母さんが言うように、同じく呼びかけてくれるのです。名前で呼んでくれるのはいい気持ちで、これって、なんともいえない素敵な関係ではないでしょうか。主なる神さまは、「名をもって呼ばれ神」でいらっしゃいます。

(Christian clip artsから「羊飼い」のイラストです)

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