小さな愛

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 『私は、視覚に障害があります。平成十七年に、仕事を休職して視覚障害者リハビリテーション施設で、復職に向けた訓練を一年間受けて復帰しました。

 白杖を持ってバスでの通勤でした。中途障害の為、当初は不安でいっぱいでした。会社に着くと、ほっとして緊張がほぐれて、何もできない状態、という毎日でした。

 朝の通勤に使うバスには、和歌山大学附属小学校の児童が乗っています。ある朝、「おはようございます」というかわいい声が聞こえました。「バスが来ました」また声が聞こえました。そして、私の腰のあたりに温かい小さな手があたりました。そして、バスの入り口前まで誘導してくれて、「階段です」と言い、背中を入り口方向に押し出してくれました。座席に座っている子に向かって、「席に座らせてあげて」と言ってくれました。感動です。私は遠慮しながら、「いいの?」と言うと、「座って」と返事が返ってきました。そして三年が過ぎ、その子も中学生になりました。でも妹が、その手引きを引き継いでくれて、私をバスに乗せてくれています。バスを降りる時も同じです。バスを降りると歩道を歩く私の腰を小さな温かい手で押してくれて、点字ブロックの上まで誘導してくれます。私は、大きな声で「ありがとう。車に気を付けてね」と言っていつも頭を下げます。

 そして、彼女も小学校を卒業しました。でも毎朝、背中を押して誘導する彼女を見ていた周りの子供たちにこの作業は引き継がれています。今では、誰かが背中を押す誘導をしてくれています。

 温かい小さな手の小さな親切が、次々と受け継がれています。

 あれから十五年以上、私も退職まであと一年と半年、失明をした時は絶望のどん底でしたが、温かい手の小さな親切のリレーで、退職まで何とか頑張れそうです。

 この子供たちが私を通じて何かを知ってくれたかな、学校の勉強でない何かを学んでくれたかな、と毎日、通勤で温かい小さな手と共に感じております。

 誰かに教わるのではなく、誰かがはじめた親切、それを見ていた周りが、何も言わないのにやってくれる。なんてすばらしい国なんだ、と感じております。(山﨑 浩敬/和歌山県)

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 これは、「全国信用組合中央協会」が募集した、第11回「小さな助け合いの物語賞・しんくみ大賞」に入賞した作品です。聖書に次の様にあります。

 『あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。(マタイ253536節)」

 『すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。(マタイ2540節)』

 この世の小さく、弱く、忘れられ、捨てられた人たちに、《小さな愛》を示すことの祝福を言っています。社会の豊かさの反対側で、硬化して、不親切になって、愛が冷えていく中で、お願いされたのではなく、率先して愛を示せるというのは、素晴らしいことです。

目を細めて

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 この土曜日に、夕食がすんで、片付けをしていると、家内が散歩で出会ったご婦人が訪ねて来られました。菜園で取れたきゅうりとナスをお持ちくださったのです。玄関で話をしていて、『お茶を淹れますので ご一緒に!』とお誘いすると、上がってくださ ったのです。しばらく 談笑して帰っていかれました。

 日中の暑さが、夜分になってから、和らいだので、エアコンのスイッチを切って、四階の我が家の全ての窓を開けたのです。そこにご婦人がおいでになられたわけです。通り抜ける風が心地よかったのです。そうしましたら、その風に、懐かしい生温かな匂いがあって、『なんの匂いだろう?』と思い出そうとしました。 散歩の時にも、時々感じる匂いです。

 匂いも、光景も、音も、光も、過去につながる出会いや出来事と関係があるのかも知れません。それって《夏の宵の匂い》なのです。1964年の今頃になりますが、夏休みに入って、牛乳の需要が鰻登りに多くなるので、牛乳工場のアルバイトが募集されていました。明日の天気や気温の予報に応じて、夜間に、牛乳を製造するのです。製造工程はオートメーション作業ですが、木箱に詰められた〈5本×9列=45本〉を、翌朝の出庫のために、各ラインに割り振って積み上げて行く作業が必要だったのです。

 元気で力を持て余していた頃ですから、どのくらいの重さがあったのでしょうか、ヒョイと持ち上げて手作業で、14、5段に積み上げて、幾山も作っていくのです。瓶が割れない様に積み上げていくコツを飲み込むと、上手に放り上げて積み上げられる様になります。昼間の社員よりも上手に作業できる様になっていったのです。班長さんに褒められ、学生バイトさんたちは得意になっていました。

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 今では、1リットル紙パックが主流になって、ほとんど見られなくなったのですが、瓶に入った何種類もの牛乳やジュースが生産ラインから、ベルトコンベアーで、『ガチャガチャ!」と瓶の触れ合うのとコンベアーの回転音がし送られてくるのです。天井は高くありませんが、バスケットボールのコートが二面くらいの広さの冷蔵庫の中に、ベルトコンベアーが出庫口まで何筋もあって、そのコンベーアーの脇に積み上げていくのです。

 4年間、夏休みの間、やったアルバイトです。あの頃の夜間の控え室から出て冷蔵庫に行く間に嗅いだ、牛乳の匂いの混じった夏独特の生温かな匂いが、今夕、ふとしてきて、懐かしく思い出したのです。今時では、どうしているのか、その作業を見てみたい思いがしてきます。喉が渇いたら、どの牛乳でも飲んでいいと言われたら、そんなに飲めないものでした。

 あの会社の牛乳の味を覚えたからでしょうか、今でも、同じ会社の1リットルパックを、いつも買っています。あのアルバイトをした年の秋、10月1日に、オリンピック東京大会が行われたのです。57年前の夏の思い出です。東海道新幹線が開業し、帝国ホテルが、レストランを新幹線で初めて今空いた。その食材の搬入のアルバイトを、同級生が見つけてきてきてしていました。おいしい暑いハムをお腹いっぱい食べさせてもらい、時給も破格でした。

 思い出ばかりの夏、もう赤とんぼも飛び始めて、秋の気配が、酷暑の中にも感じ取られます。” TOKYO2020大会 “ 、若者の祭典を、私の弟は volunteer で、パラリンピック終了まで、もう孫たちの世代を、目を細めて世界中から参集している選手たちを支えているのでしょう。健康が守られます様に!

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収穫の朝に思う

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 『ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。(2サムエル211節)」

 『だれにも過去がある!』、二十年以上も経った今、過去が暴かれて、失脚してしまう怖さが話題になっています。芸能人が、過去に演じたコントで、芸能人を辞めて、社会的な責任を任されたいる小林賢太郎が、開会式を前にして、” TOKYO 2020 “ の Olympic show  director  を解任されてしまいました。

 この方は、テレビのお笑いコントで、「ユダヤ人大量殺戮」をネタに、10秒ほどの話をしたのが、1998年5月でした。必死にネタ作りをし、彼もその業界で生きていくために、聴衆の笑いを誘おうとした過去のことが、アメリカのユダ人権団体に、民族が被った悲劇を揶揄したと、取り上げられ糾弾されたわけです。人は、また国家や団体は、過去を引きずりながら生きているのですが、誤った「過去」は、どうしたら精算できるのでしょうか。

 本人には、弁解したり、謝罪したりする機会が与えられないのも、何か片手落ちなのではないでしょうか。あのコントを放映したテレビ局も、見て聞いて笑った人にも責任があるのでしょうか。杉原千畝により、transit visa を発行して、多くのユダヤ難民を死の収容所送りから守った行いと、この様な同民族の悲劇を笑いに変えた過去を相殺できないのでしょうか。

 ダビデの時代の飢饉が、前任者サウル王のギブオン人殺戮に原因していることを、神さまが示されました。ダビデはそれを知って、ギブオン人に〈何を償ったらよいか〉を聞きます。彼らは、サウルの類系の引き渡しを要求します。ダビデは5人を、ギブオンの手に渡しますと、ギブオン人は、その5人を処刑し、骨を野に晒すのです。そうしましたら、「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。」と記されてあります。

 3000年も前に起きた一件ですが、過去の罪に対する精算という古代の方法は、人の命の重さという観点からすると、今も同じです。神が「義」でいらっしゃるからです。ホロコーストの一件を、1985年5月8日、ドイツ連邦議会で、大統領ヴァインゼッカーが演説をした中で、次の様に語りました。

 『・・・戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的でほなく個人的なものであります。人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。』

 と同じ時代を生きた者に、加担した者に、さらに戦後に生まれた者にも、「自問」を促しました。そして、次に様に言って結んでいます。

 『・・・若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人、これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

自由を尊重しよう。平和のために尽力しよう。公正をよりどころにしよう。正義については内面の規範に従おう。今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しょうではありませんか。』

 『過去は変えられない。しかし自分と未来は変えられる!』、エリック・バーンが、そう言いました。私たちの手の内には、未来があります。過去の過ちは、値を払って告白し、悔いたらいいのです。だれもが過ちを犯した者の末裔だからです。歴史の厳粛さに学んでいく必要があるのでしょう。過去に拘り過ぎるのも、気をつけなければなりません。

 私は、中国のみなさんに対して負債を覚えながら生きていました。父が関わった軍需産業で製造された部品を搭載した、旧陸海軍の爆撃機や戦闘機が、多くの中国のみなさんの命を奪い、国土を荒廃させ、隣国の人々の心を傷つけたことに、父と、父の世代の所業をお詫びしたい償いの思いがあって、何ができるかを自問しながら過ごしていました。「福音宣教」こそが、一番だと示され、中国にt導かれたのです。

 そのために、私は若い時から仕えてきた教会の主は、門戸を開いてくださって、2006年に、中国に参りました。戦争が終わって60年も経ってのことでした。

 民族や国家が犯した罪は、時間が経つと霧散してしまうのではない様です。刈り取らなければならないものを残すのです。歴史を学ばずにいてはいけません。奪った命や尊厳に対して、責を負っているからです。

 『あなたに罪はありません。あなたの前の世代の、軍部がしたことですから、よいのです!』と、若い学生から年配者まで何人もの方に言われました。大学の教師のみなさんと四日ほど海浜の教会で交わりました。その集いの中で、お願いされた証の機会に、父の罪と日本の隣国侵略の罪をお詫びをしましたら、大きな感動と感謝がその集いの中にありました。みなさんに握手されて、若い頃から感じていた戦争の責を解かれた解放感を感じたのです。

 だれにも過去があり、神と人の前に犯した罪の事実が残されています。自分の民族国家にも、多大な過ちがあります。聖書は次の様に記しています。

 『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(ヨハネの手紙 第一1810節)』

 日本人の民度の高さや勤勉さや工業技術の高さを誇る様な、明るい部分にだけではなく、「暗部」を隠したり、葬ったりせずに、真正面に据えて、精算し、悔い、お詫びすべき責任があるに違いありません。そうでないと未来が見えないからです。そんなことを思う、猛暑の続く夏、ベランダのミニトマトを収穫した朝です。

 

Olympic

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 『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。 (イザヤ3021節)』

 父と母は、四人の男の子を産み育ててくれたのですが、戦時下、大将や博士になることなどを、私たちに願いませんでした。よく言っていたのは、『俺は金は残さない。教育だけは受けさせてやるから、後は自分で生きていけ!』と言っていました。今日、オリンピック大会の開会式が行われ、続いてパラリンピック大会も開催されようとしています。

 四人とも運動が好きで、運動能力も人並以上で、けっこう regular  position を任されて、色々とやったのです。でもオリンピックには誰も行けませんでした。『一人くらいは!』と、若い頃に野球をやっていたのでしょう、上手に catch ball を、私たちとてくれたことがあった父なのに、子どもには、そんな圧力をかけたり、高望みするようなことはなかったのです。

 上の兄は中距離の陸上、六大学のアメリカンフットボールの全国制覇時のスタメン、すぐ上の兄は野球で、東京で best 16 に終わり、弟は登山、少林寺拳法、アイス・ホッケーをやって、母校で体育教師をしていて、講道館柔道の高段者だったのに、オリンピックとはなんの関わりもありませんでした。

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 今思うと、オリンピック競技を選ぼうと思わなかったのは、無欲だったからでしょうか。それとも、運動は、好きでやるのであって、オリンピックでの名誉など考えもしませんでした。自分は、中学でバスケット、高校でハンド、大学運動部にも誘われましたが、中年になって硬式テニスを始めました。何をやっても中途半端でした。

 今は、優勝請け負い人や、プロの個人coachにつき、外国にも出掛けて行き、著名コーチに指導を仰ぐのです。そうやって日本制覇、世界制覇を目指す時代になっています。有名大学だって、子どもの頃から、著名予備校に通い、お金をかけて一歩一歩駆け上がって行かなければ、普通の子は突破できない時代だと聞きました。家内も私も、四人の子の養育にあたって、彼らの耳の後ろから、生きる指示をすることはしませんでした。何を選び、どう生きていくかは、自分で決めていく様に願っただけです。

 実際、私たちを導いたのは、「これが道だ。これに歩め」と言われる、主なる神の声に従うことでした。robot になることではありません。正しい価値観や人生観や死生観に立って、義を愛し、神と人を愛し、弱者とともに生きていく道に行くことでした。今日は、オリンピックの開会式が行われ、競技の火蓋が切って落とされようとしています。コロナ禍、みなさんの無事を祈ります。

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 「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある 私は心の中で言った。神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。(伝道者の書378節、17節)」

 落語の話だったと思いますが、『一昨日(おととい)来やがれ!』と言っていました。二度と来て欲しくない嫌いな相手への罵声で、明日や明後日だと来てしまうので、過ぎ去ってしまった「一昨日」と言うのでしょう。また、見当違いのことを、『明後日(あさって)!』と言ったりします。この様に、「日」や「時」に関する諺が、結構多くあります。

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「明日の事を言えば鬼が笑う」

 先のことはわからない。未来のことは予測できないというたとえ。きっと明日が分かったら、怖くて生きていけませんし、逆に嬉しくて、手にものがつかなくなってしまいます。もしかしたら天井のネズミが笑うのかも知れません。

 「一日千秋の思い」

 三週にあげず、蓬餅が身体にいいと持参して、母の病状を尋ね、激励のために、次男が親元にやって来たのです。元気になってきた今、コロナ禍の今でもあるので、週末に近づくと、家内と私は、『来るかなあ?』と思ってしまいます。待ち焦がれて、一日が千年もの長さに感じられることを言うのだそうです。

「昨日の今日」

 あまり時間が経っていないことのたとえ。その出来事があってからまだ一日しか経っていない今日との意からそう言います。いい意味で、時の過ぎゆくのを、そう感じたいものです。

「昨日は嫁、今日は姑」

 時の流れが非常に早く、人の境遇も変わりやすいということの意味。思ってもみなかった病を得て、身動きのできない今を迎えても、移り変わりのこの世にいることを、恨まないで感謝できるのは素晴らしいことと感じて生きています。嫁に行った娘たちが、四十代の今を迎えているのに、当然でありながら、『もう!』と思う親心です。

「今日の一針、明日の十針」

 すぐにしなければならないことを先延ばしすると、余計に手間がかかるということのたとえ。今日なら一針縫えば済むのに、明日に延ばせばほころびが広がり、十針も縫わなければならなくなるという意から。私の母は、〈明日伸ばし〉をしない人でしたし、人任せや人頼りしないで生きた人でした。今日の一針に生きたのです。

「紺屋の明後日(こうやのあさって)」

 約束の期限があてにならないことのたとえ。「紺屋」は染物屋のことで、もとは「こんや」とも言いました。染物屋の仕事は天気に左右されるので、出来上がりが遅れがちでいつも『明後日には出来上がります!』と言い訳していたのでしょう。

「千日の旱魃、一日の洪水」

 ドイツや中国でも、大雨と洪水の被害のニュースが伝えられています。千日も続く日照りと、たった一日ですべてを流してしまう洪水とは、同じくらいの被害をもたらすということ。水害の恐ろしさをいった言葉。近年、それを実感しています。どなたも、これからの台風の季節の到来を心配して、空を見上げています。

「山中暦日なし」

 山の中で俗世間を離れて暮らしていると、月日の経つのも忘れるということ。「暦日」は、月日の意。退職し、帰国し、家内が闘病して通院が続いて、北関東に住み着いていますが、6週に一度の通院日を中心に日が過ぎて行き、日を迎えています。『今日はなん曜日?』の感覚が薄くなってしまい、「ゴミ出し日」が注目曜日になってしまっているのがおかしいのです。

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「十日の菊、六日の菖蒲」

 誕生日を忘れられて、数日経ってから、『おめでとう!』では喜びが薄れてしまうことがありました。時期に遅れて役に立たないもののたとえ。 9月9日の「重陽の節句」に用いる菊は、9月10日では遅く、5月5日の「端午の節句」に用いる菖蒲は、5月6日では間に合わないとの意から。後手になることなのでしょう。

「三日見ぬ間の桜」

 綺麗だったオードリー・ヘップバーンの晩年の写真を見て驚きました。そんなに年月が経ったのかと思ったのです。世間の移り変わりが激しいことを、桜の花があっという間に散ってしまうことに掛けて言った言葉。 もとは江戸時代の俳人、大島蓼太の句「世の中は三日見ぬ間に桜かな(三日外出しなかったら桜の花が咲きそろっている)」から。自分のことはさておき、突然、友人たちの今を見たら、その変化に驚くのでしょうか。

「猫は三年の恩を三日で忘れる」

 猫は三年飼われても、飼い主への恩を三日で忘れてしまうくらい薄情な動物だということ。で人間はと言うと、どうでしょうか。〈ただ飯〉を知っている青年が、わが家に出入りしていました。アメリカ人宣教師に手厚くもてなされて、私たちの所に、夕食になると来たのです。豊かでないわが家の食卓に着いて、『今日はこれだけ?』と言ったことがありました。いつの間にか来なくなり、噂で結婚したと聞きました。ある方は、月一の営業で、わが家に顔を出し、食事でもてなしたことが何度もありました。『結婚しました!』と言って、愛くるしい女性を連れてきて、紹介してくれたのです。退職して鹿児島に帰ると言って、別れの挨拶に来ました。人様々です。

「花七日」

 盛りの時期の短いことのたとえ。桜の花の盛りが七日しかない意から。150円で、カインズで家内が買って来て、時期が来て植えた苗が、見事な花を咲かせたのが、” Samantha “ でした。普通の白いユリだとばかり思っていたのが、八重に咲いて驚いてしまいました。でも咲き始めてから五日ほどで容色が衰えていきました。花の命の短さに、今更ため息をついてしまったのです。でも潔くパッと咲いて、パラリと散ったのは見事でした。

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草を食む

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 「わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。 (エゼキエル14節)」

 高二で、卒業後の進路を考え始めていた時、〈三択〉の選択肢がありました。一つは、兄たちが選んだ様に「大学進学」でした。運動部推薦で行くか、一般入試で行くかの可能性もありました。二つは、「自衛隊」に入隊を考えたのです。防衛大学も含めてでした。もう一つは、「移民」でした。日本の社会から、飛び出したかったのです。アルゼンチン協会が都内にあって、そこから案内を取り寄せて、スペイン語の勉強も始めていました。

 南半球への憧れ、『南十字星を見上げて観たい!』との思いが強烈にあったのです。首都のブエノスアイレスから、パンパ草原を西に行きますと、「Mendozaメンドサ」と言うアンデス山麓の中にある街がありました。私の生まれ故郷に似た、葡萄の名産地でした。向こう側はチリなのです。その訪問の折、行きたかったのですが、別行動はできませんでした。

 その願いを増幅させたのが、1962年(昭和37年)に歌われていた「遠くへいきたい」でした。永六輔の作詞、中村八大の作曲でした。単純な私は、その歌詞に誘われて、赤道の南側の国の街に憧れたのです。

知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい

知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か幸せを

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きた

 移民は夢幻の如くに儚く消えて行きましたが、子どもたちが、育ち上がる頃に、ブエノスアイレス訪問の旅に出掛けたのです。街中で花屋やクリーニングを営む沖縄出身の方の家に、食事に招かれました。また広大なパンパと呼ばれる草原で、ガウチョという牧童が世話をする牛の牧場を眺めたのです。「アサード(asado)」と言われる焼肉料理をいただきました。野性味のある調理法で、牧童たちが好んで食べたのだそうです。

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 そこはイタリヤ系移民が多い国で、アルゼンチン・タンゴで有名な港町は、その移民たちがたどり着いた波止場でした。もの寂しい雰囲気がし、原色で塗られた家々の壁が印象的でした。18で移民していたら、花屋かクリーニング屋にでもなっていたでしょうか。そんなことを思いながらの一週間ほどの訪問でした。メンドサには行けませんでしたが、パンパ平原をバスで何時間も何時間も走った街を訪問しました。

 「聖書」の舞台である、中近東のイスラエルでの牧羊業は、アルゼンチンの牧牛とは違っています。ガウチョが追い立てる牛とは違って、羊は、一人の牧者が先導しています。その牧者への従順が羊の群れを安全に保つのです。栄養価の高い牧草ときれいな飲水に導かれる羊は、安定して生育するのだそうです。

 「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。 23節)」

 羊を養うと言う使命を持たれる、神の御子イエスこそが、私たちの牧者、羊飼いだと聖書は言います。父が稼いできたお金で、母が衣食住の必要を満たして、私たち兄弟四人は養われ、家内と私も、同じ様に四人の子を育てました。そして健康を守り、行く道を導いてくださったのは、このイエスさまだったのが分かるのです。羊飼いの手に、杖と鞭があるのだそうです。杖は危険からの救出を、鞭は規律と群れを裁くのに用いるのだそうです。

 平穏な老境に至って、衣食住が備えられ、子や孫や友、兄弟がいて、互いを思い合い、問い掛け合いながら、今に満足して生きておられるのです。まさに満ち足りて草を食(は)む心境です。

楚々と

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 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。(ヨハネの黙示録411節)」

 一昨日、このアパートの西の端の木から、蝉の鳴き声がしてきました。嵐の中では沈黙を守っていましたが、梅雨が明けようとしてるのを知っている蝉は、それでも遠慮がちに鳴いていたのです。蝉、川泳ぎ、ボンボン、スイカ、もう夏休みになるのでしょうか。

 泳いだり、遊んだり、食べたりしたのですが、暑苦しい蝉の鳴き声は、耳の底に残っていて、それと今の鳴き声と重なって聞こえてくるのですから不思議でたまりません。暑かろうが寒かろうが、咳をし出すと、数日から一週間は布団の中でした。母に家に閉じ籠らされて、泳ぎどころではありませんでした。

 みんなが遊んでるのに、一緒に遊べない苦痛は、病弱だった私には極めて大きかったのです。兄たちは学校、弟は幼稚園に行ってるのに、私はラジオが友達でした。今、毎日昼には、NEWSの後に、「ひるのいこい」を聞いています。各地の農林水産委員という方たちから報告を、母の作ってくれた昼ごはんを食べながら聞いて、そこは日本のどこなのかを確かめたのです。
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夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬(おぜ) 遠い空
霧のなかに うかびくる
やさしい影 野の小径(こみち)
水芭蕉(みずばしょう)の花が 咲いている
夢見て咲いている水のほとり
石楠花(しゃくなげ)色に たそがれる
はるかな尾瀬 遠い空

夏がくれば 思い出す
はるかな尾瀬 野の旅よ
花のなかに そよそよと
ゆれゆれる 浮き島よ
水芭蕉の花が 匂っている
夢みて匂っている水のほとり
まなこつぶれば なつかしい
はるかな尾瀬 遠い空

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 日光中禅寺湖の湖畔から、日光白根山が見え、その山の向こうには尾瀬の湿原があるのです。「水芭蕉の里」です。行かずじまいでおりますが、来年こそはと、この水芭蕉もニッコウキスゲモも見に行って見たい思いがしています。「ニッコウキスゲ」ももう盛りが過ぎてしまいましたが、日光の霧降高原は生育地なのだそうです。

 人の手が入らない天然自然の美は、創造の世界です。整然として、法則通りにあって、人が、それを喜び楽しむ様にお造りになられています。ベランダの朝顔でさえ、ゴージャスなユリの一種のサマンサに、何一つ劣ることなく、美を讃えて、今を盛りと楚々と咲いています。
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すもも

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  「風土記」が残されています。これは、713年(和銅/げんめい六年、元明天皇の時代)、国ごとに編さんされた地誌(郷土のレポート)で、地名の起源・由来、産物、土地 、肥沃度、古老の伝承などを国庁でまとめ、平城京() の太政官に報告した資料だったそうです。当時日本には、六十ほどの国があり、その「風土記」は、五つの国の写本が残されていて、完全な形で残っているのは、「出雲国風土記」だけだそうです。

 中国の統治制度虹真似て国を支配するために、土地土地の特徴を知る必要があった様です。「租庸調(そようちょう)」といった税の徴収が目的だったのでしょう。 その他には、「常陸(茨城県)・播磨(兵庫県)、豊後(大分県)、肥前(長崎県と佐賀県)の一部が残されてあるそうです。

 『出雲国風土記』(いずものくにふどき)の記述の中に、その地の山野にある木について次に様なものがあったそうです。母の生まれ故郷ですから、千数百年前は、どんな風だったか興味があります。

 卑解(ところ)、百部根(ほとづら)、女委(えみくさ)、夜干(からすおうぎ)、商陸(いおすき)、独活(うど)、葛根(くずのね)、薇(わらび)、藤(ふじ)、李(すもも)など。

また、「鳥獣」は、次の様なものがいたそうです。

 晨風(はやぶさ)、鳩(はと)、山鶏(やまどり)、鵠(くぐい)、鶫(つぐみ)、猪(い)、鹿(しか)、狼(おおかみ)、兎(うさぎ)、狐(きつね)、獼猴(さる)、飛鼯(むささび)など。

 何だか分からない記述ですが、生物や動物に詳しい方がいて、それに名を付けたのでしょう。地方地方によって呼び方が違っていたのを、全国区でまとめられたのではないでしょうか。よく小生には北限とか南限とか言いますから、全国的な調査は意味があったかも知れません。現在、その全部が残されていたら、日本全土の植生などが分か理、現代との比較ができたことでしょうから、残されていないのは残念です。

 昨日果物屋で、地元の農家の出品の「すもも」を買ってきて食べました。甘くなくて酸っぱくて、甘いものばかりの果物の中で、出雲国で採れて、食べられていた様な、原初的な味覚を楽しみました。きっと、ここ下野国でも元明以前から食べられてきたことでしょう。

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