愛媛県

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 「坊ちゃん」、学園ものの小説で、一番有名なのが、この作品ではないでしょうか。夏目漱石が、松山中学校の教師として赴任した経験から書き上げたものです。主人公は、直参旗本の家の出で、東京の物理学校を卒業し、数学の教師に、月給40円で、週21時間の授業を担当しています。

 山嵐、赤シャツ、野ダイコとあだ名された教師たちとのやりとりで、東京の家にいた、お手伝いさんの清(キヨ)に可愛がられて面倒を見てもらって、幼少期から過ごしています。無鉄砲な損ばかりの坊ちゃんが主人公です。小説の内容は面白いのです。

 漱石が、一年間、中学校の教師をしたという点で、松山市や愛媛県に近さを感じてしまいます。日本語の近代化、江戸期の話し言葉と書き言葉の違いを、「言行一致」させた文人として、漱石の果たした役割は大きかったと言えるそうです。漱石は足繁く寄席に通って、圓朝(三遊亭)の噺を聞いて、その江戸言葉に学んだそうです。

 江戸から松山は、二百三十里(920km)、28才の漱石は蒸気機関車に乗り継いで、瀬戸内海を渡って、松山に来ています。松山中学校の英語教師となり、ほぼ一年の間滞在しています。ここは、松山城や道後温泉で有名な街なのです。

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 律令制下、「伊予国」と呼ばれ、江戸時代には伊予松山藩で、加藤、蒲生、松平の各氏が治めて明治維新を迎えています。現在の県都は松山市、県花はみかんの花、県木は松、県鳥はコマドリ、人口は131万の県です。瀬戸内気候の穏やかな土地ですが、冬期には雪も降るそうです。

 わたしは、県東部にある街に、一人の牧師、金田福一(かなだふくいち)師を訪ねたことがあります。宇和島の出身の方で、結核に罹り、河原の小屋のような家に住んで、極貧の中を生きた人でした。福音に触れて、クリスチャンになります。ハンセン氏病の愛兄姉を教会に招いては、聖会を持たれた方でした。赤裸々にご自分の心の思いを語りながらも、救いの喜びがあふれた方でした。

 母と同じ年のお生まれで、この方の書いた書物に啓発されて、弟子入りしたくての訪問でした。まだ、identity の確かでない時に、それを探そうとしての旅だったのです。唐突な願いに、何やら戸惑っておいででしたが、知恵深く、わたしの願いをかわされてしまいました。

 越後長岡藩の家老を務めた河井継之助も、若い時に、師を求めて、伊予松山藩ではなく、備中松山藩(現岡山県にある高梁市です)に、山田方谷(ほうこく)を訪ねています。初めは若者特有の横柄な態度を持って接したのですが、方谷師は農民出身ながら、その度量の大きさ、謙遜さに、鼻っ柱をおられています。半月ほどの滞在で、継之助は弟子入りを許されています。師の元を辞する時、帰り道で三度振り返り、土下座をして、継之助は敬意を表したそうです。

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 わたしが表敬訪問をさせていただいた師も、小学校を出ただけの独学の牧師でした。しかしこの方の聖書解釈、説教は鋭いものがありました。週報を、毎月まとめて、お元気の間、送ってくださいました。謙遜さの中に表される知恵でしょうか、そう言ったものが欲しかったからです。

 またコロナ騒動の直前でしたが、華南の街から、ご夫婦で、家内を、わざわざ見舞ってくださった牧師も、大躍進時代に、小学校でしか学べなかったそうです。しかし、市や省の枠を越えて、数えきれないほどの家の教会、信者さんのお世話をしておいでの器なのです。家の教会の第二世代目のリーダーと言えるでしょうか。わたしたちのいる間、漢検によらえられた時期がありました。気骨ある伝道者です。

 坊ちゃんと、この牧師さんとの出会いを通して、愛媛県は身近に感じてならないのです。台湾に出かけた時に、台北から高雄までの街にある、いくつもの教会を訪ねました。台南に出かけた時に、市内の教会のみなさんと、近くの渓谷に、バスのハイキングに出かけました。そのバスで、バスガイドならずも、バス説教者としてお話しをさせていただいたのです。

 その台南市には、有名な日本人が二人いたそうです。一人は、台南平野に農業用水のダム建設をした八田與一です。もう一人は、近藤兵太郎です。八田と同じ時期に、台湾にいて、嘉義農林学校を、台湾代表で、甲子園に導いて準優勝させた野球部の監督でした。それは1931年のことでした。

 この近藤は、松山に生まれています。ご自分も野球をした人でしたが、後に、母校の松山商業学校を、甲子園に連れて行った監督でもありました。野球を「万民のスポーツ」と理解して、台湾の原住の高砂族の学生、台湾人、そして日本人の混成チームで、甲子園代表になって、準優勝をしたのです。

 『(近藤先生は)マムシに触っても近藤監督にさわるな、とみんなが囁き合うほど怖い人であった。しかし、大変に熱心で、怪我などした者にはとことん気を配ってやさしかった。真剣、必死が好きな方で、いつも体中から熱気が溢れているようだった・・・近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた。差別、ひとつもありませんでした!』と、教え子の蘇正生が評しています。
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 九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす

 野球と言えば、わたしたちの国で、どうしても語らなければならない人物は、「松岡子規」です。この歌は、子規が詠んだもので、この人が、どれほどの「野球狂」であったかがうかがえます。野球用語に、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などがありますが、これらは子規の翻訳によります。2002年には、「野球殿堂」入りしているほどでです。日本が、アメリカに匹敵するほどの野球愛好国になったことに、子規は大きく貢献しているのでしょう。

 こう言う人材を生み出した地が、愛媛なのです。美味しいみかんを生産する県でも有名です。「やっちゃ場」という青果市場でアルバイトを何度もしたことのあるわたしは、その当時の最高品種は、この愛媛県産のみかんでした。

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 愛媛の海洋部、瀬戸内海には、「村上水軍」と呼ばれた海賊がいて、海の支配権を握っていた時代があります。中世の西日本の海上で活躍をしましたが、豊臣秀吉の治世下に、海賊への対策が講じられ、その活動は止んでしまったようです。本拠地があったのは、今の今治市付近だったそうです。造船業や海運業が盛んな歴史があります。

(宇和島のみかん、野球に興じた若き松岡子規、村上水軍の海賊船です)

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