TOYOTA

.
.

 応用工学を学んだ人の思考というのは、社会科学を学んだ人とは違うかも知れません。その工学の学びを、実社会でも活かして研究を継続し、論文を書き、その業績は表彰され、工学博士号も取得した方が、自動車事故を起こしました。

 同じ様な研究者たちが、自動車を製造開発するために研究をし続けています。工学の世界でも、自動車の世界は花形の部門で、Nicolas-Joseph Cugnot が最初の車を作った時から、今では、無人運転ができ、空を飛ぶこともできるほどの機能を持つ車まで出現し、その精度は、さらに高度化しています。

 世界で最高で、最多の車を送り出してきた会社が製造した車、その車の性性を評価して、安全に運転できると結論して購入し、運転してきた工学博士が、『私の過失ではなく、車に欠陥があって事故が起きた!』と、事故後の裁判の弁明陳述をしています。応用工学を学んだ人の弁としてはおかしな結論です。

 いろいろな会社の車に乗ってきて、今は車を持たない私は、乗りたかった車もありましたし、名のある欧州車も、中国製の車も運転したことも、乗せていただいたこともあります。そんな所有歴と運転歴からしますと、その TOYOTA 製の車は抜群に良い車だったと思っています。

 数学、とくに幾何学が好きで、機械いじりをしては家中の機械を分解していたほどでしたが、その世界では生きることなく、今を迎えていますが、それでもただ感情的に物事に応答するだけではなく、工学的に、物理的に物事を見る目は、まだありそうです。

 そもそも機械を操作する機敏性が衰え、操作性の鈍化を知っているのに、加齢が原因であると認めず、鉄の塊の車を動かして、事故を起こし、車のせいにしてしまうのは、博士号を返上しなくてはならないのではないでしょうか。何よりも、二人の人の命を奪い、何人もの方に傷を負わせているのに、自己の責任を感じていないのが、不思議なのです。

 生きた人間を扱わないで、命のない物質に触れ続けた結果の人間観、生命観を持ち続け、社会の道義の外にいるのは、もっともなのかも知れません。ところが、車を製造販売した責任者は、この事故に、次の様に語っておいでです。

 『自分たちが製造したクルマが関わった事故により、大切な命とご遺族の方々の幸せな日常までもが一瞬で失われたという事実から決して目を背けることなく、こうした悲しい事故がなくなるよう、今後とも安全で安心なクルマの開発に全身全霊をかけて取り組んでまいります。

 トヨタは、重大な事故や事案などの発生時、当局からの要請の他、お客様からのお申し出に対し、きちんと車両の技術面を調査するための仕組みをすでに運用しております。今後もしっかり対応してまいりたいと思います。

 これからも皆様に安心してお乗りいただきたいとの思いも含め、クルマ社会に関わる全ての皆様と一緒になり、安全で安心に暮らすことができるクルマ社会の実現に向けて、引き続きあらゆる努力を続けてまいります。(朝日新聞)』とです。

 工学を学んだ者が自己弁護に終始し、学びをこの社会に形をもって貢献してきた自動車会社とは、これほど違いがあっていいのでしょうか。

(TOYOTAの原点・豊田佐吉の織機のイラストです)

 

.

悲しみ

.
.

 25歳の若者が、大胆な発言をしました。1966年3月のことです。そう言ったのは、” The Beatles “ のジョン・レノンでした。 

 『キリスト教は逝っちゃうだろうね。議論の余地はないね。僕は正しいし、僕が正しい事は証明されるさ。今やビートルズはイエスより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教、どちらが先に逝っちゃうかはわからないけどね。イエスは、まぁイケてたんじゃない?弟子たちはバカで凡人だった。僕に言わせれば、ヤツらがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたのさ!(ロンドンイブニング・スタンダード紙)』  

 1960年、” Liverpool(リヴァプール)で活動を開始し、世界中の若者を歓喜させた若者たち四人の Rock  group の chief でした。やがて、仲違いがおこり、1970年には解散してしまいます。大胆と言うよりは、随分と高慢なことを言ったものです。これって若者の言質(げんち)としてはよくあることです。後になって、その発言は言い過ぎたことを、彼が認めています。

 彼は、1980年末に、ニューヨークで、暴漢によって射殺されてしまいます。演奏活動を始めて20年、40歳での死でした。確かに有名になりましたが、そのわりには幸せ薄い人生だったのではないでしょうか。あのキリスト発言と射殺事件とは結びつける必要はありません。だれもが死ぬからです。

 言い知れない「悲しみ」があって、豊かな生活や、有名になっても、華やかそうに見えても、人の心の中から消えることがなさそうです。私は、青年期に、このBeatles に、全く関心がありませんでした。Rock  music も好きではなかったのです。華やかさや激しさやにこやかさの背後に、何かが隠れていそうで気になったのです。隠せられない「悲しさ」に違いありません。それもあって、あの様にキリストを誹謗したのではないでしょうか。

 『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書533節)』

 生きるって、楽しいことや喜ばしいこと、お祝いしたい様なことがある反面、「悲しみ」の方が遥かに多そうです。大人になるにつれ、父や母の中に、それらが隠されているのが分かったのです。戦時下に生を受け、物のない時代に育ち、病み、痛み、何度も手術を受け、苦しんだ日を数えた方が遥かに多い自分でもあります。

 私生児として旅の途中で家畜の傍で生まれ、死者を包む布で産着を着せられ、権力者に追われ、片田舎で育ち、大工を生業とする養父に育てられ、自らも大工として生き始め、養父なき後は母や弟妹の世話をした、そんな過去を持たれ、「悲しさ」を知っておられる方が、私を、死と恐れと刑罰とから救い出してくださったのです。

 『わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。(詩篇221節、マルコ1534節)』

 ただ、十字架につかれ死なれる直前に、そう言われました。救われる人の罪のために、《罪となられた神の御子》と父との間にあり続けた交わりが、突然断たれたことが分かっての叫びでした。罪とされ、汚れたイエスさまを、聖である父なる神は直視できなかったのです。その「悲しみ」があっての十字架なのです。

 時代と場所の違いはありますが、若い日に、この「悲しみの人」と出会ったのです。「キリスト」と称えられ、33年半の短い生涯で、私の罪の身代わりに十字架で死んでくださり、だれも経験したことのない復活をされ、今や父なる神の右の座に、生きて着座されている「救い主」なのです。「悲しみ」を知っていてくださる「理解者」、ご自分が、人として悲しまれたので、悲しむ人が理解できるのでしょう。そんな私のための「激励者」、「同行者」、やがて執り成してくださる「弁護者」なのです。

 自分の「悲しみ」の分を抱えながらも、「悲しむ人々」の間にありながら、それに押しつぶされたりしないで、自分に定められた日を生きています。どんな星の下に生まれたとしても、悲しみの現実に押し潰されないで生き抜いた母がいました。14で出会った神の御子を信じ続け、夫のために、産み落とした四人の子どもたちのために、祈り続けた母でした。

 実は救い主が誕生された時に、天には溢れる様な賛美が満ち溢れていました。凱旋の将、万軍の王を、御使たちは宇宙を震わせるほどに崇め、讃えたのです。十字架上で贖罪の業を終えられ、死から蘇られた時には、さらなる賛美がありました。今も、天には賛美が溢れています。母も賛美した人でした。イエスさまは、ジョン・レノンの言葉に代表される様に、誹謗されたり中傷されたり、悪口雑言を言われて悲しむことはありません。そういう人のご自分への不理解を悲しまれたのです、罪に翻弄され続ける人をご覧になって、今も「悲しむキリスト」なのです。

 

.

義、憐れみ、謙遜

.

.

 『 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ68節)』

 ここに、神さまが、人に求められたことが三つ挙げられています。 

 1.義を行い to do justly

 自分の損得だけを考え、求めて生きている人間に、真に人が生きるのは、「義」とは何かを知り、それを行うことだと、神さまは預言者ミカを通して言われたのです。

 「義」とは、漢字で「羊」と「我」の合成字です。私を教えたアメリカ人宣教師は、このことを知っていたのです。人は常に「不義」であって、神さまだけが「義なるお方」だと教えてくれました。まさに、人が「義」とされるのは、「我」である私が、「義」である神、十字架の上で「義」とされた神、神の子を戴くこと以外にありません。パウロは、次の様に記しています。

 『しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。 (ガラテヤ216節』

 人が「義」とされるには、二つの方法があります。「律法(モーセの十の戒め)」を完全に守ることによって、神のみ前で、人は「義」とされます。しかし、誰一人、遵法者はいませんでした。それで、もう一つの方法を、神が定められました。十字架の上で、ご自分を捧げて、「神の義」を満足させて、身代わりに死んでくださって、「義」とされた神の御子キリストなるイエスさまを信じる、「信仰による義」を定めてくださいました。

 このことが私にも分かったのです。神の前にも、誘惑者の前にも、この社会の前でも、自分が、「義」とされたこと、同時に「聖」とされたこと、さらに「子」とされたことを信じて、今日まで生きて来れました。その確信は揺るがずに今も、その立場の上に立っています。「義」を愛し、行える様な生き方を願いつつあります。

.
..


2.憐れみを愛し 
to love mercy

 生まれながらの人は残忍です。私は、まさに残忍な人間でした。人の幸福や出世を妬んだり、不幸になってしまう様に願ったりして生きて来ました。何事も自己中心的でした。「憐れみ」Free Graphic Resource for Children’s Ministry Leadersに満ちたイエスさまを信じてから、「憐れみ」の思いが与えられて、他の人の幸せや健康や出世を喜べる様になったのです。社会的に弱い立場にある人を蔑まなくされました。心に中に、キリストが住んでくださった以外に、この変化を説明できません。

 人の不幸や瀕死な状態、滅びようとしている人を見て、腸が捩れる様な同情心や憐憫を、イエスさまは内に宿しておいでです。神以外に持つことのない思いです。あの強盗に襲われた旅人を、また放蕩息子を家に迎えた父親の様に、「かわいそうに」思う思いのことです。私には安っぽい同情心p、自分を誇る様な思いしかないのに、その「かわいそうに思う思い」を知ったのです。創造者にしか宿らない思いです。万分の一でも、そんな「憐れみ」の思いが与えられたいと願って、今も生き様としています。

 3.  謙って神と共に歩む to walk humbly with God

 およそ自分ほど、高慢な人間はいないと思います。人に褒められたくて、高く評価されたくて、社会的に高い立場を認めて生きていました。ところが、人の歴史に現れてくださったイエスさまが、「謙遜な僕」であることを知ることができたのです。

 『打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。(イザヤ書506節)』

 『・・・彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書5323節)』

 この様な33年半の生涯を生きられて、十字架に死なれたお方を、「キリスト(救い主/贖い主/弁護者/慰籍者)」と、25歳で信じられたのです。聖霊なる神が、その理解を私にくださったの時にです。それ以来、「謙遜さ」が何かを学びながら、変えられながら生きて来ました。今も、謙遜でありたいと願いつつ生きていこうと願っています。

 不義、憐れみの心のない、高慢な自分を知って、誰一人として裁くことのできない自分が、ここにいます。でも義を愛し、憐れみ深く、謙って、万物を創造され、統治される神のみ前に、人々の間で生きたいと、今朝も願っております。

(”Free Graphic Resource for Children’s Ministry Leaders“から)

.

..

 1941年に、作詞がサトウハチロー、作曲が仁木他喜雄で、「めんこい仔馬」が、「馬」という東宝映画の主題歌として発表されています。

1 ぬれた仔馬のたてがみを
  なでりゃ両手に朝のつゆ
  呼べば答えてめんこいぞ オーラ
  かけていこうかよ 丘の道
  ハイド ハイドウ 丘の道

2 わらの上から育ててよ
  今じゃ毛なみも光ってる
  おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
  元気に高くないてみろ
  ハイド ハイドウ ないてみろ

3 西のお空は夕焼けだ
  仔馬かえろう おうちには
  おまえの母さん まっている オーラ
  歌ってやろかよ 山の歌
  ハイド ハイドウ 山の歌

4 月が出た出た まんまるだ
  仔馬のおへやも明るいぞ
  よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
  あしたは朝からまたあそぼ
  ハイド ハイドウ またあそぼ

 父は自家用車は持ちませんでしたが、戦時下に、「馬」を持っていたそうです。父の事務所のあった街の連隊の連隊長が、『ぜひ譲って欲しい!』と願ったほどに、その馬は「駿馬」だったそうです。街中と軍需工場のあった村との間を通うために、その馬が飼われていました。

 ある時、馬の世話をしていた方の子どもさんが病気になって、滋養のある食べ物を必要としていたのだそうです。その人は、なんと父の馬を潰して、肉にしてしまいました。父は知らずに、その人の届けた「馬肉」を食べてしまったそうです。せめてもの罪滅ぼしにと、そうした彼を、父は、わが子を思う彼の「父の愛」に免じて、不問に付したと、私が生まれる前の話を母に聞いたことがあります。

 だからでしょうか、晩年の父が、ごろっと炬燵に横になりながら、この「めんこい仔馬」を歌っていたことがありました。戦後、詞が書き換えられていますが、父が歌っていた歌には、軍事色が漂っていました。きっと自分の愛馬を思い出し、戦時中に、流行っていたこの歌を口ずさんだのでしょう。

 その父も六十一で亡くなり、父の逝った年齢を十五も超えてしまっている今の私は、時々アルバムに父の五十代の写真を見ることがります。父より老けた自分の顔と見比べて、やはり、似ているので苦笑してしまいます。その父の数少ない愛唱歌の一つでした。

 在華中に、そんな父が青年の日にいた瀋陽(父は「奉天」と言っていました)を訪ねる計画を持ちながら、帰国してしまって、その願いを叶えられませんでした。今でも、父を思い出しながら、私も、そっと口ずさむことがあります。その父のいた街から、天津にやって来て、名門大学で学んでいた学生が、時々遊びに来ていました。住む家がなくて、二、三ヶ月私たちに家にいたこともありました。

 そう言えば、最初に中国に出掛けた時、内モンゴールのフフホトで、馬に乗ったことがありました。どうも乗る前に、私の顔を見た、その馬が、『フン!』と言った表情を見せたのです。案の定、乗せようとしないので、馬丁に乗せられたら、今度は動こうとしないのです。尻を思いっ切り鞭されたら、嫌々動き出したではありませんか。あれ以来馬に乗っていません。

.

踏切番

.

.

 戦争が終わって、父の仕事が一段落して、東京に出てきて住んだ家は、八王子にありました。そこに一年ほどいて、また引っ越しをしたのです。その家は、中央線の踏切から50mほど、旧甲州街道を上った辺りにありったのです。その踏切に詰めて、その開閉をする「踏切番」の方がおいででした。人力で上げ下げをする時代でしたから、興味津々の弟と私は、その手伝いをさせてもらったことがありました。その踏切番のおじさんは、弟を気に入って、家に呼ばれて弟はお邪魔したりしていました。

 この方が、「八王子千人同心」の家系で、千人頭を代々していた家だった様です。幕府直属の旗本の下で、幕臣・御家人として任務を果たしています。江戸に続く甲州街道の守備や整備、さらに日光東照宮に家康の亡骸が改葬されてからは、「日光勤番」を当たり、東照宮の火の番が、主な任務だった様です。

 原家は、甲州武田の武将だったそうで、そのためには、同心たちは剣術も修めていたのです。江戸期には、若菜豊重が、大平山(現在の栃木市)に籠って修行をし、「大平真鏡流」を開き、この流派の剣術を、一部の同心たちは修行をしていたそうです。八王子には、この流派の道場があったのです。

.
.

 八王子から川越を経て、日光例幣使が東照宮詣でに使った街道を行き来しています。忍者の様に早足で、八王子と日光とを行き来していた様で、それほど任務の重要性を理解して従事していたのです。「半士半農」で、武士の鏡の様に、農作業もしていた集団でした。竹製の踏切を上げ下げする動作に、その機敏性や安全さが窺えたほどでした。

 明治維新以降は、解散させられ、農業に従事したり、北海道開拓に赴いた人たちも少なからずいた様です。苫小牧などで、蝦夷地の開拓に従事した同心もいたと言われています。様々な分野で、日本の歴史の中に、その足跡を残していることになります。

 東武宇都宮線の踏切を、散歩の途中で、時々渡りますが、JRも私鉄も、同じ様な警報音を発しながら、自動で踏切版が上下されていて、昔は、そこにも踏切番がいたのでしょうか、今と同じく無人だったのでしょうか。子どもの頃の光景が、懐かしくも目に浮かんでまいります。

.

カタカナ再考

.

.

 ある記事を読んでいましたら、カタカナ語を使う理由が、語られていました。その要点は、〈深刻さの軽減〉だと言うのです。事態が厳粛で、深刻なため、その衝撃を緩めるための配慮なのでしょうか、それとも無策を覆い隠すための誤魔化しなのか、最近、文字でも音声でも、カタカナ語の使われ方が多過ぎます。

 自分だけなのかと思いましたら、同年輩の多くの方、さらには若い方たちも、同じ様な印象を持っておられるのです。すぐにピンとこない。辞書を引くにも spell がどうなのかも分かりません。引いてもいくつか意味があって、どれだかが分かりません。

 もうかなり以前になりますが、台湾の教会を訪問させていただいた時に、『お話の中で、カタカナ語をなるべく使わないでいただきたいのですが。』と、日本語教育を受けられた年配の牧師さんに言われたのです。お受けになった英語教育で学んだことと、カタカナ語とつながらないからです。

 日本語になってしまった外来語は、元の言葉から独歩きをしてしまって、発音も意味でさえも曖昧になっていますから、英語を学んだ方には、極めて難しいのだそうです。韓国語も、日本語と同じで、言葉の中に、〈朝鮮語訛り〉の英語が使われているのが聞こえてきます。それに韓国で使われる朝鮮語には、日本語が多く入り込んでいるのです。それは日本統治の影響かと思われますが。

.
.

 外来語をカタカナで表記しますが、「片仮名」であって、漢字を日本語で読むために作られた仮名でした。後に、私用に男性が用い、女性も使う様になったと言われています。一度買ったことがある「六法全書」は、漢字と片仮名で書かれていて、平仮名を使わないのは、法律条項に権威を持たせるためだったのでしょうか。

 この様に、漢字を崩して、カタカナやひらがなを作り出す日本人の創作術には驚かされます。英語だって、日本語化してしまうのは驚きで、アメリカ人が驚いていました。漢字も平仮名も片仮名も、日本語を表記するには欠かせません。英単語も漫画やイラストだって使ってしまう時代です。

 そう、「パンデミック “ pandemic “ 」は、夥しい人が感染して死んだ疫病のことで、コロナや黒死病などのことを言います。また「ジェノサイド ” genocide “ 」は、「大量虐殺」と辞書にあります。どちらも、人を恐怖させる出来事ですが、カタカナで読むと、無学の私には、お菓子の名前の様なのです。実におかしなことです。どうしても深刻さや厳粛さが伝わってこないではありませんか。

.

大平山に似合う紫陽花

.

 

 梅雨の合間に、念願の「大平山の紫陽花」を観に、連れて行ってもらいました。29歳の太宰治が、甲斐国の御坂峠の茶屋に逗留した時に、富士を背景に咲く「月見草(これは別の花ではないかとの異説があります)」を見て、霊峰富士にピッタリと似合う花だと詠んだのですが、下野栃木の国の大平山には、この「紫陽花」が殊の外似合っていました。

 人気の景勝地ですから、駐車場には県外車も見受けられ、小さな抱かれた赤ちゃんから年配者まで、人出が多くありました。昨日一昨日と雷雨に見舞われた後、今日の雨上がりの紫陽花は、格別な趣がありました。梅雨時、紫陽花となると、やはり「蕎麦」が相応しいと、昼食は「ざる蕎麦」にし、蕎麦湯をいただきました。今時は、蕎麦が似合う様です。

.

アメリカ北西部に咲く

.
.
 この写真は、外孫が、『ジイジとバアバに送りたい!』と言って送信してくれたものです。花の名前が分かりません。

 花って、どこにでも咲くもの、どんな条件下でも咲くもの、特定の条件下でしか咲かないもの、一夜だけしか咲かないもの、百年に一度だけしか咲かないもの、高地でしか咲かないもの、乾燥地でしか咲かないものなどなどがある様です。

 もう一花咲かせたい願いがありながら、燻(くすぶ)っていますが、これも独特な花の咲く様なのかも知れません。花ある人生を願いつつ、花のあるベランダの家で過ごしています。今日は、素敵な母業をされているお母さんに、梅雨の花、「紫陽花」を観に連れて行ってもらうことになっています。

.

祖国の復興を願う

.
.

 「古文」の時間に、鴨長明の「方丈記」を学んだのを、眼下に流れる巴波川を眺めながら思い出しました。

 『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。』

訳文 『流れて行く川は絶え間なく流れている。その流れる水も、同じ水ではない。川の澱みに浮かんでいる水泡は、消えては、またできてくる。そこに長く止まることなんてない。この世の中に生きている人も住居も、ちょうどこの川の流れや水の泡のようなものだ。』

 「日本文化」の講座をお願いされて、向こうに学校で教えていたことがあります。日本人の心の中に刻み込まれた「儚(はかな)さ」や「無常観」についても触れてみたのです。私の中学の担任は、『かつて(鎌倉期)の日本人(武家も庶民も)は大らかで快活な国民性を持っていたのだ!』と教えてくれました。つまり、クヨクヨしたり、悲観的ではなかったことを語ったのです。仏教の「諦観」や「儚さ」や「無常」とは違ったもので、心も社会も形作られていたと言ったのです。

   私の育った父の家には、家を飛び出した父でしたから、仏壇もなければ、神棚もありませんでした。札が貼られたりもしてありませんでした。正月や彼岸やお盆などの日本文化や宗教の行事とは、まったく関わりを持たない家でした。ただ母が聖書と讃美歌を持っていて、それも礼拝対象物ではなく、壁に掛けたり身につける十字架もありませんでした。

 お世辞にも、私たちに育った父の家は、《大らか》だったとは言えませんが、大声や怒鳴り声や叫び声が溢れていたので、そうする男5人は感情表現が十二分にできていて、引き籠ったり、イジイジすることなく、世間体など気にせず過ごせたのです。だからでしょうか、悪魔も悲しみも儚さも退散して、世間体なども気にしないで、『どうにかなるさ!』な雰囲気で満ちていたのです。

 鴨長明は、不遇の人で、やがて出家し、高野川か御手洗川の流れを見て、嘆息をついたのか知れませんが、旧約聖書の預言書の中に出てくるエゼキエルは、捕囚の民でありながら、ケバル川のほとりで、《神々しい幻》を見ました(エゼキエル11節)。

.
.

 『第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た・・・私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった。(エゼキエル書114節)』

 どんな幻だったかと言いますと、青銅の輝きの中で、四匹の獣を見たのです。異象でしょうか、幻でしょうか、将来起こりうる啓示を、世界を創造し、統治する神から受けたのです。儚さや悲観など入り込む余地は、彼の思いにはありませんでした。最愛の妻を奪われ、不遇な中を過ごしますが、挫けませんでした。異国にありながら、涙ながらに祖国や民族の回復や復興を信じて、預言者としての生を全うしたのです。

 私も、儚んだり悲観的になって生きていません。同じ預言者であるエレミヤが言う様に、《将来と希望を与える計画(エレミヤ2911節)》を信じて、生きてきました。これからの残された月日も生きていくつもりでおります。巴波川の流れの泡にではなく、立ち登る正気に満ちた潤いを身に、心に感じて、生まれ育った国の霊的な復興を願って、生きていく覚悟です。

 

(巴波川とバビロンの庭園の想像図です)

 .

お手上げ

.
.

 最近、市内の無信号の横断歩道に立つと、車が止まる様になってきています。この県は、県警によりますと、横断歩道で人を見かけたら、停車しないので有名を馳せているそうです。それで他県から乗り入れる運転者に顰蹙(ひんしゅく)を買っていると聞いています。欧米では、そうすることは、運転者の義務ですから、日本では守られていないのを知って、彼らは驚いています。

 華南の街では、歩道を車が走ったりしていましたから、道路を渡る時は、横断歩道で手を上げて、『俺、これから道路を渡るよ!』と合図していました。そんなこと誰もしないので、『アッ、日本人!』だと分かるのだそうです。手を挙げることですが、〈お手上げ〉と言う言葉があります。中二の私の担任は、思春期の危うい不安定の真っ最中の私を見て、〈お手上げ〉だったのです。

 細かなことは省略しますが、中学入学と同時に、ご自分と同じ大学進学を期待してくれて、激励してくれたのに、期待に背いて、あちらこちらでワルをしている私に、担任は、渋い顔を向けていました。ところが、中三の最後の通知表の「行動の評価」欄に、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれたのです。

 高等部に上がることを祝福してくれたのです。その高校の全国レベルの運動部に入って、受験勉強をほとんどしませんでした。母が、輪禍にあって一年近く入院してしまい、その部活も休部を余儀なくされてしまったのです。でも無事に卒業でき、大学にも入り、卒業と同時に、学校長が理事長をしたことのある研究機関に就職したのです。

 さらに教師になったのを驚き、また伝道者に、私がなったのを知った担任は、『そうですか、お母さんと同じ道を歩んでいるのですね!』と、上の息子をつれて挨拶に行った時に、言ってくれました。息子を見た担任、『君は大丈夫そうだね!』と言っていました。私が〈お手上げ〉をしていないからでした。

 「手を挙げて」ですが、横断歩道で、挨拶をして、ちょっと頭は下げて、感謝も添えて渡ると、こちらも、そして相手も気分が良さそうです。これまで、台湾、韓国、シンガポール、マレーシアのアジア圏の車のマナーを眺めましたが、アメリカやカナダやアルゼンチンなどと、” motorization “ を比較してみると、早く車社会になった国々とは、運転の manner に大きな違いがあります。ただし、シンガポールは例外でした。

 この県も、運転の manner が改善されつつありそうです。〈お手上げ〉の私が、横断歩道で手を挙げているのを知ったら、私に〈お手上げ〉だった担任は何を思うのでしょうか。もう他界されておいでですが、感謝しながが思い出しております。

.