兄貴

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 『準さん、あなたの探し物をしている時間ってとても多いように思うんだけれど!』と家内に、よく言われてきました。物の定位置管理が出来ていない私への彼女の五十年来の観察の結論なのでしょう。そう言えば、『あれは、どこだっけ?』とよく言っている自分に気付くのです。

 ところが、そう言った性行の人間には、失った物を見つけ出す喜びが人一倍あるのです。また、もうあきらめていた物を見つけられる醍醐味もあるので、物の置き忘れが、なかなか止まないのです。それは忘れ物をした副産物で、喜びも一入です。これ、言い訳に聞こえるでしょうか。

 先日も、《一万円札》が、ヒョコリと出てきたのです。帰国したばかりの頃に、すぐ上の兄にもらったものだと思うのですが、九万円ほど使ったものの残りが、普通の封筒に入っていたのを、「収活(〈終〉よりも、収束の〈収〉の方が良さそうなので)」を始めようと、書類の整理をして、捨てようとして、その封筒を灯りに向けたら、見つかったのです。

 「ルカの福音書15章」に、二人の息子を失った父親のことが記されてあります。息子たちは、同じ量と質の愛で父親に愛されたのですが、まったく違う生き方・在り方を選択しました。自分の感情に従って、弟は遠い国に旅立ちました。父親に相談した形跡もありません。ところが兄の方は、父の家にいて、父に従って精一杯生きているように見えたのですが、弟の出奔と帰還とで、潜んでいた父への不満の思いが暴露されます。

 日頃、父親に何でも話すことをしなかったからなのでしょう。弟は失敗と挫折と恥の体験を通して、自分の未熟さを知らされます。その体験の真只中で、父親を思い出すのです。どの時代を生きた若者でも、共通して持っている主張があります。《失敗する権利》です。だれも失敗しないで完璧には生きることは出来ないからで、人は大体、失敗や挫折を通過して、大人になっていくのではないでしょうか。

 そうしますと、兄息子は、弟のような権利主張をしないで、生きて来た人だったことになります。自分の感情を無理やりに押し潰して、生きたのではなかと想像してしまいます。弟に遊び友達がいたように、兄にも友達がいました。でも、彼は友人たちとは、心を正直に開いて挑戦し合ったり、喧嘩をしたりがなかったんでしょう。だから《赦し》を学んだことがないし『ごめん!』と言って《赦される》こともなかったのでしょう。

 放蕩の挙句、帰って来た弟を、責めもしないし、罰も与えないで、ありのまま赦して受け入れている父に向かって、厳しい言葉が、兄の口からこぼれ出ます。彼は、父親も弟も、まったく分かっていないのです。自分とは違った個性や過去を持っている弟を理解しようとしていません。彼は自分の物差しで弟を計るのです。イエスさまを計った律法学者のようにしてです。

 このお父さんは、「死んでいた・・いなくなっていた」弟息子が、「生き返って・・見つつかった」と言っています(32節)。それは父親でしか感じる事の出来ない極めて深い思いであります。自分の愛する息子を見つけ出したお父さんの当然の喜びが、どれ程のものであったかが私に、少し分り始めています。4人の子どもたちの父親にしてくださった神さまが、それを教えてくださいました。兄息子は、この父親の《当然の喜び》を知るなら、弟をありのままで喜び迎え、苦しみを分け合い(箴言1717節)、弟を楽しみ愛することができるに違いありません。

 駄目で愚図で分らず屋の弟の私を見捨てられないで救って下さった、主イエスさまは、父なる神さまが私にくださった特愛の「兄貴」なのであります。「友」だとも、「救い主」だとも、「弁護者」とも言われるお方です。17で信仰告白をしたのに back slide し、22でバプテスマを受けたのに back slide し、25で精霊にバプテスマされて、一度も迷わず、まっしぐらにおいた今まで歩んできました。いつも傍に、「兄貴」がいてくれました。

キリスト教クリップアートの「放蕩息子の帰還」です)
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三重県

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 新しい年を迎えてしばらく経った時に、その一月の末か、二月のはじめに、三重県の鳥羽で、キリストの教会に仕えるみなさんが集まって、大会を続けていました。牧師や夫人、宣教師夫妻、神学生、兄弟姉妹が参加していて、《年初行事》のようにして、ほぼ毎年、わたしも参加していました。そこには新たなる主の一面を知り、素敵な人、そして何よりも再び新たな経験と出会いと、素晴らしい学びと、激励や挑戦がありました。

 そこに参加されるみなさんは、超教派の教会からおいででした。共通していたのは初代教会が、聖霊体験をしていたように、二十世紀の教会に、聖霊が注がれて、その傾注に預かった人たち、その経験を願う人たちが、一堂に会していました。賛美礼拝をささげ、聖書のみことばに耳を傾け、日本や世界の霊的な変化の起こることを願って祈り、参加者の交わりを楽しんだのです。

 その集いに行く時に、自分の街から、東名高速を経て、渥美半島の突端の伊良子岬の港からフェリーに乗って参加しました。そこで食べたイカの炭焼きの味が忘れられません。渥美半島は暖かなのでしょう、海岸線の畑には、「菜の花」が満開でした。真っ黄色な春を感じて、『今年は何を語られるのだろうか?』という期待が膨らんでいたのです。真夏のひまわりの黄色よりも、一足早く訪れた黄色な春を感じて、そう思ったのです。

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 ある時は、名古屋から陸路をとって、この大会に集ったこともありました。宣教師さんの運転する車に同乗してでした。まだ小さく幼かった子どもを、一人ずつ連れて行きました。海が綺麗で、食べ物も美味しかったのです。帰りには、名物の「赤福」を買って、留守をしていた家内や子どもたちの土産としました。

 ある時、この三重から一人の青年が、日曜日の礼拝に参加されたことがありました。『富士五湖の街に出張に来たついでにお寄りしました。』と言われる素敵な穏やかな感じの青年だったでしょうか。戦前戦時中に、聖書信仰に立って、国家権力に屈しないで、立派に信仰を守り通された教会の牧師のご子息でした。近くの常葉神社への参拝を、早退をしてでも拒んだ小学生のいた群れです。伊勢神宮への修学旅行にも参加しませんでした。轟々の非難の中、妥協せずに、聖書に従ったのです。社会的に著名な教会人が、伊勢や明治の神社に戦勝祈願をした対極にいた群れです。

 同級生が勤めていたミキモトの〈真珠〉よりも、はるかに輝いていたのが印象的でした。絶対的な少数者の悲哀など、全く見せないで、神に従う姿勢には、驚くべき力が、上から与えられるに違いありません。〈非国民〉、〈日本人に非ず〉と言われたのですが、依って立っていた「神国日本」が、ついに戦争に負け、天皇が「人間宣言」をしてしまいます。

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 わたしが北から順序に取り上げている都道府県で、この三重県を忘れてしまって、本州から、福岡県に移る前に、思い出して、遅まきながらの掲載になってしまうほど、小さな県なのかも知れませんが、戦前の三重県下の小学生の選び取りは輝いているではありませんか。それほど注目されずにきた街にこそ、本物が見られるのでしょう。

 初めて、〈松坂牛〉のステーキを食べた時に、『こんなに美味いもんがあるのか!』と驚いた三重県なのです。県庁は津、県花はハナショウブ、県木は杉、県鳥はシロチドリ、人口は174万です。律令制下では、伊勢国、志摩国、伊賀国で、天皇家の祖を祀るという歴史的な背景があって、重要な地でありました。そういえば伊賀は、〈忍者の里〉であって、そこには今でも忍者屋敷があると聞きます。


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 下の息子が、5歳くらいの頃に、おばあちゃんに作ってもらった、忍者装束を着て、田んぼのいねの間から、ヒューっと出ては、忍者になりきっていたのです。ある聖会に招かれた時、この子を連れて行きました。その忍者服を着て、おどけて見せて、みなさんの人気の的だったのです。

 中京工業地帯に位置する四日市には、日本最大の石油コンビナートが、1960年頃からの高度成長期に、国の主導で誕生しています。その誕生と共に、四日市公害で、学童たちの喘息発生が、大きな社会問題とされたのです。大気汚染を生み出した、経済優先、国力増強の負の遺産と言ったら良いのでしょう。

 「奥の細道」の松尾芭蕉、「古事記」の研究者の本居宣長などを生み出した県として有名です。真っ直ぐ、東名を走ると、京都や大阪や神戸、その先の岡山や九州に目が向いてしまって、名古屋から、なかなか脇道にはそれないのです。伊賀上野に知人がいて、お邪魔したことがありました。もう何年も何年も前のことになります。

 熊野川の上流には、杉の木が生い茂って、江戸時代から、上質の建築材の宝庫として名を馳せていました。今では外国の木材の輸入が主流になってしまっていますから、筏流しが行われるようなこともなくなっているのでしょう。熊野の地には、「熊野古道」という道があって、鬱蒼とした杉林を眺めることができるそうです。

 

行く夏来る秋

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 隣町の小山の花火、市内の七カ所で打ち上げられたと、ニュースが伝えていました。わが家の3期目と4期目の胡蝶蘭です。そして今朝、ベランダで開いた朝顔です。

 みんな《行く夏を惜しむよう」に感じられます。巡りくる秋待望の季節ですね。虫の鳴く音が、強く感じられています。今年も好きな海を見に行けませんでした。来年こそはの2022年の初秋です。

 薩摩芋が美味しいのです。スイカを食べて、芋まで食べれるなんて、こんな贅沢ができて感謝です。孫たちの青年期に、色々なことがあるのを聞きます。

 どんな色々も、成長するために必要なことだと解るのは、今ではなく、記憶が薄れる頃になってからなのです。だから生きるって、辛いことがあっても、楽しいことがあっても、とても面白いのでしょう。

 自分の弱さと強さを発見して、大人になるのかも知れません。父が老いていくのを見ていた日々を思い出すと、今は見られている自分に気づきかされます。

 毛抜きで生えてきた白髪を抜いていた、父の気持ちが、「白頭掻けば更に短き」、と杜甫が詠んだのを思い出して、たとえ「詩聖」と呼ばれても旅の空で老いを迎えていくのは、きっと切なかったのでしょうか。父も杜甫も、六十になる少し前のことでした。

 髪の毛も一生も、けっこう短く少しなのだと、迎える秋に思いいたす、次男の誕生日であります。

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担い背負い救うとの約束

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 このblogで、話題に取り上げるのが、昔の話ばかりになっている昨今、お許しください。何か trouble が起こった時に、どなただったかが、「団扇(うちわ)」をイラストにして、書き送ってくれた方がいました。そのトラブルを公にしないで、「内輪」にして済ませて欲しいとの願いが込められていたのです。

 まだ血気盛ん、舌鋒鋭い時でしたから、問題が大きく、公にならないような知恵が、わたしに求められたのです。了解したわたしは、本物の団扇であおいで、血気を下げた記憶があります。

 華南の街で出会った息子の世代の伝道者が、コロナ禍で大陸伝道もままならない昨今、関西圏の街で、牧会されておいでなのです。厳しい暑さの今夏、激励の聖句で、盛夏見舞いに、この団扇を送ってくれたのです。

 二十数年前になるでしょうか、中国の東北地方の街で働いていた同労者から、『困難な状況下のみなさんに、古着でもいいですからお届けください!』と、訪ねようとしていた私に要請がありました。大きな段ボール3個に古着などを詰めて、空港に着きましたら、税関吏に、脇の部屋に連れて行かれ、『どうして、こんなにたくさんの古着を持ってきたのですか?』と聞かれたのです。小一時間やり合いまして、結局、“ OK ” が出て、段ボールごと入国が許されたのです。

 その時、日本企業のみなさんの集いが、外国人居住区の家であって、わたしに話すように頼まれたのです。そのみなさんの中に、この〈団扇の人〉がいたのです。家内はよく覚えていたのです。この方は、この街の学校に留学されておいででした。

 なぜ中国に留学していたのかと言いますと、若い時に、集会で外国人講師から、青年たちへの語学学習の challenge があったのだそうです。その挑戦を聞いて、彼は中国語を学び始め、さらに留学しておいででした。日本で伝道を始め、牧会伝道の傍ら、中国の魂への重荷が与えられ、その宣教の道が開けて、長年、その聖書講解を、多くの街で続けてきていたのです。

 その旅の途次、わたしのいた街で、奉仕があって訪ねて来られて出会ったわけです。箴言226節に、

 『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。

とあります。備えをすべき青年期に備えた結果、そんなに素晴らしい奉仕の機会が開いたわけです。この方は、2つの団扇と、最中と、〈Rwanda Coffee〉を、コーヒー好きなわたしに、古都の京から送ってくださったのです。よきお交わりに感謝して。

ああ麗しきかな

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 『私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 私の助けは、天地を造られた主から来る。 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇12114節)』

 今朝も、洗濯を終えて、いつもなら歩いて行くのですが、小雨でしたので、ちょっと贅沢をして、市営の〈ふれあいバス〉に、100円の後期高齢者のための特別運賃の回数券を切り取って、乗務員に渡して乗車し、近場の温泉に参りました。源泉に浸かりながら、泡の中で「美しき天然」の歌を思い出したのです。


空にさえずる鳥の声
峯より落つる滝の音
大波小波とうとうと
響き絶やせぬ海の音

聞けや人々面白き
この天然の音楽を
調べ自在に弾きたもう
神の御手(おんて)の尊しや


春は桜のあや衣
秋はもみじの唐錦(からにしき)
夏は涼しき月の絹
冬は真白き雪の布

見よや人々美しき
この天然の織物を
手際見事に織りたもう
神のたくみの尊しや


うす墨ひける四方(よも)の山
くれない匂う横がすみ
海辺はるかにうち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の美しさ

見よや人々たぐいなき
この天然のうつし絵を
筆も及ばずかきたもう
神の力の尊しや


朝(あした)に起こる雲の殿
夕べにかかる虹の橋
晴れたる空を見渡せば
青天井に似たるかな

仰げ人々珍らしき
この天然の建築を
かく広大に建てたもう
神の御業(みわざ)の尊しや

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 急峻な山から流れ下る川の渓谷が、自分の生まれた土地でした。渓流の瀬音、それこそが、「子守唄」でした。母の胎内の羊水の動く音を胎児は聞きながら大きくなるのだそうです。そして生まれてすぐに耳にしたのが、盥(たらい)にはったお湯で、村長さんの奥さんが、つかわせてくれた産湯の音だったに違いありません。

 時々行く、お気に入りの天然温泉で、目をつぶって、うつらうつらしながら、流れ落ちる湯の音を聞くと、胎内にいるような錯覚を覚えてしまいそうです。欧州では戦争なのに、また東北では豪雨で洪水まで起きっているのに、日本の北関東の地下1000mから汲み上げた湯に浸っている平和が、何か申し訳ないように感じてしまったのです。

 同世代の退職後の日々を、時々やって来ては、放心したように空を見上げたり、湯の動きを見、湯の湧く音に耳を傾ける同じような、時節柄の「黙浴」する年配者が、ほとんどの湯壺の中です。自分は企業戦士ではなかったのですが、多くの方々は、高度成長期を会社勤めをして、それを終えて、今高齢期を迎えているのです。

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 脛に傷も負わず、手術痕もなく、ただ髪に毛は白くなり、肌のハリも輝きも衰え、目を瞑って湯にしたる横顔は、ちょっと寂しそうな憂いが感じられます。そんな風に思っている自分は、脛にも脇腹に傷跡を持ち、惚けている、そんな様子を見せているに違いありません。

 木陰に飛んでくる鳥の鳴き声が聞こえ、トンボも舞い、小雨もぱらつき、時々薄陽がさし、カナカナ蝉の鳴き声もしています。温泉の塀が邪魔をしていますが、背伸びさえすれば、また外に出れば、雨に霞む大平山も、鍋山も、雲が晴れれば見える男体山も筑波山も、神の造形の世界です。さしもの暑さも、もう秋の気配がする、いい湯だな、あは!と歌い出したくなる、美しき天然の北関東です。

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こんな世相です

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 中国語は、その世相を、実に上手に表す言葉を生み出しています。だいぶ前のことですが、「低头族/低頭族ditouzu」という言葉が、中国の街を賑やかせていました。謙遜でいつも頭を低くしている人のことだと思いましたら、そうではないのです。

 バスや電車に座りながら、また歩きながら、《うつむいている人》のことを、そう言うのだそうです。つまりスマホという新しい携帯を覗き込ん で、まるで画面に取り憑かれたかのように、夢中になって覗き込んだり、操作している人のことです。

 先日、高崎までJR両毛線を行き帰り利用したのですが、ほぼ90%の人が、「低頭族」でした。座席に座っているならまだしも、歩きながらの使用も多かったのです。人にぶつかったり、側溝に落ちたり、車に轢かれたりするケースが多発して、社会問題になっているようです。

 以前は、メールを操作している人が多かったのですが、今や、高機能携帯電話が出現して、溢れるほどの情報を読んだり見たりできるようになっています。わが家にやってきた青年に、いろいろな機能があって、便利だと言うので、私のスマホにダウンロードしてもらったことがありました

 その一つが、ネット販売の支払いのできる支付宝"でした。〈30分以内の配達!〉が売りでした。代金は、銀行の口座から、引き落とされるのです。自分のスマホにダウンロードした“QRコードの画面を提示すると、食堂の支払いも、デリバリーの注文もできるのです。

 また、今いる付近を走行している〈空タクシー〉を見つけ、連絡をとってくれ、待っていると、目の前に止まってくれるのです。その料金の支配いもできます。さらに、公共バスが、幾つ手前のバス停にいるかも、“GPSシステムで調べることができるのです。

 何と、バス停の近くでも、どこの道端にでも、乗り捨て自由の有料自転車が、この街に出現しました。<100元>を契約時に払って、手続きをして、自転車に付いている“QRコードを、自分のスマホでスキャンすると、<1回30分1元>で利用することができ始めています。ちょっと便利すぎて、驚いているところです。まだ活躍してるのでしょうか。

 だから、スマホを覗き込む人が増えているのでしょう。これは、ここの街だけではなく、東京でもニューヨークでもパリでも同じなのだそうです。四角い画面に向かって、何か礼拝をしているように見えますので、その魔力にかからないように、「拒絶」の意思表示をしている方もいるようです。人との会話が激減しています。目を見て、手で触れられる距離での交わりがなくなってしまっています。大いに心配しています。

 私たちの時代は、文庫本や新書版のを、うつむいて読んでいた時代ですが、電車内でも、そう言った人が、両毛線の車内でもみあたりませんでした。もう紙に印刷した情報の時代ではなくなってしまったのですね。それでも電子情報は、ちょっとしたことで失われてしまいかねません。もう回復できないのです。だから、やはりアナログもまた必要で、《備忘録用ノート》に、重要な番号やパスワードを書き写しておく必要がありそうですね。

 もう、この新機能についていけないようなので、このまま続けるか、止めるかを決めかねている、わたしの今です。〈15000points 〉を、マイナンバーカードでもらえるそうで、先日、わが家を訪ねてくださった友人が助けてくださって、家内と2人の分を、スマホで手続きしてgetしていただきました。便利過ぎて、〈高頭族〉のわたしは、やっぱりペンで紙が忘れられない、虫の音が聞こえる八月も半ばであります。

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あさがお

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   今季のアサガオの咲く様子は、ちょっと遠慮がちのように思われます。例年、これまでもかこれまでもかと咲き争うかのように咲き続けていたのに、ちょっと様子が、この夏は違うのです。昨年、咲き残った種が、flower pot の中で自然発生的に芽を出して、いつもより遅く芽が出て、2株ほどはひ弱くて伸びずに終わってしまいました。それでも、隅の2株が生き延びて、咲き始め、ご覧のような咲きっぷりになっています。

 華南の街のベランダに咲き始めた、日本から持っていた種から発芽した朝顔が、咲き出した「喇叭花labahua」は、あたりを圧倒するほどの咲っぷりでした。幼い日の朝顔の印象が、すこぶる良かったのか、花などに鼻をかけなかった自分が、家内が種を蒔いて、鉢に咲かせた朝顔に心が癒されるのを楽しむようになって、毎年、この花を楽しんできています。難しい顔も素振りもしない、幼子のような花の姿が好きなのです。

 夏目漱石は、旧制五高、現在の熊本大学で英語を教えていたことがあります。肥後熊本に、29歳で赴任し、1896年(明治29年)から4年間いました。その熊本にいる間、朝顔を詠んだ句が多くあるのです。

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 朝顔の黄なるが咲くと申しきぬ

 熊本には、「肥後六花」と言って、椿、芍薬、花菖蒲、菊、山茶花、そして「肥後朝顔」があります。明治二十年代に、朝顔の栽培が流行したそうで、淡青色の花が主流だったのですが、「黄色」の朝顔が、品種改良で誕生し、その驚きを漱石が作句した次第です。

 奈良時代に、遣唐使が、帰り船で持ち帰った朝顔が気に入って栽培がなされていったようです。二十一世紀に入って、華南の街に帰る時に、わたしは、種苗店で買った「朝顔の種」を、荷の中に忍ばせて持ち出したのです。そして、当時住んでいた集合住宅の7階の台所の流しの下で、家内が芽を出させた小さな苗を、flower pot に植え替えて、ベランダに置いたのです。

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 里帰りの朝顔は、ふるさと回帰を喜んだのか、旺盛に咲き、ベランダいっぱいで咲き続けたのです。その咲き終わった種を持ち帰って、栃木市の沼和田の軒先に植えたのです。行ったり帰ったり、子や孫の代の朝顔は、綺麗に咲いてくれました。残念なことに、十九年の秋の洪水で種を失ってしまいました。

 大型薬販売店の店頭にあった、袋に入った種を買って蒔いた種の子種が、この上の写真の朝顔の花なのです。

 今年もと 咲くを楽しむ 喇叭花

(昨日の朝顔、肥後朝顔、華南の町に咲いた時の喇叭です)

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こんな視線を向けて

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 作詞が林 柳波、作曲が松島 つねで、「おうま」という童謡があります。戦時下の1941年(すぐ上の兄が生まれた年です)に発表された歌で、軍部が、軍馬を取り上げて歌い上げようと、作詞者の林柳波に依頼したのですが、その国策の考えに同意できなかった柳波が、こんな優しい歌詞に仕上げたのです。

おうまのおやこは なかよしこよし
いつでもいっしょに
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのかあさん やさしいかあさん
こうまをみながら
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのおやこは なかよしこよし
いつでもいっしょに
ぽっくりぽっくりあるく

おうまのかあさん やさしいかあさん
こうまをみながら
ぽっくりぽっくり

 毎週のように送られてくるビデオ映像や画像があります。外孫の従兄弟にあたる、二歳の女の子が、主役です。高校で野球をやっている、実際は、Home school で学んでいるのですが、街の高校に、色々とプログラムがあって、それに参加して活躍している16歳の孫に、肩車をされた写真も、最近送信されて来ました。まさに、ジャイアンツと幼子なのです。

 孫たちの育っていく様子を、ほとんど見られなかった、大陸にいた私たちには、この子の成長ぶりに、目を細めてしまっているのです。この子にも肖像権があるので、この Blog に、正面からアップできないのが残念で仕方がないほど、可愛いのです。

 この子が、腰に手を当てているのでしょうか、スカートをさわりながら歩く様子を見てたら、この歌を思い出したのです。ふざけてるのか、おどけているのか、真っ直ぐに歩かないで 、あっちにちょっかいを出してはと、humorous な素振りが、ぽっくりぽっくりと歩くように思えてしまうのです。

 自分の4人の子に、こんな視線を向けた記憶がないのが、彼らに申し訳ないのです。食べさせ、着せ、学ばせ、遊ばせで、子育てに精一杯で、ゆとりがなく育てたからでしょうか。セッカチでありながら、〈30分前主義〉の父親の行動に、つきあわされた彼らに、こんなゆったりした目線を送ってあげたかったなと、遅きに失した反省をしている今なのです。

 仕事に出るお母さんが、次女の家に預けていく女の子で、娘を、〈ゾオミ〉と呼んでくれると、嬉しそうに言ってきます。こんな平和で和やかな光景を見ることが、わたしにはできるのですが、戦乱の巷となっているウクライナではとてもとても難しいのでしょう。同じ年頃の幼い子たちが、砲弾の下にあるのが悲しくて仕方がありません。

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捲土重来の夏

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 四字熟語、漢字の面白さ、奥深さ、広がりを感じさせる中国語の凄さを感じさせられます。

 秦の時代の末期に、項羽が自害をして果てます。その死を悼んで、詩人の杜牧が、「烏江亭に題す」に書き残したのが、「捲土重来(けんどじゅうらい、けんどちょうらい/両方の読みが正しいとされています)」の四字熟語の出典元なのです。「楚漢戦争」で、劉邦と戦いましたが、善戦及ばず負けて、「四面楚歌(しめんそか)」の状況下で、自ら命を絶ってしまうのです。武将は、一度は負けても、その恥を忍んで、その負けを盛り返して、再び戦おうとして欲しかった思いを、杜牧が、そう詠んだのです。

 国学院大学栃木高校が、長年の県高校野球の王者の作新学院を破って、全国高校野球選手権大会に、栃木県代表として出場し、第二回戦の相手、昨年の覇者の智弁和歌山高校と対戦し、逆転勝利で第3回戦の進出を、今日(13日)決めました。

 『・・・3月11日の練習開始前、柄目直人監督は選手たちに向かって、語りかけた。この日は、東日本大震災から11年目。指揮官は「今から11年前の今日、大震災が起こった。東北では津波によって多くの命が失われ、君たちと同じ高校生も命を落とした。あの災害を忘れてはいけない。震災の爪痕がまだ残っている中で、野球ができることに感謝しなければいけない。コロナ禍で練習が制限されているが、今この瞬間を大切にしよう。」と語ったそうです。

 今年の「国栃」野球部のクラブ・スローガンは、その「捲土重来」なのです。大平山に散歩に出かけることのあるわたしは、学校の横の坂道を登っていくのですが、その左脇に、「国栃」があります。陸上のトラックは見えますが、野球場は目に入りません。栃木市民としてもあり、地元出場校の応援、またこの学校の大学を出た、高等部の国語教師に、中学生のわたしは、「漢文」や「奥の細道」を教えられたことを思い出して応援しているのです。

 屈託がなく、Sports man spirit をもって戦う、高校球児の姿は、汗にまみれ、土に汚れながら、泣いたり笑ったり、悔しがったり喜んだりする姿は、どの出場校も素敵です。県代表になれなかった年月を思い返して、悔しい想いを受け継いできたので、「捲土重来」と、平和なスポーツの場面で、正直に、そして若者らしく感じたからなのでしょう。健闘を期待します。
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