ハスの花

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 この月曜日に、いつも私たちに開放と交わりの時を考えてくださるご婦人がいて、市の「総合運動公園」の北の方にある「つがの里」に連れ出してくれました。近所の方から、『ハスが綺麗なところがあります!』と聞いていて、行きたいと思っていた所だったのです。

 最盛期は過ぎていたのですが、晩期の蓮、睡蓮が見事でした。遠くから見たことがありますし、レンコンは好きなのですが、あんなに身近で、その咲きっぷりを見ることができて感謝でした。華南の町の市役所の前に池があって、そこを公共バスで通るたびに、『そろそろ咲くかな?』と思いながら眺めていましたが、そこでも最盛期を見逃していました。

 今年も〈引き籠り年〉なのですが、来栃以来、「大平山の紫陽花」、「つがの里のハス」を鑑賞することができて、美しい栃木市に感動を与えられています。地方都市、ご多聞に漏れず、ここも人口は減少傾向にありますが、住み心地の快い街です。

 お昼には、「道の駅にしかた」で、手打ち実演の蕎麦処で、蕎麦をいただきました。美味しかったのです。隣には、地元の野菜の売店があって、いろいろと買って帰りました。郊外には、この「道の駅」があって、取り立ての野菜や名産品が売られていて人気です。

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居心地のよさ

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 「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。 (ローマ1417節)」

 「居心地」がいい場所って、天然自然が溢れている山際とか海辺とか、静かとか、あるいは便利など、生活と関係がありそうです。でも一番は、「人」でしょうか。だれかと一緒にいると居心地が良くなる、やはり心理的な雰囲気にかかっていそうです。

 父や母と過ごした家は、狭かったのです。戦時下、出雲、朝鮮京城(ソウル)や山形を経て、中部山岳の山村で、鉱石の採掘、搬出をし、戦後は、県有林の払い下げで、材木を東京方面に送る仕事を父がしていて、建築材は自由に使えたのに、公私を分けていて私物化しませんでした。東京都下に、建売の一軒家を買って住んだのです。一家6人には狭過ぎましたが、すぐ上の兄は仕事と大学で高校卒業と同時に、上の兄は大学を出て、その家を出て行ったのです。

 残った四人の住み続けた家は、中央高速道路の路線下で、立退きになって、別の街の建売を買って住んだのです。父の生まれた家は、大きな家でしたが、父には、大きく立派な家に住む願いは全くなかったのです。父が尊敬していた方が、会社の役員でありながら、同じ様な手狭まな家に住んでいて、それに父は倣ったのだそうです。

 狭さが苦痛にならなかったのですが、かえって近過ぎての度重なる衝突が、今になると懐かしくて仕方がありません。親や兄弟と過ごした期間は、随分と短かかったのだと思い返しています。それなのに、結婚した糟糠の妻とは、五十年が過ぎました。おとなしい羊の様な家内と、猛々しい虎の様な私とは、馬があっていたのか、一度だけの羊の脱走で終わりました。

 散歩途中に見付けたスーパーマーケットに入りましたら、「ラム(仔羊の肉)」が売っていて、最近は、時々、それを買って帰宅しています。お世話くださったアメリカ人宣教師が、オーストラリア産を、box で買われて、よく分けてくれましたので、子どもたちの身体の一部は、その肉と野菜、時々のオジヤと水団で作り上げられたと言えそうです。子育て時も今も、わが家も手狭な借家の連続でした。

 『魚だけではなく、肉も食べて!』と、食事指導をしてくれる長女の勧めで、動物性タンパク質不足を補っています。ほどほどに、種類多くの食材を、よく噛んで、にこやかに食べるのがいい様です。四人兄弟で、食べられないための〈食べる原理〉で、早食いの私は、やっと今頃になって、ゆっくり食べられる様になったのです。

 天国の食事風景は、みんなが長いspoon folk で食べるのだそうです。相手に食べさせ、相手に食べさせてもらうためでしょう。「神の国は飲食にあらず」ですから、本当はどうなのでしょうか。つまり、《相手優先の世界》だということでしょう。和やかでいいでしょうね。居心地の快いのは、やはり「天国」に違いありません。

 ( “ヤオコー” に掲載の「ラム」の写真です)

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アサガオ

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今朝のアサガオです。嵐の中、強風にさらされても、なんのそので、綺麗に咲きました。『夏が来た!』、そんな感じがしてきます。忙しく、あわただしく、閉じ籠りの中で、暑くなりそうです。東京オリンピックが無事に行われます様に。弟が volunteer で脇参加します。

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新参者 new face

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“ Kaguya de marché “ で、「麦わら音楽団」の concert があって、その模擬店で買った刺繍絵の《野原を泳ぐ風船》です。風にさらされ、なびかせられ、どこともなく飛んで行こうとしている風船に、自分の思いを乗せてみたくなって、見ていっぺんに買ってしまいました。New face です。

同じ風が、草を揺すっている様子がいいのです。一昨日と昨日と、雷光・雷鳴・雷雨の襲来で、地が揺り動かされているかの如き有様でした。18の時に、熊本の本渡で、台風に遭いました。真夜中、窓ガラスが壊れ、廊下を隔てた部屋の襖を背中で押さえて、まんじりともしなかったことがありました。まさに台風渦中の怖さでした。

それ以上の凄まじい暴風雨で、視界ゼロでした。初めての経験でした。雨が雲の様に真っ白く西から、そして東から猛烈に吹いていたのです。この風船を飛ばしているのは「そよ風」、76年のこれまで、そよ風ばかりではなく大嵐もあったのを思い出しています。

異常気象で自然界は荒れ狂っていますし、コロナ騒動も収まりませんが、心の中には、そよ風が優しく吹いている様で、素敵な老境を過ごしております。この日曜日の午後、礼拝を済ませて出かけたconcert で聞いた、ジャズ調のgospel  song が聴き心地がよかったのです。"You rase up  me “ でした。まだ、その余韻が残っています。

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ビックリ

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 昨日の午後三時過ぎ、もう夕方でしたが、前代未聞、前代未経験の「大嵐」でした。ベランダの窓から、外を眺めても、一寸先が見えないほどの風雨で、さしものアパートが飛んでしまうのではないかと思うほどでした。

 18の時、熊本の本渡という島で、台風に遭遇したことがありましたが、その時は、窓を背中で押さえて、真夜中に寝ずの番をしましたが、あの時は暗くて、外は何も見えませんでした。でも、昨夕は、本当に驚きました。西風が東風に急激に変わって、吹き荒れると言う感じでした。

 一生に一度、そう言いたい程でしたが、これからもっと荒々しく天候がなっていくのでしょうか。自然が、人の所業に、怒って荒れ狂うが如きでした。朝に、ラジオ体操仲間から花をいただき、友人の教会の礼拝に、二人で参加し、夕べには嵐の後に虹が出ていました。部屋の中では、胡蝶蘭の最期の二輪が残って咲いていました。

 何が起こってもおかしくない時代、驚きながら生きていくのでしょうか。西側の窓の網戸が、手が届かないので、蜘蛛の巣が取れなかったのですが、強烈な水圧で吹き飛ばす《神の大掃除》がなされて、すっかり綺麗になってしまいました。本当にビックリした週初めでした。

 

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下野国

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 今朝、7月10日の土曜日は、この二、三日の豪雨の影響で、鹿児島の薩摩川内付近が、〈数十年に一度〉ほどの命を脅かす異常事態で、緊急安全確保情報が発令されていると、ニュースが伝えていました。北関東は、久し振りの晴れでした。その報に押し出されて、ヘルメットをかぶって、自転車に跨り、懸案の「下野国」の政治中心地を探検してきました。

 中国の「律令制」を真似て、国と統治に躍起になっていた奈良朝廷は、ここ北関東を、「下野国(しもつけのくに)」と地方の国名が定められ、思川の近くの現在の栃木市に、「国庁(地方行政庁)」が置かれました。奈良時代、日本が統一されていく中での「大宝律令」が施行され、現在の下野市には、天平13年(741年)に、全国六十箇所の一つとして「下野国分寺」、その後、「下野国分尼寺」が建てられ、強固な支配体制が敷かれたわけです。

 関東平野の奥まった下野国分寺からは、大平山、男体山、筑波山、さらには富士も望められる地で、あたりは地味が肥えて、豊かに米を実らせる土地だったのです。近くに流れる思川、遠望の山々は、遠く奈良の都から遣わされた、地方行政官の「国司(くにつかさ)」たちは、遠くに任地を得て、何を思ったのでしょうか。

 久し振りの自転車の遠出でしたが、息を弾ませ、大汗をかいて、夏の陽差しに焼かれて、いい気分でした。東北本線(宇都宮線)の小金井駅から、歩こうと思ったのですが、自転車は、やはり便利でした。いつも流れの少ない巴波川を眺めているのですが、水量の多い思川の流れの音が聞こえてきました。(10日記)

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朝顔とSamantha

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 今季第一号の「朝顔」が、今朝(7月10日)開きました。なかなか開かないので、ヤキモキしていたのですが、突然咲いた感じがして、驚き喜んだところです。華南の街のベランダでも、毎年咲いてくれ、下野国でも咲いてくれ、喜びは一入です。

 もう一つ、なんと gorgeous ではないでしょうか、"Rose lily  Samantha “ と言う名の百合です。なんか私たちには似合わない花の様に感じられるのですが、見事です。いっぺんにベランダが華やいでしまった感じがしてきました。もう三輪が咲こうとしています。

 まさかの八重咲の百合だとは思ってもみませんでした。散歩途中の庭先で咲いていた百合は、とっくに開いていたので、わが百合は、どうしたのかなと思っていたのです。

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栃木

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 わが栃木市の紹介です。今は、宇都宮が県庁所在地になっていますが、栃木県の県庁は、維新間も無くの間、栃木市に置かれたことが、短期間ですがありました。時の県令三島通庸(薩摩藩士)の決定によって、宇都宮県が栃木県を吸収する形で、県都が宇都宮市になった経緯があります。当時の自由民権運動家たちが栃木にいたことが、三島県令の不興を勝ったと言われています。
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 小山や茨城の結城市にも、民権の士がいて、1884年に起きた「加波山事件(三島県令の暗殺計画)」に関わっています。渡良瀬川汚染の足尾鉱毒を訴え、天皇に直訴した田中正造も、その一人でした。気骨ある分子が、ここ栃木にはいたことになります。

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 この三島は、那須野が原を開拓奨励した人物で、第四代の警視総監(東京府警視庁)をし、在任中の54歳で没しています。御多分にもれず、薩摩藩の下級藩士でしたが、幕末の薩長主流の討幕活動に功があったのでしょう。強引さを揶揄される自民党の麻生太郎は、三島の玄孫だそうです。明治維新後は薩長の世であったことになります。
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 まさか、自分が栃木県民、栃木市民になるとは思いもよりませんでしたが、「栃の木」を県木、市木とし、「八染躑(ヤシオツツジ)」を県花とし、「紫陽花」を市花とし、「大瑠璃(オオルリ)」を県鳥、「鴨」を市鳥とする県や市に住んで、それらしく生活をしております。

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 県南の小山、足利、佐野、今は日光市になっている足尾、渡良瀬川遊水地などは訪ねたことがありますが、県北の那須ケ原方面に入ったことがありません。そこには、御用邸があり、乃木希典が住んでいた住居があったそうですし、家内の恩師が始めたアジア学院もあったり、また県東の那珂川町には、那珂川町馬頭広重美術館があるそうです。その他にも、興味を惹く地があります。追々、訪ねてみたいとの思いがあります。

 (オオルリ、栃ノ木、ヤシオツツジ、栃の実、大平の紫陽花です)

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65%

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 もう最盛期は過ぎてしまったことでしょう、私たちが住んでいた華南の街に、どこででも咲いていたのが、この「凌霄花(ノウゼンカズラ)」、「朱槿(ハイビスカス)」、「九重葛(ブーゲンビリア)」です。省面積の65%が緑を占めていると言われていましたので、ほぼ日本と同じほどに緑の多い省であり、市でした。もう灼熱の真夏なのですが、その緑や花に慰められ、力づけられたのです。ことのほか今夏は雨が多く、暑いとの便りがありました。

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