あとの祭り

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 『 새끼들.』、このハングルを発音できますか。韓国の社会では、決して使ってはいけない禁句なのだそうです。腹を立てた者が、相手を侮蔑するために吐くことばだそうです。高慢な者の口から突いて出てしまうのでしょう。

 このニュースを聞いていたら、言葉遣いで失脚した『Mでも言わない!』と解説されていました。この言葉が、中学生同士の喧嘩で使われたなら、決して問題にならなかったのですが、K国の大統領が、しかもニューヨク国連の会議に出席のお歴々を前にし、大統領と話をした直後に、議員たちを侮辱して使ったのだそうです。

 キムさんでも、プチンさんでも、公の席では使ってはいなさそうです。日本でも国会が解散されるような、捨て台詞を、吉田茂首相!がしたことがありました。壇上から離れぎわに、『◯◯ヤロー!』とつぶやいた捨て台詞が、聞こえてしまったのです。

 東亜日報は、次のように伝えています。「大事故は尹大統領から起こった。尹大統領がバイデン大統領と会って出てくる時に卑劣な言葉を使い米議会を侮辱したかのような言葉がカメラに映し出され、それを外信が報じた。下品な言辞は外交の場に出た尹大大統領の緩んだ心と姿勢を余すところなくさらけ出した恥ずべき場面として記憶されるであろう。国民は国格を心配せざるを得ない。自尊心が損なわれた思いだ。重い反省と問責が供なければならない」

 エルサレム教会の牧師をしたと言われるヤコブが、聖書の中に、次の警告のことばを残しています。

 『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。(ヤコブ326節)』

 舌を御することの難しさを言っています。日本や韓国だけのことではなく、『言わなければよかったのに!』と思っても、それは〈後の祭り〉になってしまいます。注意!注意!

二十一世紀の今でも

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 ある文学作品に登場する女性の出身地が、栃木県の河内郡の寒村だと記録されていて、わたしが住み始めた県の県庁所在地、宇都宮の北にあった農村で、今は宇都宮市に併合されています。大東亜戦争のさなか、農村がどんな経済状態だったかをうかがい知ることができます。土地を持たない小作農は、国全体が貧しい時代でも、最も貧しかったからです。

 そんな貧しい農家に生まれた女子を、借金の形にして、お金を借りなければ生きていけない時代だったようです。この女性も同じで、結局は苦海に身を沈めるのです。でも利発で明るくて、自分の境遇にめメソメソせずに、帝都東京の隅田川のたもとで生きていたのです。

 時代は、日本が「五族共和」を掲げて、満洲国を建国して、大東亜共栄圏を押し広げ、アジア制覇の野心が剥き出しにしていたのです。日華事変が勃発し、国際連盟を脱退し、米英との戦いが始まろうとしていたころの農村出身の一人の女性の姿が描かれている作品でした。

 その作品に登場する女性が、母の世代の女性であること、母の境遇に重ね合わせてみると、紙一重で、身を落とすことなく、母が生きられたことを考えてしまうのです。台湾に売られそうになるのを、すんでのところで警察に保護されて、危機を免れたわけです。

 先週、インドと同じ〈カースト制〉のあるネパールで、低い身分の女の子が人身売買で売られているというお話を聞きました。21世紀の世界の片隅に、そんなことのあるのに驚ろかされたのです。そう言った子どもたちを救出し、教育を受けさせ、自活の道を切り開くために、働いているキリスト教会の団体があるのを知りました。

 こんな人の世の現実に、聖書の教会も目を閉じていないのです。令和の代(よ)、家出や怠業で東京の繁華街に出て来る〈JK(女子高校生)〉に魔手をのばして、犯罪の中に引きずり込んで、金儲けを企む男たちがいるのです。そんな現実に、目を光らせて、わたしの弟は長く救出活動に関わり続けきています。
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 旧約聖書に、ラバブという女性が登場します。エリコに住む、「異教の女」に目を向けてみましょう。

 『ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。 (ヨシュア21節)・・・エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家に入った者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから(v3)・・・そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。v 15)・・・ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。(v21)』

 このようにして、ラハブは、イスラエルの民の斥候たちを匿い、逃がし、その使命を成功させたのです。このラハブは「遊女」だと特記しています。そして、

 『同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。(ヘブル225節)』

 遊女が、その神の民を助けたことによって、「義と認められた」とあります。どんなことをしていた人でも、神のみ旨の中を生きるなら、「義」とされるのです。そればかりではないのです。

 『サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ(マタイ156節)・・・ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。(v16)』

 これは、救い主イエスさまが誕生された家系図です。なんと遊女ラハブ、ダビデの姦淫の相手ウリヤの妻(バテシバ)までも、救い主を生み出す母胎に選ばれているではありませんか。驚くほどの《神の謙遜》です。人がどんな背景にいたとしても、「救われる」のです。驚くべき「神の選び」ではないでしょうか。

(現在の「上河内」の位置、キリスト教クリップアートの「ラハブ」です)

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先生と呼びますか?

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 オランダの首相をし、説教者でもあったアブラハム・カイパーが、次のように言っています。『牧師が、牧師と呼ばれる以外の一切の名称を排除します!』と、アメリカの大学で行われた講演会で語りました。

 ある時、キリスト教会での『牧師』の呼称の仕方が、議論されたことがありました。超教派の若い牧師さんたちのセミナーでのことでした。若かった私は、『私たちの教会では、私のことを、「◯◯さん(ミスター)」で呼ぶのです。それに抵抗のある方は「牧師さん」と言われます。ある子どもさんは、私のことを名前でさえ呼ぶのです!』と言いました。

 そうしましたら、『それでは、教会員の示しがつかなくなります。彼らに模範にならなければならないので、私は家内にも子どもたちにも、私のことを《先生》と呼ばせています!〈牧師としての権威〉は、まず呼び方で示さなければならないのです!』と言われました。牧師であることを認めてもらうために、まずは、呼び方が大切だと言う考え方なのです。これは「権威主義」の表れなのではないかなと思ってしまったのです。

 引越し先の街に住んだ時、私の母が、家内のお母さんに会って誘われたのは、アメリカ人宣教師の開拓された教会でした。この教会の牧師をされていた方は、ご自分を苗字でもなく、『ジャック!』と呼ばせていました。それでは、この方を、母は『ジャックさん!』と呼んでいたのです。アライアンス・ミッションのカナダ人宣教師の教会で救われた母は、父の仕事で引っ越すたび、紹介された教会で礼拝を守って来ていましたから、そんな呼び方をしたのは、この教会に来て初めてのことでした。

 この方が、牧師としての権威が欠けていたり、自信がなかったのではないのです。元軍人でしたし、体も大きく、クリスチャンの柔和さの中にも、威風堂々としたものがありました。でもその人となりには、人を寄せ付けないような、威圧するものはまったくありませんでした。僕(しもべ)のようにして、仕えておられました。『ジャックさん!』と呼んでいた母にも、彼を低く見るような、軽蔑の態度は微塵も見られませんでした。

 それまで、新約聖書中心の説教を聞き続けてきた母が、旧約聖書から、みことばを説き明かす、彼の説教に耳を傾けるようになっていたのです。そこにあったのは、人の権威ではなく「みことばの権威」、神の御子の臨在される「神の権威」、幼子のようにならなければ入ることの出来ない「神の国の権威」でした。人があがめられないで、イエスさまが「神の御子」として栄光をお受けになっていました。そして、「みことば」が、最大限の権威を与えられていたのです。

 イエスさまは、『あなたがたは先生・・師と呼ばれてはいけません。(マタイ238節)』と言われ、そう呼ばれたいと願う律法学者たちを「偽善者」と呼ばれておいでです。なぜ、そんなことをわざわざ弟子たちにお話になられたのでしょうか。ルカは、初代教会の伝道を記録する上で、ローマの百人隊長のコルネリオが、ペテロの足元にひれ伏したときに、『お立ちなさい。私もひとりの人間です。(マタイ10章節)』と言って彼を起こした記事を記しています。

 何年も前のことです。宣教師さんが、天幕集会をしていた時、著名な牧師さんを講師に、一緒に働かせていただいた宣教師がお招きしました。お二人の伝道師が同伴して来られ、私の家に一人をお泊めしました。彼女は、私のことを『先生!』と呼んでいました。ところが、そういったタイトルを持っていない、ただの献身者であることが分かった時から、『兄弟!』と呼び変えたのです。

 それで、イエスさまの言われたことが、少し分かったのです。そう言った呼称には、「権威主義」が潜んでいるのです。「権威」を認められていない者には使えないのです。『どのように呼ぶか?』、『どの様に接するか?』を、とっさ判断して、ことばと態度を選択しなければならない、日本型縦社会の弊害なのだと言うことも分かった次第です。

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 天国に行った時、地上で呼んでいた「先生」の呼称は通用しないのだと、私は信じています。そこは、イエスさまを長兄とする兄弟姉妹の世界だからです。『スポルジョン先生!』とか『岡田先生!』と呼んでいた方が、『ジョン兄弟』、『稔兄弟!』と呼びかえるとしたら、きっと抵抗があることでしょうか。でも実際のところは、どうやって呼び合うのでしょうか。

 でも、若い伝道師が、白髪の宣教師を、わたしの目の前で、『ジャクソン兄弟!』と、だいぶ横柄な態度で呼んでいるのを聞いたことがあります。それは聖書的でしたが、態度が正しくありませんでした。同等、同等以下に響きがしていたのです。やはり大切なのは、柔和さや謙遜さなのだと言うことが分かったのです。呼ばれた宣教師さんは、何でもないように感じておいでで、立派でした。

 江戸の川柳に、『先生と 呼ばれるほどの ○○でなし』と言うのがあるそうですが、ほんとうに〈大バカな私〉を救って赦してくださった、イエスさまだけに、たとえ川柳で揶揄された呼称であっても、本来の意味を込めて使いたいのです。昔のクリスチャンが、『エスさん!』と呼んだとか。そう呼ばれて、イエスさまはニコニコとお喜びだったのでしょうね。

(「キリスト教クリップアート」、「カイパーの著書」です)

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折々に降る雨

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 一昨晩は、猛烈な雨で、巴波川が増水し、街が煙っていました。それでも去年の視界が5メートルもなさそうな強風と強雨の時には比べられませんでした。年々歳々、悪天の規模が増強しているのは確かです。雨には、次のような日本語があります。

春雨 雨脚は強くなくシトシトと降る雨でしょうか。

紅雨 こうう、花が咲く頃に咲く花に降りかかるように降る雨です。

緑雨 りょくう、新緑の頃の雨を言い雨が美しく感じられるようです。

麦雨 ばくう、むぎが実る頃の雨です。

五月雨 さみだれ、最上川を詠んだ芭蕉の句を思い出します。

梅雨 ばいう、洗濯物の乾かない雨です。

俄雨 にわかあめ、夕立のことでしょうか。

驟雨 しゅうう、強い俄雨を言います。

穀雨 こくう、麦や米や野菜が育つような恵みの雨のことです。

秋雨 しゅうう、夏が終わろうとした秋に梅雨に似たような長雨です。

黒雨 こくう、四日市公害などの煤煙を含んで黒くなって落ちる雨です。

白雨 はくう、明るい空からの俄雨を言うようです。

氷雨 ひょうう、みぞれや雪に変わろうとする冷たい雨のことです。

時雨 しぐれ、晩秋から初冬にかけて降ってすぐ止む雨を言います。

村雨 むらさめ、強くさっと降って止んでしまう雨です。

宿雨 しゅくう、長く降り続ける雨のことです。

涙雨 なみだあめ、涙のように少ししか降らない雨のことです。

 この数年の、線状降水帯のもたらす雨は、古来の日本語では表現できない量や強さの雨が注目されています。瞬く間に道路が水没、陥没してしまうように降ります。最近の雨です。

暴雨、豪雨、爆雨、ゲリラ雨、激雨

鬼雨 きう、鬼が暴れているような猛烈な雨だそうです。

 それとは違った雨もあります。

喜雨 きう、雨が降らないで乾いた畑に降ってくれる雨を言います。

天泣 てんきゅう、雲もないのに降る雨のことです。

袖笠雨 そでがさあめ、袖で凌げるような小雨を言います。

慈雨 じう、恵みの雨

甘雨 かんう、穀物や野菜を育てる雨を言います。

小糠雨 こぬかあめ、霧のような細かく糠のような雨です。

夕立 ゆうだち、一日に暑さや疲れを癒すような雨でした。

雷雨 らいう、大好きな雨です!

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 作詞が梅木三郎、作曲が佐々木俊一の「長崎物語」が、子どもの頃にラジオから流れていました。

1 赤い花なら曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の ああ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

2 うつす月影彩玻璃(いろガラス)
父は異国の人ゆえに
金の十字架心に抱けど
乙女盛りをああ曇り勝ち
ララ曇り勝ち

3 坂の長崎甃路(いしだたみ)
南京煙火(なんきんはなび)に日が暮れて
そぞろ恋しい出島の沖に
母の精霊(しょうろ)がああ流れ行く
ララ流れ行く

4 平戸離れて幾百里
つづる文さえつくものを
なぜに帰らぬじゃがたらお春
サンタ・クルスのああ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

 同級生のナガシマ君が、住んでいた家が「オランダ屋敷」だと言うので見に行ったのです。普通の家で、洋館などではなく、古い家で屋根も破れていたのです。それで雨漏りをすると言うので、この歌を文字って、そう呼んでいたのです。

 小学校時代に住んでいたトタン屋根の、父の家も雨漏りがしていました。戦後の旧造りの売り屋を、父が急いで買ったのでしょう。雨漏りがしても懐かしい家です。中央道の建設地点になってしまい、わたしが、家を壊して土地を道路公団に渡しました。何度か、その家の前を取ったりしました。そう今でも、いつもニコニコしていた2歳上の同級生のナガシマ君が、雨が降ると気になります。

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収活中

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 この写真のペットボトルに記された名に惹かれて買ってしまいました。ただ飲み物の宣伝ではないのです。この名前の方と、懐かしい思い出がありましたので、東武日光線の下今市駅のプラットフォームの自販機で、つい買った次第です。わたしたちの婚約式に、やって来られたのが、この 商品名と同じ “  COSTA “ さんでした。

 ニューヨークの神学校の教授で、アフリカで宣教活動をしている教え子を激励する旅の途中、羽田で降りたのです。ところがビザなしでの入国で、入国管理局から,母教会に連絡があり、兄が羽田に車で出向いて、身柄を引き受けて、特例で入国でき、お連れした方でした。

 ギリシャ人とアラブ人の血を引くアメリカ人で、元ボクサーでしたが、クリスチャンで、聖書学校で学んだ後に、神学校で教えておいででした。わたしたちの教会の宣教師さんの友人で、テキサスの街の教会で出会い、お互いを尊びあっていたそうです。《らしからぬ伝道者》でした。

 その来訪が、まさにわたしたちの婚約式の前日だったのです。この方が説教をし、兄が司式してくれて婚約をしました。その滞在中に、礼拝で賛美する chorus を教えてくれたのです。わたしたちの東京の母教会のみなさんと、ピアニストをしていた家内たちが、何曲か一緒に翻訳をして、集会で賛美したのです。

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♯ O God is good(主はすばらしい)

O God is good

O God is good

God is good to me (私の主)

 その一つがこれです。何度も繰り返し賛美するのですが、明るい Jazz 調のメロディーで、讃美歌のような荘厳さがない代わりに、神さまを身近に感じられ、救い主イエスさまを目の前で、褒め歌を歌うようでした。その後、聖書にメロディーを付けたり、歌詞やメロディーが与えられて、だれもが作詞作曲をして、新しい賛美礼拝がなされていきました。

 この方が、二度目に来られた時でしょうか、その chorus を持って、諸教会で紹介して、この国の中で、賛美 chorus が広まっていったのです。讃美歌の格調の高さと共に、このような賛美の軽快さ、明るさ、躍動は、神を褒め称えるのは素晴らしいことだと思っております。

 この方が、ナスを皮を残してくり抜いて、そこに、くり抜いたナスの実、牛肉の挽き肉、玉ねぎ、ニンニク、それに研いだお米などを混ぜたものを入れて、コンソメやトマトケチャップのスープで煮るのです。美味しかった!

 その料理の味を、そのペットボトルのコーヒーを、下今市に駅のプラットフォームで飲んだら、その方と一緒に、懐かしく思い出したのです。食事に何をどう食べるか注意していた方でしたが、病気になられて、ニューヨークだったでしょうか、そこの病院に入院された後、帰天されたのです。わたしを連れて、アフリカに行きたかったそうですが、その門は、私の前に開きませんでした。

 最近、懐かしく出会ったみなさんを、よく思い出します。新型コロナの発生と蔓延、地震の頻発、生命軽視、戦争の勃発、それらに加えて、自分が老いていく人生の晩期に差し掛かって、「収活(終活と言いたくないので〈収める活動〉と言いたいのです)」をしつつあります。見えるものも、見えないものも整理中です。

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褒賞

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 「先懸(さきがけ)」と言う武勲が、昔の戦にはあったのだそうです。敵陣に切り込む最初の者になることが褒められ、それへの褒賞があったのです。子育ての間、ご褒美欲しさに、一生懸命、家の仕事をした子が、わが家にもいました。鎌倉時代、肥後国(今の熊本)に、竹崎季長(すえなが)という名の御家人がいて、蒙古軍の襲来を知って、我先に戦場に駆け付けて、先陣を切って、敵軍に切り込んだのです。

 その先懸をした竹崎季長への勇気への賞賛が、鎌倉幕府からなかったのです。当時の御家人は、「領地」を認めたのです。それは武士(もののふ)のならいだったからです。立身出世の一歩であり、多くの部下を得て、養い、次の戦に備えて。武勲をあげると言うのが、御家人の生き方であったからです。

 それで、竹崎季長は、褒賞を得るために、肥後を出立して鎌倉に行くのです。元軍との戦いで、自分の家来も馬も、敵の放った矢で負傷してしまった負傷兵だったという理由ででしょうか、褒美の対象にはならなかったのです。

 でも、竹崎季長は諦めなかったのです。それほど必死だったのでしょうか。武士の道とは、そう言ったものなのかも知れません。幕府の重職にあった、安達泰盛(あだちやすもり)に会うのです。彼が、幕府の恩沢奉行(おんたくぶぎょう)だったからです。自分が先懸をしたこと、戦場でしっかり立って戦ったことを、当時の武士の作法通りに訴えます。
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 それで念願の褒賞を受けて、肥後国に帰っていくのです。この積極性には、驚かされます。一度も、いえ、都下の村から町になったばかりの町の展覧会で、絵と工作で「銅賞」をもらったことがあります。その賞状は、いつの間にか、どこかに行ってしまったのです。そんなわたしですが、もっと季長の積極的があって、村長さんや先生や所長に願っていたら、もう少し上級の銀賞をもらえたかも知れません。

 ところで、徳川家康は、「武家御法度」を定め、懲罰をはっきりし、諸大名の管理を怠らなかったので、盤石な幕府を作り上げることができたのでしょう。源頼朝の鎌倉幕府は、もう少し武勲のあった御家人への褒賞に、気前良さがあったら、忠臣の部下を得て、長く続く政権を維持できたことでしょう。また、良き参謀がいたら、鎌倉幕府は長らえたかも知れません。

 自慢話のないわたしですが、父の唯一の自慢話を、自分のものにはできませんが、鎌倉の「若宮大路」の道を参内した租が、三浦大介(義明)で、その末裔だと言っていました。今、NHKの大河ドラマの「十三人」の一人になるのでしょうか。歴史に残る人物は、現代に生きる私たちが、たどっていけば、誰かにたどり着くことでしょうから、この時代の自慢話など意味がなさそうです。

 『よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。(2ヨハネ1章8節)』

 神を信じ、忠実に生きた者には、報い(報酬)があると、イエスさまに仕えた弟子のヨハネが、その教会に向けて書き送った手紙の中で言っています。報いは結果であって、目的ではありません。功なき者のような、こんなわたしにも、永遠のいのちが与えられるのです。

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 一昨日の土曜日、「リレイ・フォー・ライフ・ジャパンとちぎ( RELAY FOR JAPAN )」が、壬生総合運動公園で行われ、家内と参加しました。ガンに対決している方とご家族、ガンでご家族や友人を亡くした方、医療従事者、ボランティアのみなさんが集まっての event でした。亡くなった方たちとの懐かしい思い出を新たにしていましたし、ガンへの取り組みなども話し合われていたのです。「永遠のいのち」の約束を信じるわたしは、みなさんが、「永遠のいのち」に預かれるように、静かに願っていました。

(現代の「若宮大路」、「季長の合戦振り」、「リレイ参加記念の手形」です)

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愛媛県

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 「坊ちゃん」、学園ものの小説で、一番有名なのが、この作品ではないでしょうか。夏目漱石が、松山中学校の教師として赴任した経験から書き上げたものです。主人公は、直参旗本の家の出で、東京の物理学校を卒業し、数学の教師に、月給40円で、週21時間の授業を担当しています。

 山嵐、赤シャツ、野ダイコとあだ名された教師たちとのやりとりで、東京の家にいた、お手伝いさんの清(キヨ)に可愛がられて面倒を見てもらって、幼少期から過ごしています。無鉄砲な損ばかりの坊ちゃんが主人公です。小説の内容は面白いのです。

 漱石が、一年間、中学校の教師をしたという点で、松山市や愛媛県に近さを感じてしまいます。日本語の近代化、江戸期の話し言葉と書き言葉の違いを、「言行一致」させた文人として、漱石の果たした役割は大きかったと言えるそうです。漱石は足繁く寄席に通って、圓朝(三遊亭)の噺を聞いて、その江戸言葉に学んだそうです。

 江戸から松山は、二百三十里(920km)、28才の漱石は蒸気機関車に乗り継いで、瀬戸内海を渡って、松山に来ています。松山中学校の英語教師となり、ほぼ一年の間滞在しています。ここは、松山城や道後温泉で有名な街なのです。

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 律令制下、「伊予国」と呼ばれ、江戸時代には伊予松山藩で、加藤、蒲生、松平の各氏が治めて明治維新を迎えています。現在の県都は松山市、県花はみかんの花、県木は松、県鳥はコマドリ、人口は131万の県です。瀬戸内気候の穏やかな土地ですが、冬期には雪も降るそうです。

 わたしは、県東部にある街に、一人の牧師、金田福一(かなだふくいち)師を訪ねたことがあります。宇和島の出身の方で、結核に罹り、河原の小屋のような家に住んで、極貧の中を生きた人でした。福音に触れて、クリスチャンになります。ハンセン氏病の愛兄姉を教会に招いては、聖会を持たれた方でした。赤裸々にご自分の心の思いを語りながらも、救いの喜びがあふれた方でした。

 母と同じ年のお生まれで、この方の書いた書物に啓発されて、弟子入りしたくての訪問でした。まだ、identity の確かでない時に、それを探そうとしての旅だったのです。唐突な願いに、何やら戸惑っておいででしたが、知恵深く、わたしの願いをかわされてしまいました。

 越後長岡藩の家老を務めた河井継之助も、若い時に、師を求めて、伊予松山藩ではなく、備中松山藩(現岡山県にある高梁市です)に、山田方谷(ほうこく)を訪ねています。初めは若者特有の横柄な態度を持って接したのですが、方谷師は農民出身ながら、その度量の大きさ、謙遜さに、鼻っ柱をおられています。半月ほどの滞在で、継之助は弟子入りを許されています。師の元を辞する時、帰り道で三度振り返り、土下座をして、継之助は敬意を表したそうです。

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 わたしが表敬訪問をさせていただいた師も、小学校を出ただけの独学の牧師でした。しかしこの方の聖書解釈、説教は鋭いものがありました。週報を、毎月まとめて、お元気の間、送ってくださいました。謙遜さの中に表される知恵でしょうか、そう言ったものが欲しかったからです。

 またコロナ騒動の直前でしたが、華南の街から、ご夫婦で、家内を、わざわざ見舞ってくださった牧師も、大躍進時代に、小学校でしか学べなかったそうです。しかし、市や省の枠を越えて、数えきれないほどの家の教会、信者さんのお世話をしておいでの器なのです。家の教会の第二世代目のリーダーと言えるでしょうか。わたしたちのいる間、漢検によらえられた時期がありました。気骨ある伝道者です。

 坊ちゃんと、この牧師さんとの出会いを通して、愛媛県は身近に感じてならないのです。台湾に出かけた時に、台北から高雄までの街にある、いくつもの教会を訪ねました。台南に出かけた時に、市内の教会のみなさんと、近くの渓谷に、バスのハイキングに出かけました。そのバスで、バスガイドならずも、バス説教者としてお話しをさせていただいたのです。

 その台南市には、有名な日本人が二人いたそうです。一人は、台南平野に農業用水のダム建設をした八田與一です。もう一人は、近藤兵太郎です。八田と同じ時期に、台湾にいて、嘉義農林学校を、台湾代表で、甲子園に導いて準優勝させた野球部の監督でした。それは1931年のことでした。

 この近藤は、松山に生まれています。ご自分も野球をした人でしたが、後に、母校の松山商業学校を、甲子園に連れて行った監督でもありました。野球を「万民のスポーツ」と理解して、台湾の原住の高砂族の学生、台湾人、そして日本人の混成チームで、甲子園代表になって、準優勝をしたのです。

 『(近藤先生は)マムシに触っても近藤監督にさわるな、とみんなが囁き合うほど怖い人であった。しかし、大変に熱心で、怪我などした者にはとことん気を配ってやさしかった。真剣、必死が好きな方で、いつも体中から熱気が溢れているようだった・・・近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた。差別、ひとつもありませんでした!』と、教え子の蘇正生が評しています。
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 九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす

 野球と言えば、わたしたちの国で、どうしても語らなければならない人物は、「松岡子規」です。この歌は、子規が詠んだもので、この人が、どれほどの「野球狂」であったかがうかがえます。野球用語に、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などがありますが、これらは子規の翻訳によります。2002年には、「野球殿堂」入りしているほどでです。日本が、アメリカに匹敵するほどの野球愛好国になったことに、子規は大きく貢献しているのでしょう。

 こう言う人材を生み出した地が、愛媛なのです。美味しいみかんを生産する県でも有名です。「やっちゃ場」という青果市場でアルバイトを何度もしたことのあるわたしは、その当時の最高品種は、この愛媛県産のみかんでした。

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 愛媛の海洋部、瀬戸内海には、「村上水軍」と呼ばれた海賊がいて、海の支配権を握っていた時代があります。中世の西日本の海上で活躍をしましたが、豊臣秀吉の治世下に、海賊への対策が講じられ、その活動は止んでしまったようです。本拠地があったのは、今の今治市付近だったそうです。造船業や海運業が盛んな歴史があります。

(宇和島のみかん、野球に興じた若き松岡子規、村上水軍の海賊船です)

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日光 no.2

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 山道の脇に咲いていた花です。誰も見てくれない花なのに、大雨が降ったりした今夏、強烈な日差しの中、ひっそりと耐えて咲いていました。きっと、創造者に向かって、いのちの躍動、色彩を下さった神に向かって、懸命に咲いているのでしょう。自然界は、神のいますことの証人なのでしょう。下の朝顔は、留守してベランダを輝かせていた「朝顔」です。

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日光

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 一年ぶりに、日光の街の中心を離れた、街の南の方の「日光オリーブの里」に来ています。家内の通院日で、上の息子が通院の助けをしてくれ、ここまで車で送ってもらいました。家内にとっては、最上の《薬》で、次男がお嫁さんと一緒に来る時も同じですが、家内の目の色、表情が、ガラッと変わって、元気になってしまうのです。

 どんな薬にも優って、効用のある薬ですが、これまで40回ほど、がん免疫療法薬の「キイトルーダー(ペムブロリズマブ)」の投与を続けてきました。前々回の通院日に、主治医から、アメリカなどでは2年間の投与で終了なのだと聞いたのです。

 ところが日本では違っています。毎回、X線検査、血液検査、尿検査、時にはCTMRIPETなどの検査をしてきましたが、癌が活発になっていない休止状態が続いていましたので、一旦休止ということにしました。

 主治医の方からは言い出せないでいたのですが、欧米の例などをお聞きしましたので、今後は休止して様子を見守るということにしています。もう3ヶ月ほど投与はしていませんが、一昨日の胸部検査でも、癌の増殖は見られませんでした。

 そんな安心感から、日光に来たわけです。ここは、「ムラサキスポーツ」というスポーツ製品やスポーツ・イヴェント開催などの会社の社員用保養所で、一般にも貸し出している温泉宿泊施設です。素晴らしく配慮された施設で、喧騒から離れて、いっぱいの自然の中で、ゆっくりできるのです。

 コロナ禍で、利用者が激減しているのに、手を抜かない保守管理がなされていて、いつ来ても施設が綺麗で、気持ちよく過ごすことができます。明確な policy を経営者がお持ちなのがわかります。また来たくなるのです。

 帰国後、ゆっくりと時間が過ぎていて、その上での《ゆっくりさ》と言うのも、とても祝福でいっぱいなのです。ここで知り合いになった職員のみなさんに、華厳の滝に連れて行ってくださったり、名物の蕎麦を食べに行ったり、今回は、自家漬けの梅干しまでいただいて帰る、そんな時を過ごしています。

 もう紅葉が始まり、高い空で赤とんぼが群れて乱舞していて、栗の実も落ち、秋の花々が咲き乱れている日光の南に山の中は、素敵な所です。

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今日まで生きて来れました

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 何時でしたでしょうか、牧師研修会に参加していた時に、大浴場に入っていました。顔馴染みの牧師さんが、湯船の中におられて、顔を見て挨拶を交わして、しばらくしましたら、『廣田さんは以前はヤクザだったんですか?』と、真剣な顔で聞かれたことがあったのです。まあヤクザのような罪人だったことには、間違いありませんし、ヤクザ予備軍だったかも知れません。でも極道の世界に入らずに、生きて来れました。

 なぜそんなことを聞かれたのかと言いますと、わたしの腹部に、けっこう大きな〈刀傷?〉があって、ミミズ腫れしているように見えたのでしょうか。何時もは隠して、公衆浴場や温泉に入るのですが、この方が、後ろからでしょうか、もろに傷跡を見られて、黙っていられなかったのでしょう。

 39才の時でした。腎臓を病んでいたすぐ上の兄が、1リットルほどの透析用液体を腹膜に入れて、一日四回ほど入れ替える「灌流式透析」で、体の負担が大きく、脱腸を起こしていて、血液透析に変えなければならない時期にありました。血液型が、長兄と次兄とわたしが同じで、腎臓移植を考え始めたのです。そんな中、家内が承諾してくれたので、わたしが donor になって、手術に臨んだのです。

 次男がまだ3才でした。初めて遺書を書きました。無事に手術を終え、兄の体で、移植した腎臓が動き出し、尿意が戻ったのだそうです。今年、81才になった次兄は元気でおります。その移植手術の話が、牧師仲間に広がって、岡山県にある長島曙教会の愛兄姉が聞かれて、みなさんが、献金をしてくださったことがありました。

 詩人で牧師の河野進師から、お便り(現金書留でした)をいただいたのが、もう40年近く前になるでしょうか。瀬戸内海の大島と言う所に、ハンセン氏病を病まれた方の療養所があって、そこにある曙教会からの献金でした。それを託された河野進牧師さんが、お手紙を添えてお送りくださったのです。

 政府からのわずかな手当の中から、教会のみなさんが捧げてくださったのです。《聖なる戦慄》と言ったらいいのでしょうか、社会の中で孤立し、差別され、隔離さてている、辛い経験をされてきて、福音の触れて、信仰を持たれた方が、感動してくださって、愛をお示しくださって、仰天し感謝したのです。

 昔は、この病に罹ると、『汚れもんが通ります。汚れもんが通ります!』と言いながら、公の道の隅に寄って、逃げるようにして通行していたのだそうです。差別や区別を受けながら、親にも友にも社会にも見捨てられていたのです。そのように病む人に、

『イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」(マルコ141節)』

 そう言われたのです。多くの人の病も、過去も癒し、治し、回復されるお方がです。わたしの過去も、罪も、悪癖も、イエス・キリストは、癒してくださったのです。同じように救いを受けた人たちを励まされて、今日まで、わたしも生かされて来ました。

(「キリスト教クリップアート」のイラストです)

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