ユダの獅子であること

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 ものすごい迫力、眼力、揺るがない落ち着きを見せていたのが、動物園のライオンでした。幼いわたしの目にも、やはりその名にふさわしい「百獣の王」だったのです。アフリカだか中近東の砂漠だかを舞台にした漫画があって、その中に、このライオンが出てきていました。

 このライオンとは違って、人間と一番近い関係にあるのが、犬や猫です。まるで家族の一員でもあるかのように振る舞っています。ご主人に餌をもらい、犬などは散歩までしてもらう立場を、しっかりと知っていて、今では、服まで着せられています。だから、当然のように飼い主の家は、自分のものにように、外出先から戻ってきます。

 家内が中学生の頃に飼っていた「ジョン」は、交通事故死していますし、弟が可愛がっていた「力(リキ)」は、やむを得ず殺処分してしまった悲しい歴史があります。でも、ほとんどは愛玩動物なのですが、老いて死期を迎えています。

 そのライオンは、どうなのでしょうか。草原では無敵、我がもの顔をして、草原最強の獣の座にあります。でも動物園以外では、厳しい時をやがて迎えるのだそうです。怪我や病気などで少しでも弱くなってしまうと、草原の力関係は逆転してしまうのです。虎視眈眈(こしたんたん)と餌を狙うハイエナなどの餌になってしまうのです。

 人のように白髪の老ライオンは見られない世界ですから、老齢保険も老人介護施設や特老もなく、次の世代の草原の支配体制に移り変わっていくわけです。ところが万物の霊長としての人には、神の創造の中で、老齢期の祝福を定めてくださっています。

 『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。(レビ1932)』

 聖書、預言書の中に、「王」としてのライオンが出てきます。やがて、「獅子のような王」が来られるとの予言です。それこそが、神の御子イエスさまで、この方は、「ユダの獅子」という呼称をもって呼ばれています。

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 『すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」 (黙示録55節)』

 最初に来られた時は、「僕」の姿でおいでになられましたが、再臨の主は、「王」として来られ、名実ともに全天全地を、やがて支配なさるという預言なのです。そのおいでの時が迫っているようです。その兆(しるし)が、天変地異の災害が頻発し、恐ろしい疫病が蔓延し、国家間の戦争、民族対立、人の愛が冷え、エルサレムが軍隊に囲まれるなどが、顕著な様で起こるただ中に来られると預言されています。

 イスラエル民族の動きが、その時の流れの「日時計」だと、わたしは宣教師から学びました。エルサレムが陥落し、世界に離散した彼らが、ほぼ2000年ぶりに、アブラハムに与えると約束された、《シオンの地》に、「イスラエル国家」が建国されたことは、刮目(かつもく)すべき出来事でした。

 『それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ。――その日にはもはや、「イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。」とは言わないで、ただ「イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておらる。」と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」(エレミヤ1614-15節)』

 『恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東からあなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。わたしは、北に向かって「引き渡せ」と言い、南に向かって「引き止めるな。」と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。(イザヤ435-6節)』

 わたしの母は、このイスラエルの都・エルサレムの空港に、飛行機から降り立った時、地に臥して、接吻をしたのです。幼い日に出会った主イエス・キリストが、信じた自分の救いのために、十字架に死なれて、贖いのみ業を成就し、葬られた後、3日目に蘇られたことへの感謝だったのでしょう。その様子を見て知らせてくれたのが、同行されたわたしの知り合いの牧師さんでした。

 これから、北からの軍隊が、この国に攻め上りますが、瞬く間に、神のみ手によって滅ぼされます。人がすることが、こんなにも酷く非情なのです。しかし、これからの日、神さまのなさる良き御業を、わたしたちは驚きの目で見ていることにいたしましょう。この再臨のイエスさまは、イスラエルの民にとっても、王家の血筋である「ユダの獅子」として、迎えられるのです。

 そう言えば、わたしたちは、たとえ死んでも、やがて「キリストの日」に、「不死」を着て、永遠のいのちに蘇るのです。その様子は、私たちの人生の一番祝福されて、輝いていた時の容姿なのだそうです。祝福の時の到来であります。

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さあ賛美しよう

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 私には、特愛の賛美があります。讃美歌や聖歌も好きですが、母教会を訪ねてくれたアメリカ人の伝道者が紹介してくれて、翻訳した「新しい歌」ででした。

 『新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。(詩篇333節)』

 詩篇や新約聖書のみことばにmelody を付けた chorus でした。単調な melody を繰り返し歌って、神を賛美するのです。

なが瞳のように守り 死ぬことのないように

御翼の陰に われをかくまいたまえ

 昨晩、想いに中に、ずっと繰り返されていた、賛美chorus  でした。これは聖書のみことばに、melody をつけたものです。

 『私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。(詩篇178節)』

 旧約時代のイスラエルの王、ダビデの祈りのことばに、melody をつけたq賛美です。どんな堡塁も、砦も、人の作ったものの中にではなく、万物を創造し、保って、支配しておられる神への絶対的な信頼を告白する、ダビデの賛美に、現代的なblues jazz melody をつけて、おもにアメリカの教会で歌い始められたのものでした。

 1960年代の終わりの頃に、一人の説教者が、アフリカに遣わされて、宣教をしている教え子を訪問する旅の途中に、私たちの母教会に来られて、この賛美の歌を、何曲も紹介してくださったのです。その一つに、

“ making melody in my heart ,  making melody in my heart ,  making melody in my heart , unto the King of King ・・・“

 『心の中でメロディーを〈3回〉王の王のささげよう!』と歌ったのです。原曲なのかどうかは分かりませんが、日本の音楽風に、少しアレンジしたのかも知れません。その単純さが素敵でした。もちろん、伝統ある讃美歌のメロディーも歌詞、邦訳されたものも、当時の信仰の真実さがあふれていて素晴らしいではありませんか。

 この chorus は、演歌や歌謡曲や浪花節の好きだった古典的なわたしの心にあふれ、歌い始めたのです。わたしが好きな讃美歌は、アウグストゥス・M・トップレディが1776年に作詞した、「The rock of ages (千歳の岩よ)」です。

一、千歳(ちとせ)の岩よ わが身を囲め
さかれし脇(わき)の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
二、かよわき我は 律法(おきて)にたえず
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
三、十字架の外(ほか)に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみ(あわれみ)たまえ
み救いなくば 生くる術(すべ)なし
四、世にある中(うち)も 世を去るときも
知らぬ陰府(よふ)にも 審き(さばき)の日にも
千歳の岩よ わが身を囲め

 神さまへの絶対的な信頼、揺るぎなき信仰をを歌い上げていて、保守的な信仰を持ち続ける教会で、最も歌われ続けている讃美歌だと言われているのです。好ましからざる世上、賛美すると、晴れ晴れとしてきて、希望に溢れてまいります。

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ベランダ、シンガポール、砂漠に咲く

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 爛漫の五鉢の紅と白の胡蝶蘭が咲き続けて、今朝で三輪を残すのみになっています。よく咲いて、コロナの中を楽しませてくれました。太陽の光と週一の水やりで、咲き続けてくれたのです。感情はないのですが、来客者の賞賛の的で、きっと嬉しかったことでしょう。まったく型を変えず、遠慮も驕りもなく、楚々と咲いてくれたのです。

 シンガポールで働いていた長女が招いてくれて、何度か華南の空港から飛び立って、その街を訪ねたことがありました。市内に、「ボタニックガーデン( botanc garden /シンガポール植物園)」があって、そこに綺麗な「蘭」が、数多くの種類の花で咲いている、「National Orchid  Garden 」があります。

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 蘭には、これほどに種類があるのかと思うほどで、希少なものまでがある、世界最大の蘭園なのです。

 『荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。  盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。 (イザヤ3512節)』
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 窓辺に咲く胡蝶蘭ですが、同じ花仲間のサフランは、荒れ野、砂漠、荒地に咲いて、荒漠の世界を彩るのです。聖書に登場する花の一つです。森鴎外が、こんなことを「サフラン」と言う文章を書いています。

 『去年の十二月であった。白山下の花屋の店に、二銭の正札附でサフランの花が二、三十、干からびた球根から咲き出たのが列べてあった。私は散歩の足を駐めて、球根を二つ買って持って帰った。サフランを我物としたのはこの時である。私は店の爺さんに問うて見た。

「爺いさん。これは土に活けて置いたら、又花が咲くだろうか。」

「ええ。好く殖(ふ)える奴で、来年は十位になりまさあ。」

「そうかい。」

 私は買って帰って、土鉢(どばち)に少しばかり庭の土を入れて、それを埋めて書斎に置いた。

 花は二三日で萎れた。鉢の上には袂屑(たもとくず)のような室内の塵(ちり)が一面に被かぶさった。私は久しく目にも留めずにいた。

 すると今年の一月になってから、緑の糸のような葉が叢(むら)がって出た。水も遣らずに置いたのに、活気に満ちた、青々とした葉が叢がって出た。物の生ずる力は驚くべきものである。あらゆる抗抵に打ち勝って生じ、伸びる。定めて花屋の爺いさんの云ったように、段々球根も殖えることだろう。

 硝子戸の外には、霜雪を凌(しの)いで福寿草の黄いろい花が咲いた。ヒアシントや貝母(ばいもも)花壇の土を裂いて葉を出しはじめた。書斎の内にはサフランの鉢が相変らず青々としている。』

 来年あたり、このサフランの球根を、買って植えてみたくなりました。上流の水源から、こんこんと湧き出る湧水を源流としている「巴波川」の流れの端のベランダで、砂漠の花を咲かせてみたいものです。咲き終わった一つの鉢に、胡蝶蘭の花の茎が一本伸びて、芽をつけています。秋口には咲き始めそうで、4期目の花になります。

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盛夏、8月朔日、ウクライナ戦争も新型コロナも、そして熱中症の危険事態が続いていますが、暦の上では、「秋」、ラジオ体操の会場への道端に「キキョウ(桔梗)」が咲いていました。息子が買ってくれた空気清浄機が、『ガンバルゾ!』と、今声を出していました。全ての事態をご存知の神さまに、「おまかせ」で過ごしていきます。今日は、家内の誕生日、それを祝うように朝顔が、今季初めて咲いてくれました。

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天も地も朝顔も

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 蘇軾(そしょく/蘇東坡/1037〜1101年)は、次の様な壮大な詩を詠んでいます。

船上看山如走,倏忽过去数百群。
前山槎牙忽变态,后岭杂沓如惊奔。
仰看微径斜缭绕,上有行人高缥缈。
舟中举手欲与言,孤帆南去如。

【邦訳】 船の上から両岸の山を見れば、数百という山がすさまじい勢いで去っていく、眼前には入り組んだ山が折り重なり、かと思うと背後に消え去っていく

 天上を見上げれば細い道筋が斜めに通じ、そこを歩いている人がはるか彼方に見える、船から手をふって話し掛けようとしても、船は飛鳥の如くに飛び去ってしまうのだ

 南宋時代の詩人の蘇軾は、父蘇洵、弟蘇轍の他に、兄弟たちの妻たちと旅をしていたのです。彼らを乗せた船は、故郷の眉州を出発した後、岷江を経て長江の本流に入っています。東へと下っているのです。この詩は、重慶を過ぎて山峡へと向かう途中に詠まれたと言われています。この辺は、長江の中でも急流で、その流れの様子を生き生きと描き出しているのです。

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 南宋の時代ですから、蒸気機関で引く列車、エンジンを搭載した船、ガソリンエンジンの車、飛行機などありませんでしたから、長江の本流を下る船ほどに早い乗り物はなかったのでしょう。蘇軾は、その目を見張る様な速度の舟に、まさに飛鳥の様に川面を下る舟に、驚きの声をあげて作詩したわけです。

 長閑(のどか)といえば長閑、危険といえば危険、宋代の中国大陸の大河川は、今も同じように、と言いたいところですが、発電や農業用水にダムもない、天然自然の姿に、蘇軾一行は心をふるわせていたのでしょう。

 家内と私は、友人が案内してくれて、武夷山wuyishan の麓を流れる闽江 minjiang の上流の流れを、竹製の筏で降ったことがありました。次女家族が来た時も、同船しながら、悠長に、竹で棹さす筏に乗ったのですが、蘇軾のような急流ではなかったので、静かに、竿刺す水音を聞き、景色を楽しむことができました。

 近所の歯医者さんと、治療後に話をしたのですが、中国で日本語を教えていたと言いましたら、『すごいですね!』と感心し、中国に魅せられて、よく旅行をするのだと行っておられました。広西チワン族自治区の桂林 guilin や四川省の九寨溝 jiuzhaigouなどにも行っているそうです。この大陸には、天然の美、いえ、神の創造の業が、創造時と同じように残されているから、人を惹きつけるのでしょう。


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 『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇1916節)』

 天も地も、神の創造の業です。夏のベランダで、朝顔の蕾が大きく膨らみつつあります。去年咲き終わって、落ちた種が、土の中から芽を出して、今頃になって咲く準備をしているのです。あんな小さな、目に止まらなかった種が、命を繋いでいるのです。まさに、ここにも創造の美が、神からの夏の《贈り物》のようであります。

(南宋時代の巷間、今の長江、朝顔の花です)

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最良の薬です

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 わたしたちには watch man (見張り人)"がいるのです。iPad を持ち始めて、もうずいぶん日が経つのですが、使い方がまだ分からなくて、困ると、次男に聞くのです。そうすると、新宿から特急に乗ってやって来てくれたり、画面上で、直してくれたり、調整してくれるのです

 今回は、『おとうさん、iPhone の Facetime 有効になったままだよー。』と、message で言ってきてくれました。オヤジのiPad や iPhone が、どう使われているかを監視していてくれているのです。分かっていて使ってるのでなく、〈見切り発車〉で、文明の利器を使い続けているだけの私への助けなのです。

 それでも、長続きのしない自分が、次男の勧め blog を始めて、15年ほどになっています。今では日曜日の投稿を休んで、ほぼ週六日で、思ってること、思い出したこと、教えられたことなど、random に書いては、掲載しています。娘たちは酷評(!?)を、友人たちは好評を、その他にも読んでくださっている方が comment をしてくれています。

 また、家内が治療のために帰国し、入院してから、ずっと飲んでる supplement があります。コロナが始まったばかりの頃、次男が、注文して、毎月送られてくるのです。家内は、一生懸命に服用し続けています。そうしましたら、新型コロナ、covid 19 が流行したら、すぐに、『感染したら即飲んでね!』と言う輸入薬を、彼が届けてくれたのです。

 また時々、見舞ってくれる中国でお世話くださったご夫妻が、「有銭人youqianren(お金持ち)」しか買えないような高価な漢方薬を、帰国のたびに買ってきて、届けてくれるのです。体調不良の時には、まず祈るのですが、この漢方薬を飲むと、翌朝は、ケロリとするのです。祈りと薬とがちょっと効き過ぎで、ビックリしてしまうのです。

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 『これがいい!』、『あれがいい!』と言うものが届けられて、健康でいられるのは、実に感謝なことです。向島の老舗の「蓬餅(よもぎもち)」も、次男が来るたびに、母親の身体に良いからと言って、あれもこれも、私の好きな「虎印羊羹」も、わざわざ買ってきてくれるのです。

 長男は、通院のたびに、時間を調整して、嫁殿の勧めで、車で来てくれていますが、彼らの来訪こそが、《最高の良薬》になっています。自分が産み落とした子に関心を向けられて、満ち足りているのです。訪ねて来られない、娘二人とは、face time で、長く話し込んでいるのです。母親って、すごい存在ですね。

 ずいぶん便利な時代になって、大変慰められ、励まされている彼女は、暑さ、ジメジメの中も、買い物に出掛けて、昨夕は、急な雨に降られて、持って行ったポンチョを着て帰ってきました。それを持っていくように勧めた私のおかげでしょうか、濡れずに帰ってこれました。まだまだ存在の意味が、少しはありそうな私です。

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この違い

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 毎年、四月十五日に、日光東照宮で行われる例大祭に、間に合うように、京の都を発った朝廷の一行を、「日光例幣使」と言ったのです。「幣帛(へいはく/供物のことでしょうか)」を、亡き家康にささげるためでした。中山道から分かれた道を、日光に向かう公家の一行が、ここ栃木宿をも通ったのです。その様子を描いたのが、上の日光例幣使街道の宿場と絵です。

 大変な行程を、毎年、大政奉還に至るまで励行したようです。徳川幕府、その始め手の家康への恭順を、そう言った形で示した、いえ、幕府に求められたわけです。徳川殿の権勢の表れでした。ところが、その一行の素業が、極めて悪かったのだと記録に残されています。下役も上級の使いも、道道、鬱憤を晴らしたのでしょう、すこぶる評判が悪かったようです。

 「ゆすりたかり」と言う言葉がありますが、とくに「ゆすり」と言うのは、「揺り」のことなのです。歩かずに、楽な旅をするために、道々、籠を求めたのだそうです。乗っていた勅使が、自分で籠を揺すったのに、駕籠かきがのせいにして、難癖をつけ、金銭を求めたのだのです。それを、「ゆすり」と言って、今日でも悪徳役人が、庶民に金品を要求する、あれです。

 この例大祭が終わると、日光街道を江戸に出て、東海道を京に上ったのです。任務からの解放感で、大迷惑を吐き散らしての旅は、なんだか目に見えるようです。自発でない、強いられてする行動には、そんな副産物があったのでしょう。

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 イスラエルの民の男子は、年に三度、「過越の祭り」、「七週の祭り(五旬節)」、「仮庵の祭り」に、エルサレムに「都上り」をしました。彼らは、歌を歌い、主を喜び、ほめ讃えながらエルサレムに上ったのです。例えば、

 『さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。 聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。 天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。(詩篇13413節)」

 横暴な振る舞いも、ゆすりもしませんでした。ただ神礼拝のためにです。キリストの教会が、『さあ、主をほめよ!』と喜びの讃美を歌うのと同じです。この両者の旅の様子の違いは、何だったのでしょうか。

(“キリスト教クリップアート”による賛美です)
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『だいじょうぶだよ、ゾウさん』

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おさないネズミと年老いたゾウが

おおきな木のしたで、なかよくくらしていました。

ネズミは、根っこのすきまで

ゾウは、木によりかかってねむりました。

ねずみは、いろいろできる子でした。

ゾウがよくメガネをなくすので、

メガネにひもをつけて

首にかけられるようにしてあげました。

ゾウは目が、よわくなってきたので、

メガネをなくさなくなって、たすかりました。

ゾウは、まだおさないネズミをまもってあげました。

ちいさな足ではいけないところにも、つれていってあげました。

山へ・・・ それから・・・おおきなみずうみへも・・・

ゾウは、ねずみといっしょだと、こころがあかるくはずむのです。

長い人生でいろんな人とのであいやできごとがありました。

目をつむると、なつかしい友だちーー

    バムバムやゴーンホーンのことが、うかんできます。

みんなとっくになくなって、とおいゾウの国にいってしまったのでした。

いよいよ、こんどは自分のばんかなあ?

ある日の夕方、水あびからかえるとき、

ゾウは、いつもとちがう道にはいりました。

「ゾウさん、どこへいくの?」

ネズミがききました。

「まあ、みていてごらん」

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木々がおいしげった森にはいると、ふるい道がありました。

その道は、ながいあいだにたくさんのゾウによって

ふみかためられていました。

「まえに話してあげたゾウの国のことをおぼえているかい?

ゾウはみんな、年をとったり、病気がおもくなったりすると、

その国にいかなければならないんだ」

「おぼえているよ」ねずみはいいました。

「ほら、あそこだ」ゾウはいいました。

森の道はそこでなくなっていて、

すぐ目のまえは、ふかい谷になっていました。

谷のむこうには、みわたすかぎり

森がひろがっていました。

「あの森が、なくなったぼくのおかあさんとおとうさんがいるところなんだ」

ゾウは話しつづけました。

「にいさんたちやねえさんたちや友だちもね。もうすぐぼくもいくんだよ。

そんなかなしそうなかおをしないで。

むこうでは、みんなしあわせなんだから」

ゾウがいなくなるなんて、ネズミはかんがえたくもありませんでした。

そのとき、ゾウはおどろきの声をあげました。

つりばしをみつめるゾウの目は、不安でいっぱいでした。

「どうしたの、ゾウさん?」

ネズミはおどろいてききました。

でも、からだがおもいし、ぶきようなので、とてもなおせません。

しかし、ネズミはどうすればなおせるか、頭をはたらかせました。

「ぼくが、なおすよ」

ネズミはいいました。

「でも、つりばしをわたっても、

もどってくるってやくそくしてね」

ゾウは、首をよこにふりました。

「それはできないんだ。ゾウは、いちどつりばしをわたったら、

けっしてもどらないんだ」

「それなら、いっちゃいやだ」

ネズミはいいました。

ゾウは、うなずきました。

そして、だまってむきをかええうと

さっきあるいてきた森の道をひきかえしました。

まえとおなじようなくらしがつづきました。

ふたりともなにもなかったかのようにすごしました。

ほんとうは、ねずみはまいにち

あのつりばしのことをおもっては、

こわくなってふるえるのでした。

きせつがなんどもめぐってきては、すぎていきました。

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ネズミも成長し、もうおさなくはありませんでした。

さんぽの案内をするのも、夕食のくだもにをとってくるのも。

ネズミの役でした。

ゾウは、もうメガネをかけても、ほとんどみえなくなっていました。

ものごとをわすれるようになりはじめました。

・・・耳もとおくなってきました。

ネズミは、おおきな声で話さなければなりませんでした。

そうなっても、ふたりはいつもわらったり、

たのしいときをすごしたりしていました。

ぞうは、おおわらいをしては、せきこんでしまうのでした。

ある日、わらいもしないのに、

せきがではじめました。

ネズミは、からだがひえないように、

もうふをつくってあげました。

それでもゾウは、つらそうに木によりかかったまま

せきがとまりませんでした。

そのうちにゾウは、ネズミがはこんできたくだものを

食べようともしなくなりました。

だいすきなバナナでさえも・・・。

ぞうのいのちがあぶなくなっていることに

ネズミが気づいたのは、そのときでした。

年をとって病気がおもくなり、

木のしたでネズミとくらすのが、もう、むりになったのです。

あの山のなかの森へいかなければなりません。

ネズミは、いまやこころも成長し、

まえのようにこわがらなくなっていました。

もちろん、なかよしだった友だちがいってしまうのはかなしいことでした。

でも、ゾウがむこうの国にいけば、しあわせになるのだと、

おもえるようになっていました。

そこで、つりばしのところにいって、なおしはじめました。

いそいで、しかも注意ぶかく。

つりばしは、がんじょうになりました。

もう、ゾウがわたってもだいじょうぶです。

ゾウは、木によりかかって

ネズミのかえりをまっていました。

ネズミはいつものように、ゾウのまえあしをよじのぼり、

おおきな耳にそっとつたえました。

それをきくと、ゾウは、おどろくこともなく目をかがやかせて

ウインクしたのです。

「きみが、きっと手だすけをくれるとおもっていたよ。」

ゾウは、こころをきめると、

せまいつりばしをわたりはじめました。

ネズミはおおきな声でいいました。

「こわがらないで。もうがんじょうになっているから!」

ゾウは、ふりむいてこたえました。

「こわくなんかないよ。だいじょうぶ、安心してわたれるさ!」

「そう、きっとすべてうまくいくよ・・・」

ネズミはそっとつぶやいて、やさしくえみをうかべました。

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 この絵本は、ローレンス・フルギニオン(1963年ベルギー生まれ)の作、ヴァレリー・ダール(1969年ブリュッセル生まれ)の絵、柳田邦男(1936年栃木市生まれ)の翻訳で、2005年11月に、文溪堂で出版されたものです。「老いること」、「死ぬこと」を取り上げ、老いていく人、死んでいく人に、どのように接していくかを問いかけているのでしょうか。

 アフリカの大きな滝の滝壺の奥に洞窟があって、そこが「象の墓場」だと言うことを聞いたことがありました。死の準備をし、死骸を見せない美学があるのを知って驚きました。猫も、どこかに潜って死を迎えると聞いていましたら、二十歳の時に、父から請け負って、高速道路の用地かあった父母やきょうだいたちと住んだ家を壊す仕事をしたのです。コンクリートの三和土(たたき)をはがしたら、猫の死骸を見つけたのです。その亡骸は、綺麗だった記憶があります。

やがて、間もなくと言った方がいいでしょうか、死を迎えるために、身辺整理をしないといけないなあと、最近思っています。けっこう簡素を旨に生きてきたつもりですが、要らない物、天国に持っていけない物の整理を、涼しくなっらしたいと思っている今です。

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平安を祈る

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 「北行」の「北」は、「北げる」と書いて、「にげる(逃げる)」と読むそうです。「北げた」わけではないのですが、怪我をした私は、札幌の整形外科病院に入院したのです。30日ほどの入院の間、外出許可で市内を少し訪ねました。そして退院してから半年の検診で行った時は、家内が一緒で、北大の campus 行ったのです。そこで、『孫たちには、ここで学んでほしいわ!』と、言ったほどの感動をあらわしていました。

 きっと北大のカフェで飲んだコーヒーが美味しかったからでしょうか。札幌駅のJRビルの「釧路はな丸」のお寿司と海鮮味噌汁のお昼が美味しかったのもそうでしょうか、彼女の初めての北海道でのことばでした。函館から帰るために、バスで移動しました。あの戊辰戦争の終焉の地、函館の街中も、ちょっと寂しいたたずまいを感じていました。

 そういえば住んでいる栃木市も、同じで、駅周辺は駐車場や空き地が目立って、『昔は大賑わいでした!』という地元の方の言うことばが信じられないほどです。日本中が同じ傾向なのでしょう。先日の午後、隣り街にある教会の牧師夫妻を、知り合いのご婦人と一緒に訪ねました。洪水で床上浸水にあった時に、お見舞いただいて、そのままだったので、感謝にと出掛けたわけです。その街の、新幹線の駅周辺は街に勢いが感じられました。


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 徳川家康は、慶長5年(1600年)724日、ちょうど今頃の季節でした。上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かっていました。その途上、この小山(おやま)に、本陣を置きました。思川という河川の脇だったのです。その時、秀吉の腹心の部下だった石田三成が挙兵したと言う報せを聞きます。

 その翌日、家康は小山本陣に、部下を招集して、これからの戦をどうするかを、彼らと諮ったのです。上杉征伐を続けていくかこのまま上杉を討つべきか、西の石田を討つべきかを相談したのです。この軍議を、「小山評定(ひょうじょう)と歴史は伝えています。

 その時の評定に、呼び集められたのは、元々は、豊臣の家臣でした。国元に家族老頭を残して、東国の戦が行われていたわけです。トラックも汽車もない時代、軍を率いて下野国に展開する戦に参集したというのは、昇り竜のような勢いの家康への忠誠の表れでした。どう戦いをしていくかが、家康にとっては興亡の境目だったのです。


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 この軍議がなされていた時、尾張国清洲(愛知県)城主の福島正則が、家康のために従う忠誠心を表明したのです。さらに、遠江国掛川(静岡県)城主の山内一豊が、『私は、自分の城を明け渡してまでもあなたの味方をします!』と、彼もまた忠誠を誓うのです。

 これによって家康支持が固まって、石田三成討伐のため西上することが決まります。あの「関ヶ原の戦い」で、家康が率いる東軍が勝利するに至った、天下分け目の軍議が、この小山で行われたのですから、日本史に関心のある人には、関心の的であります。

    私たちは、21世紀の神の兵士ですが、軍議をする代わりに、同じ小山で、「祈り」をしたのです。あの評定が行われてから400年も経っていますが、万物の創造者と統治者の「父」に向かって、救い主イエスの名によって、懇願でも要求でもない、感謝の祈りをし、住む街と訪ねた街の平安を祈り合ったのです。

 札幌も函館も、長く家族で過ごした街も、13年を過ごした中国の東北と華南の街にも、祈りの手を挙げる方々がおいでです。「祈り」は、神の名があがめられ、神の国が到来し、神の御心が行われるようにと、神をほめた讃えることなのです。エレミヤは、『わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(平安)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄(平安)は、あなたがたの繁栄(平安)になるのだから。」(エレミヤ297節)』との神のことばを書き記しています。

 わたしたちのほめ讃える神に祈り、賛美し、信仰を告白することは、任意ではなく、「命令」です。ウクライナの地には遣わされていませんが、ロシア軍の攻撃による惨状を聞くにつけ、「平安」を祈り続けたいものです。

(北大キャンパス、函館五稜郭、小山評定跡です)

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木槿

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 散歩道の巴波川沿いの人工池の端に咲いている、木槿です。朝に咲いて夕方には萎れてしまいますが、次から次へと木に花をつけていく「逞(たくま)しさ」を持った花なのです。樹皮は漢方薬に用いられて、中国でも朝鮮半島でも重用されてきた木です。

 道のべの 木槿は馬に 食はれけり   

 この俳句は、松尾芭蕉が「野ざらし紀行」で詠んだものです。馬は、花を眺めるのではなく、胃の具合が悪く、その木皮をついばんだのでしょう。この「木槿(むくげ)」は、艶やかではないのですが、おしゃれも忘れなく、ほんのりと紅を加えた白い花が、わたしの気に入って、好きな花の筆頭になっています。

 生まれ故郷の盆地に入る、インターチェンジの側道に植えられていたのが、この花でした。今の季節に、出掛けて帰ってくる時に咲いていました。『お帰りなさい!』と言っているように、運転しているわたしを、喜び迎えてくれたのです。

 中央道が開通する前は、山道を走って国道を抜けると、山々に囲まれた盆地も、『おひさしぶり!』と声が聞こえるようでした。27の歳に、家内と生まれて2ヶ月の長男を伴って、心機一転、移り住んだ故郷の街で、長女、次女、そして次男が生まれました。そこでは、徳川家の紋章で有名な「葵(あおい)」の花も咲いていました。山道を抜けると、生まれた山の中が、遠望できて、まさにふるさと回帰でもありました。

 そんな日々を思い出させる花なのです。ポッと頬を薄紅に染めて出迎えてくれたのかも知れません。36年も過ごした街は、生まれてからの7年を足しますと、43年も住んだ地なのです。そこを出て中国で13年生活をし、今また、下野国の栃木に住み始めて3年あまりになります。ここが、《終の住処》になるのでしょうか。葵が咲き終わり、今まさに木槿の咲く夏なのです。

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ROYAL LINE

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 もう50年以上も前になりますが、61才で、天のふるさとに帰って行った父が、『お前がひげを生やすと、俺の親爺にそっくりだ!』と、子どもの頃から何度か、私に言っていました。自分の父親の面影を引き継いでいる息子を見て、感慨深げに、そう言葉をもらしたのです。

 隔世遺伝なのでしょうか、祖父に似ている自分を鏡に映して、中学生の私は母親の黛で口ひげを描いたことがありました。ところが、そのひげを消さないままで、買い物に行ってしまったのです。応対してくれた店員さんが、実に不思議そうな顔をしているのを見て、『あっ!』と思い出して逃げ帰ったのを思い出します。自分は、『母親似だ!』とよく言われてきましたから、両親の家系の様々な遺伝子を受け継いで、自分が形造られているのだということを知らされるのです。 

 次女が、初めの子、わたしたちに初孫を連れて里帰りしたことがありました。彼は父親がJETプログラムで、長野県下の高校で英語教師をしていた時に、長野県下の街で誕生していたのです。その3年の任期を終えて、彼を伴ってオレゴンに帰って行きました。それから半年ぶりの訪問だったのです。『いちばん可愛い時期の孫を楽しんでもらいたい!』との婿殿の勧めに押し出されて、娘は、いそいそと息子を抱いてやって来たわけです。

 家内と私は、ほんとうに娘と孫との滞在を楽しませてもらうことができました。その孫の顔の表情やしぐさを見て、母所蔵の写真に映っている、彼の年齢ほどの頃の自分の顔を思い出させられたのです。『ひいおばあちゃんにも会って欲しい!』との娘の願いで、東京の母の所を、みんなで訪ねました。

 そして母のタンスから、早速、その写真を引っ張り出して、彼と見比べてみたのです。実に驚くほど似ているのです。そうしますと、祖父と孫とが似ていることになりますから、5世代の間に、引き継がれている相似性を見出せることになるわけです。これまで、3度ほど私は口ひげをつけたことがありましたが、父が召された後でしたので、父を喜ばせることができなかったのが、少々残念で仕方がありませんでした。。

 さて、聖書によりますと、私たちは、顔かたちはともかくとして、アダムの罪を引き継いでいると言います。ところが、イエスさまは、イエスさまをキリストと信じた私たちの罪を十字架に負われて、アダムの罪を継承した私たちの罪を、その十字架上で処置し、転嫁された罪と自ら犯した罪を贖ってくださったのです。ですから今や、アダムの血筋の中で自分を模索したり、発見しないですむのです。今や、イエスさまの贖いの系列、《ロイヤル・ライン》の中で、自分を再発見し、確認することができるようにされていることになります。これが、私たちの頂いた「救い」なのであります。

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 さて、パウロが、『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです(2コリント3・18)』と、手紙に記しました。私は青年期に、映画のスクリーンやテレビに映し出された、『鶴田浩二のような渋い大人になりたい!』と切に願って、男を磨きました。

 地が悪いのか、砥石が良くなかったのか、彼の様にはなりきれないまま、今日を迎えてしまったのですが、クリスチャンとされた私は、問題だらけで生きて死んでいった小野英二(鶴田浩二の本名)ではなく、イエスさまに似せられると、聖書は約束してくださったのです。私の変貌の願いが、創造者の恵みによって叶えられることに、感謝を覚えるのであります。

 いつの日か、『おじいちゃんに似てしまって、僕は迷惑なんだ!』と、最初の孫が思うのではないかと心配するのですが、彼には、私ではなく、『イエスさまに似るんだね!』との希望を持って欲しいのです。そういえば、父が、『親爺は俺を、横須賀の教会に連れて行ってくれた!』と言っていましたから、5世代で、天国で会えるのではないかと、わくわくして期待している、孫、その翌年に生まれた長男の子、次に生まれた次女の娘、長男の娘も、今や十代、人生の「工事中」なのだそうです。

 今朝、次女からのmessage で、日本時間の昼前に、次女の教会の学生キャンプで、「baptisma」が行われ、二人の外孫が、それを受けると言ってきました。はっきりと、父系と母系から継承した信仰を表明し、主と使徒たちの命じた、バプテスマを受けて、人生の大海に、嵐もあることでしょう、その中に漕ぎ出していって欲しいと願う朝です。信仰も似てくれたことに感謝しつつ。

【追記】 夕暮れの湖で、baptisma が行われ、17人の若者たちが受けて、その喜びの声が聞こえてきました。teen age の決心が、青年期の危機を越えさせてくださるように、いのちの付与者、保持者にお願いしました。God bless you!

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