魯迅

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仙台市の郊外に、耳鼻咽喉科があって、そこに入院し、手術を受けたことがありました。東京近辺にも上手な鼓膜再生手術をす医師がいるのですが、知人からの『仙台に名医がいます!』との紹介があって、身の回りの持ち物を鞄に詰めて、北に向かって東京駅から新幹線に乗りました。

仙台駅から、地下鉄に乗って、下車駅からタクシーで、目当ての病院に着き、五日間ほど入院し、手術を受けたのです。私の耳の鼓膜は、左右とも再生手術が必要とのことでした。術後の痛さは格別なものがありました。

帰京する日、仙台市内を見物をしようと、市内遊覧バスに乗って、伊達政宗の居城であった青葉城址(仙台城)に行ってみました。病院の周りは住宅街でしたが、駅周辺は綺麗な街でした。幕末の戊辰戦争での消失はなかったのですが、太平洋戦争末期のアメリカ軍の空襲で、城が消失してしまっていました。広瀬川が緩やかに流れていて、静かなたたずまいを見せていたのです。

この街には、戦前、仙台医学専門学校がありました。今の東北大学の医学部に当たります。東北大学のサイトに次の様にあります。

『この建物(仙台医専6号教室)は、「近代中国の父」といわれる文豪魯迅(ろじん)が学んだ場所、「魯迅の階段教室」として広く知られています。 1904年の建築後、改修・移築を経ながらも、今なお彼が留学していた頃の面影を残す歴史的な佇まいを見せています。』
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「狂人日記」や「阿Q正伝」や、この教室で教えを受けた、藤野厳九郎先生を語る「藤野先生」を著しいている魯迅は、1904年に、この医学校で学び始めています。やがて医学から、同国民の啓蒙のために文学に転向していくのですが、その切っ掛けとなったのは藤野先生との出会いと教えでした。その経緯は次の様に伝えられています。

『2年生に進級した魯迅は、細菌学の授業で思いがけないくらいに悲しいものを目にする。当時医学校では講義用に幻灯写真を用いていたのだが、授業時間が余ったときなどは日露戦争の「時局幻灯」を映して学生に見せていた(このころは日露戦争で日本がロシアに勝ったということで日本中がその勝利に浮かれていた)。そこでは、日露戦争のニュースで、ロシア軍スパイを働いた中国人が中国人観衆の見守る中、日本軍兵士によって首を切られる場面が流れており、観衆は万雷の拍手と歓声をあげたのだ(幻灯事件)。文章の中ではこのように書かれている。「いつも歓声はスライド1枚ごとにあるが、私としてはこの時の歓声ほど耳にこたえたものはなかった。のちに中国に帰ってからも、囚人が銃殺されるのをのんびり見物している人々がきまって酔ったように喝采するのを見た―ああ、施す手なし! だがこのときこの場所で私の考えは変わった。」魯迅は、今必要なのは医学ではなく、国民性の改革だと考えを変え、医学を捨てて仙台を離れる決意をしたのだった。』

魯迅は、「中国近代文学の父」と称されるまでの文豪になっていきます。今でも、魯迅は仙台市民に覚えられていて、「魯迅記念広場整備事業」が、仙台市によって進められ、2021年に完成予定だそうです。落ち着いたら、また訪ねたい街であります。

(魯迅の誕生地の「紹興」と学んだ東北大学の教室です)

分からない

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日本語の中には、漢語が溢れています。漢文を素読していたのですが、漢語を和語(日本語)に付け加えて、日本語が形成されてきたわけです。中学の国語の授業で、「漢詩」を学んだ時、「五言絶句」や「七言絶句」に、〈レ〉とか〈一〉とか〈二〉を付記して、日本語で読むのを学んだのです。


この李白の漢詩を、

早に白帝城を発す 李白

朝に辞す白帝彩雲の間
千里の江陵一日にして還る
両岸の猿声啼いて住(や)まざるに
軽舟已に過ぐ万重の山

と読むのです。その歯切れのよさに、私は、いっぺんに心を捉えられてしまって、漢詩の虜にされてしまったのです。外国語を、こんな風に、勝手に読んでしまうというのは、日本人の特技なのでしょうか。

それででしょうか、ヨーロッパ言語が、日本語の中に、独自の翻訳で入り込んできたわけです。幕末から明治初期のことでした。いわゆる「和製漢語」です。同じ時期に、日本で学んだ中国のみなさんが、それを母国に持ち帰って、中国語の中に取り込んだのです。

電気/電話/電車/自転車/病院/弁当/手帳/野球/雑誌/美術/組合/警察/出版/倫理/哲学/文化/原子/時間/空間/速度/温度/概念/理念/教養/義務/経験/会話/関係/理論/申請/演出/活躍/基準/主観/否定/接吻/失恋/目的/健康/常識/現金/工業/輸出/不動産/領土/投資/市場/企業/国際/経済/指数/債権/政治/革命/解決/社会/主義/法律/共産党/左翼/幹部/指導/議会/協定/市長/人権/批評/特権 他(OTONA LIFE | オトナライフから)

10年近く、中国の学校で、日本語を教える機会があったのですが、学生さんたちに、日本由来の中国語のあることを伝えた時に、みなさんには衝撃的だったのを覚えています。『まさか!』と思ったのかも知れません。

わが家では、テレビがない代わりに、“らじる?らじる” という、インターネットで放送されるNHKのニュースを、家内と二人で聞くことで、その日の社会の動きを知らされています。夕方6時50分頃になると、『ニュースを聞こう!』と言っては聞き始めるのです。

ラジオでニュースを聞いていて、家内と私の共通した思いは、十数年留守をしている間に、『カタカナ語が多くなって分からない!』、なのです。《美しい日本語》を持つ国なのに、必要以上にカタカナ語が濫用されているのではないでしょうか。ここまでの文章にだって、インターネット、テレビ、ニュース、ラジオと、カタカナ語を使ってしまっています。

でも最近、とみにカタカナ語が氾濫しているのではないでしょうか。都知事も、官房長官も、解説をする大学の先生たちも、必要以上に使い過ぎているに違いありません。それでニュースの全体が、伝わってきていないのです。それで、『ぜひ、用語の説明をしてほしい!』と思うことしきりです。

曜日感覚

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昨年の帰国以来、生活の仕方が、大きく変わってきているのです。それまでは、週に二日、学校に通い、日曜日の倶楽部活動に関わり、週の半ばには友人宅で交わりをすると言った、大体決まった型で、華南の街での生活がなされていました。家内も、小中学生に、週末に日本語を教えたり、外国語学校の先生たちの研修会や婦人たちの交流会で奉仕したり、人を訪問したりの、ほぼ決まった生活リズムがありましたが、病気をしてから一変しました。

昨年の四月の退院以降は、通院日が、週一、そして3週に一度の月曜日になり、今では、4週に一度の通院に変わってきて、〈曜日感覚〉が変わったのが一番大きいのです。ことさらコロナ旋風が吹き荒れてからは、その感覚が増し加わって、ゴミ捨ての日が大切な日になってしまったり、生活に変化が出てきています。

それでつい、『今日は何曜日?』と家内に聞いてしまいます。やはり単調な日が繰り返されていて、多忙で急な近代人の生活から、本来の人間らしい生活のリズムに戻ってきた様に感じています。

ハワイのカメハメハ王は、日の出と同時に起きて、日の入りに従って床に着くと言った生活をしていたのだそうで、次の様な歌までできています。

南の島の大王は
その名も偉大なハメハメハ
ロマンチックな王様で
風のすべてが彼の歌
星のすべてが彼の夢
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ

南の島の大王は
女王の名前もハメハメハ
とてもやさしい奥さんで
朝日の後に起きてきて
夕日の前に寝てしまう
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ

南の島の大王は
子どもの名前もハメハメハ
学校ぎらいの子どもらで
風がふいたら遅刻して
雨がふったらお休みで
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ

南の島に住む人は
誰でも名前がハメハメハ
おぼえやすいがややこしい
会う人会う人ハメハメハ
誰でも誰でもハメハメハ
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ
ハメハメハ ハメハメハ
ハメハメハメハメハ

この人は、性格が明るかったそうですが、ハワイを統一した人で、その名前の意味は、「静かな人」、「孤独な人」なのだそうです。私の息子の同級生で、同僚は、サモアの酋長の息子で、酋長を兄弟に譲ってしまったそうです。アロハシャツが似合って、ウクレレの演奏も上手です。

『何時か、さんさんと太陽の陽が降り注ぐ、常夏のハワイに行けたらいいなあ!』と願いながら、行動規制が引かれ、活動範囲が狭められた今を、そんな願いで過ごしている最中です。専門医や研究者によりますと、秋口、寒い冬になるまでは、十二分に自重した生活を送る必要があるそうです。

そんな私たちの生活は、4週に一度、息子の送迎で、通院する日が、唯一変化の日なのです。前回は、おにぎりを握って、病院の近くの川辺の東雲公園で、それを頬張ったのですが、家内は、大きめを二つも完食していました。次回も、『おにぎりが食べたい!」』のだそうです。

また、今年も、新しく住み始めた家のベランダで、朝顔の苗が伸び始めています。華南の街の家のベランダに咲いた朝顔の種を持ち帰ろうと準備していたのですが、急な引き上げで、どこかに入り込んでしまって、見当たらなかったので、近くのドラッグストアーの種売りの棚から買ったものが蒔かれて、芽を出しています。咲き出す日を楽しみにしております。

(壬生町の「東雲公園」です)

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国難

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江戸幕府が、長崎の「出島」で、中国とオランダとの通商だけを許して(朝鮮王朝と琉球王朝とは外交はありました)、海外との交流を禁止した、「鎖国令」が出されたのが、1639年でした(実際には、1633年に第一次鎖国令が出され、1639年には、第五次鎖国令が出されたのです)。そんな鎖国が終わるのが、1854年の「日米和親条約」ですから、215年もの間、西欧諸国との文化や物のや人の交流はなかったわけです。

その鎖国下に、独特の日本文化が育ったことになります。武士だけではなく、町人でも、農民でも、文字の読み書きができ、お金の計算・算術ができ、武士たちの生き方の影響が庶民の間に、歌舞伎などの演芸や書物を通して、及んでいたのです。知的水準は、ヨーロッパ諸国よりも高かったのです。それは幕末の日本にやって来た、欧米人が驚いたことでした。

鎖国が終わろうとしていた1853年7月8日午後5時に、ペリーの率いるアメリカ艦隊が、三浦半島の浦賀沖にやって来たのです。いわゆる「黒船」です。国を挙げての一大事、まさに「国難」でした。江戸幕府の役人以外で、最も早い時期に、浦賀に駆けつけたのが、佐久間象山でした。自分の目でアメリカ艦隊を観察したのです。その時、彼が携行したのが、<望遠鏡>でした。象山は、ただの烏合の衆ではありませんでした。すぐさま象山は、浦賀の港を見下ろせる山に登るのです。そこからアメリカ艦隊の様子を見て、大砲の数や、その威力までも記録します。

幕府の船も、野菜や水を売ろうとする船も、木っ端の様な木造船、一方、アメリカ艦隊の戦艦は、蒸気で動く黒い鉄の船で、大きさは比べられないほどでした。これを観察検分した象山は、「攘夷(じょうい/西欧からの外敵を追い払おうとする考え)」から「開国」に、いち早く考えを転換してしまうのです。「精神論」や「伝統」に拘らないで<時を読む>ことに早い人であったことになります。

そう言った広く、遠くを見渡せる人材が、幕末には育っていたわけです。<新しいものの考え方>をする人がいたので、日本は、西欧諸国との遅れを短期間で挽回することができ、先進の西欧諸国と肩を並べられたのです。力関係を保つために、軍事力の増強で、「富国強兵」が叫ばれて、結局は、軍事優先がもたらしたのが、太平洋戦争での敗戦、無条件降伏受諾に至ったわけです。

象山が、浦賀に駆けつけたのは、彼が、1811年生まれですから、42才でした。この年齢くらいの人材が、政治行政の責任者に就いたら好いのではないでしょうか。新しさと古さの間で、双方を知った賢明な判断や決断が、その年齢くらいが、最も冴えているのかも知れません。現在も、若い世代に任せ切ったら、昏迷の中から国も自治体も会社も学校も、抜け出られそうです。ただ、象山の<玉に瑕(きず)>は、自信過剰で傲慢な人だったそうですから、年齢はともかく、そうでない人柄が相応しいのです。

そう、我々の世代は、一線を二歩も三歩も退いて、<ご隠居>が似合いそうです。そして、象山に倣って、心の望遠鏡で、遠く過去をを眺め、大観の眼を養い、さらには、心の顕微鏡で、今の細かなことにも気を張りができるものでありたい、そう願う五月の下旬です。

(1654年に描かれた「黒船」です)

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バラ

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散歩の帰りに、いただいて帰ってきた、紅白のバラです。ベランダから見えるオタクの庭に咲いているバラを、近くに行って眺めていた家内に、住人に老婦人が分けてくださったのです。華南の街の七階に住んでいた時も、下の階の方が、鉢分けしたバラをいただいたことがありました。華南の真っ青な空の中で、実に綺麗だったのを思い出します。急な帰国で、挨拶せずでした。お嬢さんに、日本語を、家内が教えていました。

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真に危険なこと

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このサイトからの記事(共同通信社)です。
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イタリア北部、ミラノにあるアレッサンドロ・ヴォルタ高校のドメニコ・スキラーチェ校長が書いたメッセージです。

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ヴォルテ高校の皆さんへ

 “保険局が恐れていたことが現実になった。ドイツのアラマン人たちがミラノにペストを持ち込んだのだ。感染はイタリア中に拡大している…”

 これはマンゾーニの「いいなづけ」の31章冒頭、1630年、ミラノを襲ったペストの流行について書かれた一節です。この啓発的で素晴らしい文章を、混乱のさなかにある今、ぜひ読んでみることをお勧めします。この本の中には、外国人を危険だと思い込んだり、当局の間の激しい衝突や最初の感染源は誰か、といういわゆる「ゼロ患者」の捜索、専門家の軽視、感染者狩り、根拠のない噂話やばかげた治療、必需品を買いあさり、医療危機を招く様子が描かれています。ページをめくれば、ルドヴィコ・セッターラ、アレッサンドロ・タディーノ、フェリーチェ・カザーティなど、この高校の周辺で皆さんもよく知る道の名前が多く登場しますが、ここが当時もミラノの検疫の中心地であったことは覚えておきましょう。いずれにせよ、マンゾーニの小説を読んでいるというより、今日の新聞を読んでいるような気にさせられます。

親愛なる生徒の皆さん。私たちの高校は、私たちのリズムと慣習に則って市民の秩序を学ぶ場所です。私は専門家ではないので、この強制的な休校という当局の判断を評価することはできません。ですからこの判断を尊重し、その指示を子細に観察しようと思います。そして皆さんにはこう伝えたい。

 冷静さを保ち、集団のパニックに巻き込まれないこと。そして予防策を講じつつ、いつもの生活を続けて下さい。せっかくの休みですから、散歩したり、良質な本を読んでください。体調に問題がないなら、家に閉じこもる理由はありません。スーパーや薬局に駆けつける必要もないのです。マスクは体調が悪い人たちに必要なものです。

 世界のあちこちにあっという間に広がっているこの感染の速度は、われわれの時代の必然的な結果です。ウイルスを食い止める壁の不存在は、今も昔も同じ。ただその速度が以前は少し遅かっただけなのです。この手の危機に打ち勝つ際の最大のリスクについては、マンゾーニやボッカッチョ(ルネッサンス期の詩人)が教えてくれています。それは社会生活や人間関係の荒廃、市民生活における蛮行です。見えない敵に脅かされた時、人はその敵があちこちに潜んでいるかのように感じてしまい、自分と同じような人々も脅威だと、潜在的な敵だと思い込んでしまう、それこそが危険なのです。

 16世紀や17世紀の時と比べて、私たちには進歩した現代医学があり、それはさらなる進歩を続けており、信頼性もある。合理的な思考で私たちが持つ貴重な財産である人間性と社会とを守っていきましょう。それができなければ、本当に ‘ペスト’が勝利してしまうかもしれません。

 では近いうちに、学校でみなさんを待っています。』

(ミラノの街の様子です)

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ヘーゲル

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昔は、中学校五年を終えると、大学に入学する前に、3年間の予備門の過程がありました。一高、二高、三高、旅順高等学校と言った様に、「旧制高校」があったのです。戦後、この予備門は、大学の教養過程になっていきます。一高は「東京大学」、二高は「東北大学」、三高は「京都大学」でした。

高校生たちは、学生服にマントを被り、高下駄(朴歯)を履きながら、街を「蛮カラ」に闊歩したのだそうです。その時の愛唱歌が、「寮歌」でした。ちなみに、中国大陸にあった「旅順高等学校寮歌(作詞・作曲は宇田博)」は次の様な歌詞でした。

1 窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人一人
涙流れてやまず

2 建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし

3 富も名誉も恋も
遠きあくがれの日ぞ
淡きのぞみ はかなき心
恩愛我を去りぬ

4 我が身容(い)るるに狭き
国を去らむとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か

5 今は黙して行かむ
何をまた語るべき
さらば祖国 わがふるさとよ
明日は異郷の旅路
明日は異郷の旅

書を読み、哲学を語り、将来の夢を分かち合い、放歌高吟し、その三年間は、素晴らしい時だったそうです。私の父は、「秋田鉱業専門学校(現在の秋田大学資源学部)」に学んだと言っていました。また私の最初の職場の上司は、「浦和高等学校」、「東京大学」に学んだそうで、酔うと、時々、学生の頃を語っていました。

また、「篠山節」の一節をも歌ったそうです。

『旧制高校の学生たちに愛唱された。掛け声のデカンショは哲学者デカルト、カント、ショーペンハウエルの略とされるが、盆踊り歌「デコンショ」や「デゴザンショ(出稼ぎしょ)」からという説も。代表的な歌詞は、「デカンショデカンショで半年暮らすアヨイヨイあとの半年寝て暮らすヨーオイヨーオイデッカンショ」。』

昔の学生さんは、哲学者を歌い込んで、蛮カラ気取りだったのでしょう。この三人の哲学者の他に、「ヘーゲル(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 – 1831年11月14日)がいました。ドイツのシュトゥットガルトの出身で、哲学の世界では著名で、旧制の学生に慕われていたそうです。

この人は、1831年に、「コレラ」に罹って亡くなっています。この「コレラ」は、東アジアで大流行をしたのが、幕末から明治にかけてでした。鎖国が解かれて、開国の動きの中で、日本でも、「コロリ(コレラに罹ると“コロリ”と亡くなったので、そう言われたそうです)」と言われて大流行したのです。

グローバル化の中での、今回のコロナ禍の動きに通じるものがありそうです。この時期に、難しいヘーゲルの書を紐解くのもよいかも知れません。

( ” Pinterest “ から旧制高校の学生の姿です)

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よいしょ

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もう「死語」になってしまったかも知れませんが、日本家屋に、「縁側」とか「縁の下」とか「濡れ縁」と呼ばれる所がありました。父母と一緒に、一番長く過ごした家には、縁側がありました、板張りで、「廊下」でもありました。外庭と家の中の境界線に、作られた、外と内とを分けた、少々「曖昧(あいまい)」な一郭があったのです。

来客が来ると、部屋から部屋ではなく、隣の部屋に行く「通路」でした。正式なお客さんは、玄関から迎え入れて、畳の客間に案内して、そこに卓(テーブル)があって、座布団を進めて、茶菓でもてなし、談笑するのです。ところが近所の方が、ブラリと寄ると、「縁側」や「濡れ縁」に腰掛け、足は庭におき、迎えるこちらは縁側に座って応対して、世間話などをしたのです。

そう言った一郭は、日本独特の家屋の造りの一部でした。所帯を持ってから、幾度となく引越しをした家には、縁側などがあった試しがありません。武家の家に、縁側が設けられていたら、そこは「緩衝地帯(かんしょうちたい)」、「休戦地帯」のような雰囲気があったのではないでしょうか。

そこで、来客の品定めをし、家の中に迎え入れるか、入れないかを試しているような感じがしないでもありません(私が感じていることです)。しかし、その一郭の持っている使命は、「交流」の場だったのでしょう。日本の「文化」、「縁側文化」が花開いた場所だったのではないでしょうか。

ある時は、作業をする仕事場であったり、収穫した作物を保存するために乾燥させたり、子どもを「日向ぼっこ」させたり、涼をとったり、昼寝までできる所だったのです。俳句を詠む人は、ここで花鳥風月を眺めながら作句し、言葉遊びをしたかも知れません。「畳」でもなく、「土」の上でもない、「板」の上で育まれた情緒に違いありません。

小春日や縁側でねる隣の猫 綾子

玄関よりも、お勝手口よりも、『よいしょ!』と声を出して、上がったり、降りたりするには便利な所だったのです。母が、そこに座って、縫い物をしていたことが、よくありました。そこにランドセルを投げ下ろして、『行ってきまーす!』と、宿題などしないで、遊びに行った日々が懐かしく思い出されます。「縁(えん/えにし)」は、英語だと、” edge ”だけではなく、
“ chance,fate,destiny "だそうです。親子、隣人、友人の関係づくりの場、運命的な出会いの場でもあったわけです。

外のガラス戸、廊下、そして障子があって、居室との境になっていました。障子を通って入り込む明かりは、なんとも情緒があります。和紙一枚が、夏には涼を保ち、冬には暖を保つのです。こんな優れものは、他の国では見られません。カーテンでは味わえない、えも言われない雰囲気があるのです。

父と暮らした家には、床の間もありました。合理的で、持ち物が極端に少ない父の生活様式には、驚かされています。洋服箪笥、小さな本箱だけでした。ワイシャツも、襟がスレて薄くなると、母が裏返しに縫い直して、着続けていました。実に物持ちのよかった父でした。ただし品質の好い物を持っていた父に似ない私は、ユニクロ製が多いのです。明治男の簡素さに学べなかったのは残念なことでした。

日本人の微笑み

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4年ほど前になるでしょうか、こんな記事をネットで読みました。東京・有楽町に「外国人記者クラブ」があって、日本で取材活動をしている特派員たちの1つの拠点で、発行している「ナンバーワン・シンブン」に、こんな短い記事が載っていました。

『ある外国人記者が有楽町のいつもの店で食事をした。勘定をして出ようとしたところ、店員から1枚の紙を渡された。「◯◯さん、先日おいでになったとき、お釣りの十円玉がテーブルに置き忘れてありました!」そう書いて、十円玉がセロテープで紙に貼ってあった。外国人記者は、「世界のどこにお釣りの十円が戻ってくる国があるだろうか?」と書いて、その短い記事を結んでいた。』とありました。

地震や台風などの自然災害の厳しさに見舞われて、日本人は、落胆しているかも知れません。わずかな人の十円でも自分の懐に入れないで、困難の中を生きてきたのです。そんな現実に対峙しながら、私たちの先人たちは、奥歯を噛みながらも、へこたれることなく、辛ければ辛いほど、微笑んで生きてきているのです。これを、《日本人の不思議な微笑み》と、外国人は言うのだそうです。

苦境に立たされて苦しいのは、みんなが経験していること。仲間に、近くにいる人に、家族に、苦しんだ顔ではなく、『現実をしっかりと見つめて、生きているんだ!』と言うことを、見せるための《微笑み》なのです。亡くなったご主人の、骨を持ち帰った女中さんが、外国人の主人夫妻に、微笑んで見せたことが、健気に生きて行こうとし、自分たちを悲しませまいとする生き方なのだと、この外国人は分かったのだそうです。

本来なら、号泣(ごうきゅう)したいはずです。でも自分の悲しみで、周りの人を悲しませたくない、そう言った配慮が、そういった行動をとらせるのです。狭い国土、狭い耕地にへばりついて生きて来た日本人の心に、そんな《不思議さ》が出来上がったのでしょうか。飢饉や不作、子沢山などで貧しくとも、台風や洪水で畑地を流され、地震で家を壊されても、何のそので生きて来た底力が、培われているからなのでしょう。
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『両足切断になるかも知れません!』と言われながら、その痛さと恐れの中で、ぐっと耐えていた母の顔を思い出します。やって来るトラックを避けて、自転車から降りて、路側で待っていたとき、タイヤのボルトで両足に大怪我を負ったのです。高校に行っていた私は、知らせを受けて、担ぎ込まれた病院に駆けつけました。診察台に横になって、じっと我慢して、弱音を履かない、母の強さに圧倒されたのです。

さらに初期処置が悪く、転院した先で、切断の時期を、医者は待っていたのです。でも、化膿が止まって回復し始めました。一年近く入院していたでしょうか。母にとっては大試練だったわけです。夏場も、厚手の靴下を履いて、それ以降生活をしていました。多くの友人たちの願いや激励が背後にあって、それに耐えられたのでしょう。

母も、家族や友人たちを悲しませまいと、微笑んで、そして正直に生きた一人でした。今まさに、コロナ禍の只中、世界は、未曾有の危機に直面し、誰もが、感染への恐れを抱きながら生きています。悲観が地を満たしています。そん中でも、《微笑み》を忘れないでいられるでしょうか。悲痛な顔よりも、困難のさなかには、《微笑み》の方が、好いに違いありません。

キョトン

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「拒絶」、「距離」、そして「キョトン」、このところの世相で、正直な印象です。先日の〈クソジジイのご婦人〉は、過敏になっての正面から店に入ってきた私への少々異常な「拒絶」だったのではないかと、今になっ思っています。『コロナに罹りたくない!』と言う恐怖心や防御心で、ああいった「距離」を意識し過ぎた行動と言動になったのでしょうか。

心の余裕をなくしてしまうと、忍び寄る、得体のしれない〈ヴィールス〉に汚染されしまい、命まで危なくなるのではないかと言う、恐れが、今、世界中に広がっているのではないでしょうか。ある方は、悲観して、自らの命を断ったり、子どもを巻き添えにして死に急いでいる事件もみられます。

異常事態の中で、正しく状況把握ができていないからでしょう。手に触れる物すべてが汚染源、感染源に思えてしまい、潔癖症の方は、何も、触ることができなくなってしまうのです。それって強迫性障害ではないでしょうか。

どうも正しい知識、対処法が必要です。人と一定の「距離」を置いた所は、《安全域》だと思って生活をしたらいいのです。人と話ができなくなってしまうのではなく、マスクをして、相手に迷惑にならない様な配慮をして、話せばいいのです。話せなくなってしまうと、人との関わりが億劫になってしまい、それこそ危険です。

この月曜日は、家内の通院日で、付き添いで出かけました。診察受付機にカードを挿入すると、予約確認書が出てきて、それを持って、呼吸器科の外来に行くのです。採血、尿検査、レントゲン撮影の指示が、外来事務から渡されます。それで先ず、採血室に行ったのです。家内が受けるテーブルの隣で、男性が、『陽性の出た人と濃厚接触をした!』と言ってるではありませんか。年配の係りの方が、担当者に代わって、『外来に戻って、問診票に記入して申告し、そこで指示を受ける様にしてください!』と説得していました。

この方は、自分の行動が、院内感染の起こる危険性に、全く気付いていないのです。通院以前に電話で事情を話したらよかったのです。病院に来てしまったら、先ず総合受付で、〈濃厚接触〉があったことを告げなければなりません。採決は、無菌状況の中すべきなのですから、他の患者さんのために、ここまで入って来るべきではありませんでした。病んで、治療を受けようとしているのですから、もっと他者にも、最新の注意を払うべきなのですが。

でも、誰も騒がずに、パニックにはなりませんでした。理学療法士の方が、この方の座った椅子やテーブルを、丁寧にアルコール消毒をされていました。家内も私も驚いてしまいました。

過敏も無知も、両方とも、この状況下では、菌の拡散の危険性があるのです。隣でも、しっかり2mの距離がありましたから、家内は恐れていませんでしたが、その無知には、とても困惑してしまった次第です。

華南の街の我が家に、日系商社マンの奥さんと5歳ほどの男の子が、カレーライスを食べにやって来たことがありました。この男の子が、手を洗い始めたのです。その余りにも丁寧過ぎる手洗いに、私は驚いてしまいました。2〜3分ほど、繰り返し洗っていました。お母さんが、『中国では、そうしなさい!』と言ったからでしょうか。でもまさに潔癖症だったのです。

蛇口を、手を洗った後に触れない人がいる様です。完璧主義者には、どうでも好いことではなく、悩むのでしょう。それなら蛇口を洗いながら手を洗ったら、感染の恐れから簡単に解放されのですから。どこまですべきか、「キョトン」としている、《コロナ明けの日》を待ち望む、緊急事態宣言の解除の首相会見がなされた、時は五月の中旬です。

(日光連山の山容です〈写真AC〉)

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