褒賞

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 「先懸(さきがけ)」と言う武勲が、昔の戦にはあったのだそうです。敵陣に切り込む最初の者になることが褒められ、それへの褒賞があったのです。子育ての間、ご褒美欲しさに、一生懸命、家の仕事をした子が、わが家にもいました。鎌倉時代、肥後国(今の熊本)に、竹崎季長(すえなが)という名の御家人がいて、蒙古軍の襲来を知って、我先に戦場に駆け付けて、先陣を切って、敵軍に切り込んだのです。

 その先懸をした竹崎季長への勇気への賞賛が、鎌倉幕府からなかったのです。当時の御家人は、「領地」を認めたのです。それは武士(もののふ)のならいだったからです。立身出世の一歩であり、多くの部下を得て、養い、次の戦に備えて。武勲をあげると言うのが、御家人の生き方であったからです。

 それで、竹崎季長は、褒賞を得るために、肥後を出立して鎌倉に行くのです。元軍との戦いで、自分の家来も馬も、敵の放った矢で負傷してしまった負傷兵だったという理由ででしょうか、褒美の対象にはならなかったのです。

 でも、竹崎季長は諦めなかったのです。それほど必死だったのでしょうか。武士の道とは、そう言ったものなのかも知れません。幕府の重職にあった、安達泰盛(あだちやすもり)に会うのです。彼が、幕府の恩沢奉行(おんたくぶぎょう)だったからです。自分が先懸をしたこと、戦場でしっかり立って戦ったことを、当時の武士の作法通りに訴えます。
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 それで念願の褒賞を受けて、肥後国に帰っていくのです。この積極性には、驚かされます。一度も、いえ、都下の村から町になったばかりの町の展覧会で、絵と工作で「銅賞」をもらったことがあります。その賞状は、いつの間にか、どこかに行ってしまったのです。そんなわたしですが、もっと季長の積極的があって、村長さんや先生や所長に願っていたら、もう少し上級の銀賞をもらえたかも知れません。

 ところで、徳川家康は、「武家御法度」を定め、懲罰をはっきりし、諸大名の管理を怠らなかったので、盤石な幕府を作り上げることができたのでしょう。源頼朝の鎌倉幕府は、もう少し武勲のあった御家人への褒賞に、気前良さがあったら、忠臣の部下を得て、長く続く政権を維持できたことでしょう。また、良き参謀がいたら、鎌倉幕府は長らえたかも知れません。

 自慢話のないわたしですが、父の唯一の自慢話を、自分のものにはできませんが、鎌倉の「若宮大路」の道を参内した租が、三浦大介(義明)で、その末裔だと言っていました。今、NHKの大河ドラマの「十三人」の一人になるのでしょうか。歴史に残る人物は、現代に生きる私たちが、たどっていけば、誰かにたどり着くことでしょうから、この時代の自慢話など意味がなさそうです。

 『よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。(2ヨハネ1章8節)』

 神を信じ、忠実に生きた者には、報い(報酬)があると、イエスさまに仕えた弟子のヨハネが、その教会に向けて書き送った手紙の中で言っています。報いは結果であって、目的ではありません。功なき者のような、こんなわたしにも、永遠のいのちが与えられるのです。

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 一昨日の土曜日、「リレイ・フォー・ライフ・ジャパンとちぎ( RELAY FOR JAPAN )」が、壬生総合運動公園で行われ、家内と参加しました。ガンに対決している方とご家族、ガンでご家族や友人を亡くした方、医療従事者、ボランティアのみなさんが集まっての event でした。亡くなった方たちとの懐かしい思い出を新たにしていましたし、ガンへの取り組みなども話し合われていたのです。「永遠のいのち」の約束を信じるわたしは、みなさんが、「永遠のいのち」に預かれるように、静かに願っていました。

(現代の「若宮大路」、「季長の合戦振り」、「リレイ参加記念の手形」です)

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