回漕問屋

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 今住んでいますアパートは、築二十五年ほどになるのだそうです。大家さんのお姉さまが、隣にお住みで、先週、顔を合わせて話をしている間に、ご家族の歴史をお話しくださったのです。お父さまが、栃木市名産の下駄を商う履物屋をされてたそうです。

 それででしょうか、鉄製の玄関の扉のストッパーが、昔流行ってはいたことのある木製サンダルの先っぽに似ていて、なんだろうと思っていたので、これで納得した次第です。自分が最後に、カランコロンと履いたのは、弟の高下駄でしたから、六十年も前のことになります。

 それと同時に、この住むアパートの敷地で、栃木市で一番古く開業したスーパーマーケットが営業されていたのだそうです。それ以前には、旅館を経営し、さらに遡ると、巴波川の舟運の廻漕問屋(船積問屋)をされていたとのことでした。

 鉄道輸送やトラック輸送などに取って代わられる以前の運送の主体は、人力や牛馬による陸上輸送、さらには河川を利用した舟運が。日本全国で行われていた様です。その様な中で、近畿圏の淀川、東北地方の最上川、関東圏の利根川、北陸の九頭龍川など、海運につながる河川の舟運が、網の目の様に行われていたのでしょう。舟による輸送の量は、牛馬には比べられないほど多量だったのです。
  
 1617年以降、日光に改葬される徳川家康の墓所の造営のために、この眼下を流れる巴波川が利用されたのです。もともとは、農業用水の川だったのが、廻船のために使われ、渡良瀬川、利根川、江戸川に続く水路が使われ、江戸に至ったわけです。四百年、五百年の時の流れがあっての、川の流れを使った輸送が行われてきたのです。江戸の物資が運び込まれ、蔵に収められ、馬車や人力車で、周辺に運ばれて、賑やかだったことでしょう。多くの荷運び人足や水主(かこ/船頭さん)や「綱手道」で舟を曳いて流れを遡る、遡航の力仕事に従事していたのでしょう。
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栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ

向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ
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 江戸からの「上り荷」は、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが、江戸川~利根川~思川、巴波川を経て、栃木の河岸に陸揚げされ、栃木からの「下り荷」は、木材・薪炭・米・麦・麻・木綿・野菜・たばこ・猪鹿の皮・石灰・瓦など、木場などに、「栃木河岸船頭唄」が唄われながら運ばれたことでしょう。「三、八、六斉の一(三と八の付く六日行われた市)」で、この栃木宿は、「連雀(れんじゃく)」と呼ばれた商人たちで賑やかだったそうです。その賑わいも、蒸気船が部屋村まで来る様になったり、鉄道が敷かれて、舟運は消えていったのです、

 生まれてきて、みなさんが、それぞれに何かに従事しながら、生きてきて、今のこの街があるわけです。人の営みは、途切れることなく流れ続ける川の様に、人の命を繋いできているわけです。嘉永時代に創業した和菓子屋さんが、道路の向こう側にありまして、その頃と同じ様な和菓子があるかを聞きましたら、『ありません!』と言われて、創業も有名無実になってしまっているのが残念でした。

(明治二十年頃の巴波川の様子、海運や舟運の図、綱手道です)

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