父ちゃんがいたら俺だって

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 カナダ人宣教師のご子息が、韓国系の婦人と結婚をされました。彼女は、1950年代初頭に勃発した「朝鮮戦争」の戦時下に、韓国人のお母さんと進駐軍のアメリカ兵との間に生まれた、いわゆる混血孤児でした。生まれると間もなく、彼女は棄てられて、ストリート・チルドレンとなったのです。そして動乱の中を生き延びていきました。その壮絶な過去を、彼女はアメリカの教会で、証詞をしたのです。その証詞のテープを聞かせていただいたのは、もう30年近く前になるでしょうか。それは衝撃的なものでした。

 私の小学校時代、新宿の東口と西口を結ぶガード下には、垢で黒光りをした同世代のボロを身にまとった子どもたちが沢山いました。戦争で両親に死に別れた子たちや、彼女と同じように進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれて棄てられた子たちでした。ものすごい形相でにらまれたのを覚えています。『俺にだって、とうちゃんが生きていてくれたら、おめえたちのように風呂に入れて、腹いっぱい飯が食えたんだ。戦争のせいなんだ。バカヤロー!』と、きっと言いたかったに違いありません。

 私の父が戦死しないで、生き延びてくれて、育ててくれた恵みに、どっぷりつかっていた私には、彼らの痛みや苦しみに理解を示すことができなかったのです。それでも、同級生に親のいない極貧の子がいました。2歳上でしたが、一緒のクラスにいて、みんなから10円づつ集めてカンパしたことがあります。彼は私の〈立たされ仲間〉でした。『どうしているんだろうか?』と、彼のことが今でも、時々気がかりです。

 さて彼女のことですが、彼女のような出生の背景を持った子は、ほとんどが産まれると間もなく、母親の手で殺されたのだそうです。『私は母に感謝しているんです。母は私を殺さないで棄ててくれたから、それで私は生き延びることが出来たのです!』と言っていました。何でも食べて生き延びたのです。あるときビルの一室に投げ込まれた時、猫ほどもあるネズミが、仲間の幼い子を食べるのを何度も目撃するのです。でも助けてやれなかったことを悔やんでいました。

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 その筆舌に尽くしがたい体験を通りながら、15才の時に、「ワールド・ビジョン」の働きの中で保護されるのです。アメリカ人のクリスチャン夫妻の養女となって、アメリカで育ちます。家庭の中で、養父母の喜ばれるように生活をし、教会生活もして行くのですが、それは身に着けた孤児の、したたかな処世術の1つでした。ところが、ついにはっきりとイエスさまの恵みを知らされて、傷ついた心を癒やされて行くのです。そして、今でもなお、そのトラウマ(心的外傷)を癒やされる必要のあること、そのために夫の助けがあることをお話されていました。

 戦争には、必ず悲劇が伴います。今まさにウクライナの地に戦争が展開されています。戦死者や戦災者、孤児を出し、戦時下の異常心理や占領下の緊張は、兵士たちを、常軌を逸した非人間的で、肉欲だけの行動に駆り立てています。まるで獣のようにしてです。死に直面して、厭世的な思いで心を満たしてしまうからでしょう。地域紛争やテロ攻撃で戦乱の中にある国々、民族の間に、いつも見られることであります。人の争いや欲望は、世界を暗くしました。しかし、「福音の光」は、人間の傷ついた尊厳を回復させ、負った心の傷をも癒やしたのです。

(韓国の大邸の孤児院で食事を前にする男の子、戦場です)

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懐かしさの今

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 『ぼく、イエスさま、だいすき!』と言った幼かった次男に、家内が、『お母さんもイエスさま、大好き!』と答えると、『じゃあ、イエスさまを半分ずつだよ!』と答えが返ってきました。大好きなイエスさまを、母親に取られたくなかったのか、何時でも分け合わなければならない、4人兄弟の中で育ちながら、学んだので、愛して大好きなイエスさまを半分ずつに分け合うことを提案したのかも知れません。子どもって、本当に面白いと思わされたのです。

 聖書の中に、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若いときの子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は・・(詩篇127・3~5)」とあります。私に、4人の子どもがあることを聞かれた方が、思わず『ブッ~!』と笑いをこらえながら声を発したことがありました。

 その時の雰囲気からしますと、軽蔑したと言うよりは、意外だったことと、二人の子のお母さんの目からは、『ちょっと多過ぎるんじゃあない!』と言った思いからの笑いだったと解釈しています。この方のご主人は、中堅企業の部長をされていて、重役でもありました。

 ところが、私はパートで働きながら奉仕をしていたのです。『我が家では収入が少ないから、子供を育てることが出来ないのです!』と言われる方がいて、子どもを持たないようにしておいでです。それででしょうか、いつでしたか、一人の女性が生涯に産む子供の数が、《1.25》だと、ニュースが報じていましたが、今は、さらに少なくなっていることでしょう。

 私は4人の子どもを与えられたと信じているのです。決して自分たちで計画して産んだのだと思っていません。詩篇の記者が言うように、子どもは「賜物」で「報酬」だと信じているのです。もちろん経済的な理由だけではないと思いますが、この少子化傾向は、『加速していく!』と危惧され、まさに人口動態調査は、その通りの結果を見せています。

 もう20年近く前になりますが、私の「矢筒」の中にある子どもたちで相談したのでしょうか、親を心配して、長男からは、e-mailで長々と問い合わせてきました。また長女が代表して電話をくれました。『お父さん。これからは、もっとリラックスして生きたらいいよ。私たちはお父さんが分かっているんだ。』と言ってきました。彼らには、とうの昔から、父親であるわたしの強さと弱さが理解していたのでしょうか。

 『可愛い子には旅をさせろ!』と言われたように、彼らを遠くにやって、生活させられたことは、よかったのだと思うのです。でも一番の喜びは、彼らが、主を恐れて生きることを知って、主を、いまだに大好きなことであります。 

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 片道の燃料だけで飛んで行って、復路の可能性を断ち切った神風特攻機のような生き方ではなく、十分な燃料を積んで、帰って来ることも、他の土地に移動することも自在に出来るような、柔軟性のある生き方を、私の老後にして欲しいと願ったのだと思うのです。

 わたしが憧れた生き方が、まだ続いているのでしょう、それを心配しているようです。本当に、『そうだ!』と思いました。これまで、だいぶ肩を張って頑張り過ぎて、生きて来たかも知れないからです。『お父さん。人にお願いすべきことは、謙ってお願いすべきだと思うわ!』、と自分の責任だけで立とうとしている私に、次女も忠告してくれたのです。「負った子」たちに、もう背負われる年齢になって、越し方を思い出しています。 

 みんなで大好きなイエスさまを分け合いながら生きてきての七月の下旬になりました。中国の大学で教えている次男と同じほどの年齢の方が、一昨日訪ねてくれました。関西圏の大学の夏季講座に招かれて来日し、時間をとっての訪問です。昨夕は、出身の山東省青島の料理を作って、三人で食べました。愛と敬意の籠った夕食に舌鼓を打った夕べでした。

(山東省の青島の風景、青島料理(?)です)

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第二の死

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 『聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント人155157節)』

 死に直面して、意気阻喪し、逡巡し、怯え切っている人を見るにつけ、「死」の力の強さを痛感してきました。〈死の二様〉、人の「死」は、二度あると言うことを、聖書は厳粛に記します。私の育った父の家には、おじいさんやおばあさんはいませんでした。親戚の行き来もない家庭だったのです。正月や誕生日に、お年玉やお祝いを、その祖父母からもらうことなどmなかったのです。だから、身近で家族が死んでいく様子を知らずに大きくなったわけです。

 ただ、身近かにあったのは、映画の中で、刀で切られて悪役が死んでいく姿でした。また、子どもの頃に住んでいた街で、何か悪いものを食べて、赤痢にかかって、近くの子が死んでしまったり、列車に乗って移動していたアメリカ兵が、ふざけていたとかで、デッキから身を出して、信号機に当たって死んでしまって、その死体を眺めたこと、川で泳いでいて子どもが溺死したことなどがありました。

 自分自身が肺炎で死にかけたことがありましたが、父の死、母の死は、最も身近な死でした。父の腰から出て、母の胎に宿った自分いのちの神秘に、驚いて生きてきたので、そのいのちを受け継いだ両親の死は厳粛に受け止めたのです。長くとも、もう10、20年ほどの自分のいのちなのですが、今日日、間もなく迎える、〈自分の死〉を考える時が、多くなってきています。

 聖書は、『人間には、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることがさだまっている(ヘブル927節)』とある「死」ですから、誰も逃れることがないのです。逃れることのできない終わりに向かって、今、時を重ねているいて、多くの人が死に怯えながらも、考え内容に、触れないようにして今を過ごしているのかも知れません。

 両親との死別は、その現実を示されたのですが、悲嘆に暮れることはありませんでした。父も母も、神のいますこと、神の御子の十字架の死が、自分に罪の身代わりの死であったことを信じていたので、再会の望みがあるのです。互いが栄光化されて、再びあいまみえることができると思ったからです。

 この聖書が記す「死」の他に、もう一つの死があることを聖書は記すのです。

 『また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録201115節)』

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 そうです、「第二の死」があると言うのです。そして、その死を免れることができる者がいると言います。それは、「いのちの書」に名の記されている者なのです。だれが、その書に記名されるのかと言いますと、イエスをキリストと信じた者です。

 『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 (1ペテロ318節)』

 アダム伝来の罪と自からが犯した罪の結果で、人は死にます。ところが、イエスの十字架が、自分の罪の身代わりであったことを、心で信じて口で告白するなら、だれもが「義」と認められて、永遠のいのちに預かることのできる、「神の子」の身分をいただけ、キリストとの共同相続人とされるのです。

 聖書によりますと、全ての人は死から蘇って、神の「白き御座」の前に、審判の座の前に立ちます。その法廷では、「いのちの書」が開かれ、また一人一人の生涯が記された行動記録の書も開かれます。だれも言い逃れできないのです。そして、その「いのちの書」に名のない人は、「第二の死」、永遠の暗黒と隔絶の中に置かれます。

 『なぜ人は死に怯えるのか?』と言いますと、それは他人だけの経験ではないからです。客観的にしか見、感じてこなかったのが、大病をし、癌の宣告を受け、今や「現実の死」を主観的に感じているからです。家内が、中国の華南の街の省立医院の主治医から、『癌ですから、すぐに帰国して日本の医院に行って診てもらいなさい!』と、寝耳の水の様に宣告を受けた日を思い出します。

 帰国して、獨協医科大学の外来に行き、総合診療科で診断を受けました。中国の医師の見立ての通り厳粛な事態でした。即入院で、診察結果は、余命半年、肺がん第四ステージでした。3ヶ月の入院後、退院を促され、市内の緩和治療、terminal治療の入院が準備されていました。ところが、その病院に入院することなく、通院治療が続けられて今日に至っています。

 自分たちの母親や祖母に「死」が迫っていて、四人の子供が孫を伴って、やって来て、母親と祖母に、最後の時を持とうとしていました。家内は死に怯えることもありませんでした。「アドナイ・ラファ(われは主、汝を癒す者なり)」と信じた神の右手で、自分の手を握ってくださるお方にあって平安でした。

 「がん患者の集い」が開かれていると紹介されて出掛けました。東武宇都宮駅近のブルーのドアーの喫茶店で行われる、「癌cafe」に出席したのです。参加者もスタッフの多くも、会長をなさっている医師も同病者でした。そこには暗い雰囲気がないのです。励まし合いながら会を重ねてきていたのです。亡くなっていく方もありますが、生きている間に積極的に他者と関わろうとするあり方が素敵でした。

 死の恐れに見舞われて、死を超えていくために、家内は覚悟ができているのです。だからと言って、死が怖くないことはありません。彼女は、死が終わりではないことを、聖書を読んで、教えられて知っているのです。でも未知の経験が迫っているわけです。死に直面しているのは、まだがんではない私も同じです。先日、自転車からひっくり返って、死なないで済んだのも、生きて、もう少し家内を支える務めが残されているから、少し先延ばしされたのであって、「死」は、常に目の前にあります。

 やはり問題にすべきなのは、「第二の死」だなあ、と思うこと仕切りです。その死を回避できるなら、直面しようとしている「第一の死」を、受け入れられるに違いありません。

 その様な罪の結果から救われるために、「愛」の神は、御子が人となられて、33年半の後、信じる人々に代わって、十字架の上で、「義」なる神からの処罰を受けられたのです。それで神の「義」が満たされたことになります。その愛と義の真実さのために、聖書の約束に従って、墓と陰府と死から、御子イエスは甦られ、「生かすキリスト」となられたのです。

 母が、子どもの頃に、この聖書の記す「キリストの救い」を信じ、神が「父」でいますことを信じ、信じ続けて生きていた生き方に、「真実」を見ながら大きくなりました。偽りのない、非情でない、正直な生き方が母にあるのを見たからでしょうか、わたしも歴史に顕れて下さったイエスさまを、キリストと信じ、キリストに仕えて生きることを継承して、今日まで生きてくることができ、感謝でいっぱいなのです。

( “キリスト教クリップアート“「復活されたイエスさまと会ったマリア」です)

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胡蝶蘭とローズマリーの花に思う

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 華やかに咲き誇り、わが家への来客者の賞賛を受けた第3期の胡蝶蘭が、今や花を落とし、葉を枯らして晩期を迎えています。一方、今朝のベランダのローズマリーに、小さな花を開き始めています。

 出掛ける前に、サイトを見ましたら、「PLAN75」という題の映画があるのを知りました。もう上映時期

が過ぎてしまったようです。往年の歌手で、映画女優の倍賞千恵子の主演映画で、youtube で予告編を見たのです。「下町の太陽」を爽やかに歌い、「男はつらいよ」で寅さんの妹役を演じ、「駅 STATION」で翳のある桐子を演じた、兄の世代の方です。美人に皺がよるのを見て、洗面台の鏡に、自分の顔を写してみて、時の流れを感じました。

 花は来季に向かって、花を落とし、葉を枯らせていきますが、人の一生の長さ、いえ短さを聖書は次のように記します。

 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 (詩篇9010節)』

 「創世記」の人類創造の時点では、「永遠」に生きるように祝福されたのですが、次の段階では、「百二十年(創世記63)」だったのです。ところが 「詩篇」では、人の寿命が縮められてしまいました。まさに、その通りですね。好漢も、美女も、栄光の過去を残して置いて、行く(逝く)のですね。いつまでも、そんな美しく輝いた姿のままでは、若い人たちに申し訳ないので、その席を譲るのが、老年期なのでしょう。

 寂しく何にも感動しなくなり、喜びがなくなる時を迎える前に、どうするかを聖書が、次にように勧めています。

 『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12章1節)』

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ハグのしゅくだい

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 英語に “ hug “ と言うことばがあり、人と人との関わり方法があります。宣教師の教会、家で開かれる聖書講座に、ニューヨークやテキサスの聖書学校の教師や牧師が来て挨拶をすると、握手だけではなく、このハグをしたりしました。日本人には習慣化されてない挨拶の方法でした。それでも親しさや感謝の表し方としては、体温を互いが感じ合うことができて、実感としては優れていると思いました。

 最近、ある講演を聞いていて、その話の中で紹介されていた本を、古書ネットで買ったのです。その一冊は、「しゅくだい(原案が宗政好子、文と絵がいもとようこ)」という題の「絵本」でした。先生が出した宿題の話です。

 屋外派、乱暴派、漫画派だった自分には、絵本を読んだ記憶が、ほとんどないのです。大人になってから話題になっている「フレディーの葉っぱ」とかを買って読んだのですが、幼少期の欠けたところを補う心の動きで、それを埋めようとする衝動に、今になって動かされています。

◯youtube  https://www.youtube.com/watch?v=d3dmBnYrE7I

 こんな風に家に帰って、お母さんやお父さんやおばあちゃんと、家族の間で「ハグ」をする宿題だと、いいですね。主人公のもぐくんは、恥ずかしがらないでハグを求め、家族はみんなそれに、楽しそうに応答しているのは、互いが互いの体温を分け合い、受け合うのは素敵なことですね。

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 父に、よく抱きすくめられました。そしてヒゲの頬擦りをしたり、くすぐったりして、『やめてくれよ!」と訴えてもやめなかったのです。あの skin ship は、懐かしい思い出です。ゲンコツオヤジだけではない、ハグオヤジだったのは、非行化防止のために益だったに違いありません。

 人と人との距離が広がり、ことばや眼や身体での直接間接の接触がなくなってきている現代人でも、温もりと関係と絆が必要なのです。病んでいる人が求めているのは、薬だけではなく、《つながり》でしょう。めいこせんせいが、しゅくだいをしてきたクラスのみんなを見て、『きょうは とても げんきそうねえ〜。』と言ったように、人を元気づけ、生きる意欲を高めるのでしょう。

 華南の街の学校で、一年生の前期の授業を終えた時に、ひとりの女子学生がやって来て、『ありがとうございました!』と言って、『先生お願いがあるんですが、わたしを hug してくださいませんか!』と願ってきたのです。寂しかったのか、なにか感動があったのか、自分の正直な願いを示したのです。

 一瞬間があったのですが、わたしは『はーい!』と言って、帰りかけたクラスが見守る中、彼女を軽く hug したのです。〈言葉のキャッチボール〉で半年過ごした後、hugした学生は満足そうな顔をして、『ありがとうございました!』と言って教室を出て行きました。恥ずかしがらないで、自分の感情を、大人として言い表したのは素敵だなと思ったのです。何か、中国を hug したようで、懐かしい十三年の中国生活の一場面であります。

 25才で、聖霊に満たされた時に、隠れて犯してきた罪、英語表記ですと、sins の数え切れない罪が、いっぺんに赦されたと実感したのです。頭では理解できなかった十字架が分かったからでした。それは味わったことのない心の平安でした。帰ってきた弟息子を、抱きすくめて迎えた父親のように、父なる神に、まるで抱きすくめられ、受け入れられた hug だったのでしょう。

( “ キリスト教クリップアート“ からエサウとヤコブの「和解」です)
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ひろっぱ

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「ひろっぱ」、どこにも、子どもたちが見つけて、遊びの場にし、そう呼んでいた空間がありました。2、30人も集まって、宝島、かくれんぼ、鬼ごっこ、馬乗り、ゴム跳びなどで遊んでいたのを思い出します。林の中や土地を掘って作った穴の地下室に、基地を作ったりもしたでしょうか。

 サンパウロに、Liberdade(リベルダージ)と言う地域に、日本人街がありました。日系人たちが、開拓村での働きを終えて、大都市に出てきた、開拓の苦労を終えて住み始めた地域なのです。そこに地下鉄の駅があり、駅の前の花壇の石に腰掛けた年配者たちが、黙(だんま)りとしているのを、通りすがりに見かけました。南米の移民のみなさんの「ひろっぱ」でしょうか。

 そこで、子や孫の世代になって、ご自分は引退し、苦労を顔に刻んで、黙座しているおじいさんたちでした。そこは、余暇を持て余す世代のみなさんの交わりの場でした。缶蹴りをするでも、ゴム跳びをするでもなく、陽だまりに座り込んで、互いの存在を確かめ合っているだけの風景がありました。

 人には、〈群れる習性〉があるに違いありません。子どもたちことも、嫁たちや孫たちのことも、もう話題に尽きてしまっているのかも知れません。越し方の苦労を語ることも、もうないのでしょう。ただ、同じ日本人で、似た様な過去や境遇で生きてきた共通点だけが見え隠れしていました。

 義兄が元気な頃に、サンパウロから20キロほどの隣街を訪ねたのです。そこで1週間ほど過ごしたのです。車でサンパウロの街に行く用がある義兄の車に同乗して、二度ほど連れていってもらった時のことでした。その義兄の住む街に、露天のMercado(マーケット/市場)があって、義姉のお供をして歩いたこともありました。

 日系移民の知人たちと会うと、軽い会話を交わしておいででした。一人のおばあちゃんが、息子さんとお孫さんと一緒に買い物に来ていました。あんなに寂しい顔つきをしたおばあちゃんを見たことがありませんでした。年寄り仲間が亡くなっていき、孫たちとの間では会話もなく、故郷は遠く、〈孤独〉な息遣いや目つきが、実に寂しそうでした。

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 子どもの頃は、ひろっぱで、田んぼや畑の休耕地、里山や小川で遊んだのでしょう。異国の地には、遊び回った箱庭の様な村の佇まいはないのでしょう。義兄の家の庭の大きな池や家の前には、丸かったでしょうかテーブルがあって、訪ねてくるお客さんと椅子に座って、お茶を飲んだりする場所がありました。

 Festa と呼ばれる、パーティーがよく開かれていました。一度は、義兄の移民仲間の親友が、街一のレストランで、歓迎会を開いてくれたことがあったのです。三人で囲んだ5、6mもあるテーブル満載の料理でした。その友人は、リンゴの栽培と出荷を手広くしていた移民の成功者でした。次回来たら、海辺にある別荘にお連れすると言ってくれました。もう義兄が召されて、その機会がなくなってしまいました。

 招待主は、和歌山からの移民の母の子で、日本で苦労し、移民としても苦労されたは並大抵ではなかったと、同じ様な農業移民の苦労をしてきた義兄が言っていました。人は、寄り集まることでの交わりをして、孤独を癒そうとするのかも知れません。

 そんなことを思い出したのは、「がん哲学外来」を始めた樋野興夫氏の話を聞いたからです。宇都宮でもたれているのは、〈がんcafe〉と呼ばれている集いで、コーヒーを飲みながら、差し入れの cookie の載ったテーブルを囲んで、語り合うのです。

 子育てをしたわが家も、人の出入りが多くて、〈宴会〉にはならないのですが、コンパネの合板に、ステインを塗り重ねた手作りのテーブルには、いつも大勢の人がついていました。今は、床上浸水後に、家具屋さんが引き取った家具をいただいて、六人で囲める、小ソファーを入れると十数人で囲めそうなテーブルが、客間にあります。そこに、人がやって来て、coffee や Earl Gray や狭山茶を飲んだり、食事をしたりの談笑が行われています。

 一人の家内のお姉さんの様な、こちらで出会ったご婦人が、最近、見えなくなったと思っていましたら、亡くなったと聞きました。年上の優しいお兄さんが戦死した話を、そのテーブルでしてくれたことがあり、素敵な語らいの交わりをすることができたご婦人した。人には、こう言った交わりの場、〈ヒロッパ〉が必要なのでしょう。

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朽ちない栄冠を

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 長男の子は、中学校で野球に熱中していました。今、次女の子、私たちの外孫も野球のシーズンで、頑張っている様子を映した動画が送られてくるのです。アメリカには、日本の甲子園の様な、全米高校選手権大会はないのです。彼は、ホームスクールで学びながらの球児で、地元の学校のチームに誘われて活躍しているのです。日本とは違っていて、season sports で、一年中野球だけをしていないで、他のサッカーやバスケットなどもしています。

 何か楽しくやっている様な感じがしています。将来を考え始めているのでしょうか、野球選手になるのか、自分の好きなことを学んで、それに見合った仕事を見出すのか、そんな時期に差し掛かっているのでしょう。スポーツにしろ、職業にしろ、受け継いでいる信仰にしろ、大切なのは、自己管理なのでしょう。

 パウロは、ギリシャで行われていた古代オリンピックを知ってたのでしょう。信仰生活を、拳闘や陸上競技のスポーツ競技になぞらえて、次のように言っています。

 『競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(1コリント人92427節)』

 信仰の goal を目指して、走り抜いて、goal in するために、途中で失格者にならないために自制して生きるように、自分の体も心も打ちたたいて従わせていると言うのです。要は、自己との闘いだと言っているのです。「永遠のいのち」を得るために、ボクサーが体重管理をして試合に備える様に、信仰者も自己抑制、自己管理が必要だと勧めています。驕らずたかぶらずに、謙虚に生きることです。

 佐賀県の代表校になって、2007年度の甲子園の大会で優勝した学校がありました。県立の佐賀北高校です。多くの私立校が、日本全国から有望な選手を集めて、強力なチーム編成をしている中、地元出身選手で構成されたチームで、監督をしていたのが、同校の国語教師で、野球部監督をされていた百崎敏克さんです。今年退任される、この百崎氏が、次の様な退任のコメントをされています。

 『甲子園はあくまで目標であって、目的じゃない。それだけが目的なら、日々やっていることが意味をなさない。目的は野球を通じていろんなことを学び、人間的に成長すること。』とです。流石、国語教師でしょうか、スポーツ本来の価値を熟知しているからでしょう、野球もさまざまにある「目標」の一つだと言っておいでです。

 人間的な成長や、人としての感性にためにある一つのことなのでしょう。野球しか、柔道しか、サッカーしかできない人になってほしくないのです。人生の勝利者には、神によって戴冠させていただける栄冠が待っています。『よくやった!』と言われて、goal in したいものです。本物の「目的」に向かって、生きていって欲しいと願うジイジです。
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今も継承され

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 『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ4319節)』

 もう50年以上も前になってしまいましたが、家内と結婚をして世帯を持って迎えた新年のことでした。友人や知人や恩人や家族親族への新年の挨拶状に、とても豊かな信仰と新鮮な気持ちを込めて、この聖書のみことばを記しました。『見よ。わたしは新しい事をする。』とです。

 これを読んでくださった方の中で、私が奉職させて頂いていた学校の校長先生が、『この聖書のみことばはどこにありますか?』と聞いてこられたのです。私の父と同世代の方でした。お体が不自由で、私の在職中にお目にかかったことは二度ほどでした。この方のお父さまは、札幌の農学校に学ばれた方で、この学校の予備門の「共鳴学校」で校長をしていた新渡戸稲造を慕って、札幌に行き、その教えを受け、札幌農学校を出て、二年ほど教師をされた方でした。

 あのクラークの去られた後に、入学して学ばれた方で、その青年期にクリスチャンなります。ただ残念だったのは、「リビングストン伝」を、共著した親友の有島武郎でした。小説家として大成し、父から譲り受けた農場を使用人たちに解放します。彼は共産主義者マルクスの感化を受けるのです。その感化が、彼の価値観や人生観を狂わしてしまったのです。内村鑑三の弟子の一人として、聖書教室に集っていたのですが棄教してしまうのです。そしてついに、一人の雑誌記者で人妻と軽井沢で情死してしまいます。 

 同級生たちにとっても、それは実に悲しい出来事だったようです。二人とも、内村鑑三から聖書を学んだのです。師であった内村鑑三の悲しみは甚大だったようです。でも森本は、生涯、信仰を貫いたのです。そして、東京で、真の女子教育をしようと学校を始めるのです。

 そのキリスト者のお父さまから聖書を読むことを教えられたのでしょうか、文語訳の聖書で読まれて覚えておいでだったようです。私は聖句の住所を記さなかったのです。それで、その懐かしいみことばを思い出されて、お聞きになられたのか、交わりの手を延べてくださったようです。この校長との出会いで、私は、《信仰の継承》と言うことを考えさせられたのです。

 はるばるアメリカから日本にやって来た一人の教師・クラークが、黒田清隆と一緒に札幌に来て農学校の教頭になります。その一人のキリスト者教師が1年にも満たない在職を通して、多くの青年を主に導き、去られた後も、上級生たちの熱心な証詞によって、下級生が信仰を告白していったのです。そんな中で、有島は棄教しますが、森本はキリスト者として生き抜いていきます。その自分の子にも、信仰の感化を与えたわけです。だれにも同じ様に、信仰の戦いがあるのです。 

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 でも信仰を守り通すことが出来るとするなら、その森本への誘惑が有島よりも弱かったからでしょうか。思想的な情動的な誘惑はだれにもあるのですが。最近暗記したみことばに、

 『・・神は世界の基の置かれる前から、キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました・・愛をもってあらかじめ定めておられたのです(エペソ1章4~5節)』

とあります。信仰が保たれ堅持されているのは、そう意志して、そうしてくださる父なる神さまによるのです。この選びと予定こそが、私たちの信仰を健全に保ってくれる教えだと信じてやみません。

 まさに、武士が剣や朱子学を捨てて、キリストの福音に触れて、救い主イエスと出会って、生涯を明け渡す信仰者となったのは、明治ご維新後に、この日本でなされた「新しい事」でありました。その業は、熊本でも、松江でも、弘前でも、そして横浜でもなされた「神の御業」でありました。

 私の恩師の夫人(師母)は、信仰の家系には「子」しかいないのだと言われますが、クラークの信仰上の「曾孫(ひまご)」で、健全な信仰の継承者だったのです。そして、今もなお、目を見張るような、神の御業が、この困難との烙印を押された、暴れ川の様な、荒れ野の様な日本の伝道の中で、積まれた祈りがあってでしょうか、新しい世代にも、信仰の継承がなされているのです。

(「北海道大学農学部」と「喫茶店」です)

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もう一つの外来

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 食糧事情の悪かった戦後、肺結核にかかった義母は、東京都下の清瀬にあった専門病院に通院していました。近くに東京女子大学があって、そこで学ぶ学生もいたそうです。義母の病友たちにだったのです。今のようにドアーがあって、医師と患者だけの診察室などなかった時代ですから、医者の言うことばが、待合室で聞こえたわけです。

 レントゲン画像を見ながら、その医師が、『君の命は、もうニ、三日だね!』と言う言葉が聞こえてきたそうです。その晩、その女子大生は、医者の宣告通り亡くなってしまったのです。それを知った義母は、患者の心の思いへの配慮のない、その医者の不用意なことばを責めたのです。敗戦後の日本では、医療従事者も頽廃的になっていたのでしょうか。

 権威ある立場にある人の語る「ことばの重さ」を考えていた時に、家内の一番上の姉が、駅前で、小冊子をもらって帰って来たのです。「約翰傳(新約聖書のヨハネの福音書)」の分冊でした。それを手に取って義母は読み始めたのです。

 『1:1太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 1:2この言は太初に神とともに在り、 1:3萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 1:4之に生命あり、この生命は人の光なりき。 1:5光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。 1:6神より遣されたる人いでたり、その名をヨハネといふ。 1:7この人は證のために來れり、光に就きて證をなし、また凡ての人の彼によりて信ぜん爲なり。 1:8彼は光にあらず、光に就きて證せん爲に來れるなり。』と、最初のページにありました。

 「言」に強烈に捉えられた義母は、それを配っていたアメリカ人宣教師を訪ねて、質問に質問を継いで、「言(ギリシャ語でロゴス、アラム語でメモラ)」である、イエスを知り、このお方が、「キリスト(救い主)」であると信じ、101歳で帰天するまで、その信仰を全うしたのです。

 その肺結核も、「癒し主」であるイエスさまによって癒やされたのです。聖書に、「我はエホバ、汝を癒す者なれ(出エジプト1526節)」とあるみことばを信じてでした。医学の助けがあったことも忘れてはなりません。

 きっと、誰もが求めるのは、《優しい気配りのあることば》で交流できる場なのでしょう。「まちなかメディカルカフェin 宇都宮」と言う定例の集いが、宇都宮で行われています。信仰の友が、家内に紹介してくださって、二度ほど参加したのです。全国で80ヶ所ほどで持たれてるそうです。ところが新型コロナの感染拡大で、やむなく開催を中止したりで、参加が続きませんでした。その後、hybrid での開催になったり毎月継続開催されてきています。

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この日曜日に、hybrid で、「がん哲学外来市民学会 栃木大会」が、宇都宮で開かれました。この学会に急遽入会した家内は、6時間の大会に参加したのです。その四人の講師のみなさんの講演などをお聞きしていました。病む人、病と闘っている人が、白亜、白衣の病院の環境の外に出て、青い空、木々の緑、花々の多彩の世界で、主治医から一時離れて、患者思いの医師と、さまざまな医療の分野に関わっておいでのみなさんや家族との交流の場なのです。まさに「もう一つの外来」なのかも知れません。

 順天堂大学医学部の病理・腫瘍学科教授の樋野興夫医師が始められれている、院外の個人的な患者との交流の場を、「がん哲学外来」と呼んでいます。社団法人となって、2009年に始められているそうです。患者さんや家族の話を聞いて、その面談は無料でなされています。この「学会」には、五箇条のmotto があり、だれでも入会できるとのことです。

1.世の流行り廃りに一喜一憂せず、あくせくしない態度。

2.軽やかに、そしてものを楽しむ。

3.学には限りないことをよく知っていて、新しいことにも自分の知らないことにも謙虚で、常に前に向かって努力する。

4.段階ごとに辛抱強く、丁寧に仕上げていく。最後に立派に完成する。

5.自分のオリジナルで流行を作れ。

 この樋野医師は、新渡戸稲造、矢内原忠雄、南原繁と言った、内村鑑三の教えや生き方に感銘を受けた方で、「われ21世紀の新渡戸とならん」と言った著書を書くほどの人で、多くの著書を著しておいでです。

 私の恩師たちは、がんの病で主のみ元に帰りました。彼らは、地上の生涯を走り抜き、主の安息の中にいらっしゃることでしょう。聖書は、「第二の死」を語ります。そのもう一つの死にそこなわれることのない、「永遠のいのち」の約束を、みなさんは握っておいででした。自分の生を肯定して生き抜いた、彼らから多くを教えられて、今があります。彼らの人生の基調にあったのも、また、この「がん哲学外来」を動かしているのも、人の心にある「愛」に違いなさそうです。

(“ キリスト教クリップアート” の「人を癒す主イエス」です)

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