分け合ってきた兄弟

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 「 友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。 (箴言17章17節)」

 中学受験の時、上の兄が、兄の級友と二人で、付き添ってくれました。力強い味方を得て、無事に合格しました。海軍兵学校や學習院で着ている蛇腹の制服で、中高と六年、その学校で学べました。

 《モデル第一号》が、この兄でした。原因が自分にあってでしたが、殴られたり蹴られたりした兄でしたが、私には誇り高い兄でもある、矛盾した感覚を持っていました。大学に兄が入った時、被っていた角帽が被りたくて、留守の間に、それを拝借して、ついでに学生服も着て、住んでいた街に出て行き、大学生の気分で颯爽と歩いてみました。まさに背伸びをしたい兄の真似っ乞食でした。

 東京の大学リーグの学校のアメリカンフットボール部に入り、スタメンで出場し、大学選手権を獲得した優勝チームの第一線のREでした。ものすごい練習としごきを経験して、それに耐えて4年間過ごして、全国制覇をしたのはすごいことでした。卒業後は、父の関係で、上場企業に就職しました。静岡県下の工場で働き、後に東京本社の営業部に移り、明るい将来がありました。

 ところが依願退職をして、伝道者に転身してしまったのです。本気になって、人気のない道を選んだ兄に驚かされたのです。爾来五十年、その天職について、それを全うしています。けっこう輝いた道を歩むことのできた兄だと言えるでしょうか。同じ道を選んだ私は、大変に助けてもらい、励まされたのです。一緒に台湾伝道にも、アルゼンチン研修にも同行しました。

 《優しさ》を持っていたのが、すぐ上の兄でした。喧嘩も強く、正義感に燃えていたのです。家に帰って来ると、長靴に履き替えて、喧嘩をしに出掛けて行ったほどでした。欲しい物をすぐに買ってもらえない兄は、マンボズボンがはやった時に、自分で、母の裁縫箱の針に糸を通して、ズボンを縫い直しをして履いていました。それを見ていた三歳年下の私も、同じ様にズボンを、兄に縫い直してもらって履いたのです。

 同じ学校の中学の私と、兄は同じ高校で、野球部に入っていました。東京都でベスト16位で、甲子園出場はなりませんでしたが、運動神経のよい兄でした。きっと殴られたのでしょうけど、その記憶がなく、いつも助けてくれた兄でした。早食いで、こちらも負けずに早食いをしたのですが、この兄には叶いませんでした。
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 高校を出ると、電鉄会社に就職をし、夜間の大学に通っていました。学校帰りに兄の勤務する駅の営業所に行った時、自動車学校に免許取得で通っていた私は、タクシーを運転させてもらったのはよかったのですが、側溝に脱輪してしまったのです。それが本社に漏れて、こっぴどく兄が叱られたそうです。申し訳ないことをしでかしても、怒りませんでした。多くの同級生が脱落していく中、勤労学生として頑張って卒業しました。親の助けを受けずに学んだのです。

 都内の外資系のホテルに就職し、“ Mr. shake hand “ と渾名されるほどのホテルマンとして活躍したのです。顧客の名前を二万人も覚えているということで、テレビ取材にも何度もあっています。この兄も、私の自慢の兄なのです。

 二歳下の弟がいます。天然パーマで人形の様に可愛い弟でした。弱虫の私を助け、父に叱られる兄に同情して、一緒に涙を流して叱られてくれた弟なのです。山が好きで、山好きの親友と、よく登山をしていました。奧多摩の温泉宿では、背負子を担いで麓から荷を運びも、登山客運びもするほどでした。男手のいない母の通っていた教会の手伝いをよくしていました。

 母校の体育科の教員になったのですが、ある夏の臨海キャンプで、台風で遊泳禁止の中、波打ち際で遊んでいた生徒が三人、波にさらわれてしまったのです。荒れる海に、弟は飛び入って二人を救助した後、もう一人を救助に行こうとした時、地元の漁師に羽交い締めにされて、『死んでしまうから行くな!』と強引にやめさせられて、助けられず辛い体験をしています。期するところがあって、その時から髭をたくわえ始めたのです。
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 そんな弟を、教え子が、次の様な文章で語っています。

 『学園生活で二つの幸運があった。一つは寮に入ったことだ。・・・第二の幸運は、「カトテツ」こと◯◯先生の存在だ。・・・親元を離れていた私には、◯◯で父性的なものの象徴が、「カトテツ」だった。・・・武道と信仰で陶冶された人格。「ダメなものはダメ!」と叱る信念の強さ。「美術」で《尊敬する人物》の肖像と言う課題が出たとき、私は迷わず「カトテツ」を描いた。・・・学園の基調をなす母性と、「カトテツ」的な父性、そして寮の濃厚な人間関係が私を作った。今や寮は閉じ、◯◯先生は一線を退かれた。母校の初等で六年間を過ごしている娘にも、こんな出会いがあったならば、あっ!それは◯◯でもらった三つめの幸運と言えそうだ。』

 いやあ、マスコミで活躍している教え子から、こんなことを言われるのは、教師冥利に尽きますね。退職後の今も、同窓会や学校の役員をし、新任教師のカウンセリングなどをしています。また、友人のチャーチスクールで現役で教えてもいるのです。東京警視庁の青少年指導で、今でも週末には東京の繁華街の街頭に立っているのです。

 同じ両親から生まれ、近所のみなさんをハラハラさせた者たちが、キチンと生きてこられたのは、今は創造者、命の付与者のもとで安息している両親がいて、忍耐と愛をもって育ててくれたからなのです。コロナ騒動が収まったら、兄弟みんなで旅行をしようと言ってくれています。みんなに羨ましがられている兄弟なのです。

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