そんな” precious “ な自分を

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 『兄貴にそっくりだなあ!』、私たちの体育の授業を見ていた二級上で、ハンドボール部のインターハイ優勝チームのレギュラーの先輩が、そう言ったことがありました。立教大学に進学していった方で、頭も良く、運動もこなしていた主将だったのです。高等部に進学した頃に、《運動神経が良い》と言う意味で、そう言ってくれたようです。上の兄も、運動部で活躍していました、

 すぐ上の兄は、同じ学校の高等部に進学し、自分は中等部に、同じ年に入学し、兄は野球部に、自分はバスケットボール部に入ったのです。兄は、甲子園を目指していたチームのレギュラーでした。3年の夏の甲子園大会の東京都の予選で、代表になったのは、日大二高でした。その年の甲子園の覇者は、西条高校(北四国代表の愛媛県)だったでしょうか。

 兄たちの学年は、ベスト16で敗退し、甲子園行きは果たせませんでした。当時、プロ野球で活躍していたのは、「球界の紳士」と言われた巨人の藤田元司投手、新人王をとった大洋ホエールズの桑田武でした。

 自分は、進学した学校で、最も練習の厳しいハンドボールに入部したのです。センターフォワードでした。けっこう兄たちに似て、彼らの運動神経を受け継いでいたのかも知れません。ところが、母が、ダンプカーの車輪のボルトで、両足に大怪我を負って、11ヶ月もの間、入院生活をすることになったのです。上の兄は静岡の会社で働いていて留守、すぐ上の兄も千葉の会社で働きながら、大学で学んでいたのです。家は、父と弟と私でした。父が家事をしてくれていて、家に私がいて、父に全部を任せるわけにはいきませんでした。

 インターハイにも国体にも、東京代表で出場し、全国制覇に貢献したかったのですが、休部せざるを得なかったのです。涙を飲んで、そうしたのです。その年、都立隅田川高校が優勝し、わが校は準優勝で終わったのです。インターハイも国体も、優勝候補だったのに駄目でした。その断念は、辛かったのですが、両足切断の危機を何度も超えながら、治療を受け続けている母の世話をし、家の留守を守る父を見ての決断でした。父は、会社経営をしていたので、仕事を任せて、家事をする自由はあったのですが、私の断念、決断だったのです。

 それはよかったのでしょう。高校運動界の覇者になるよりは、父や母を助けられたのは、よかったのだと思うのです。それでも後になって、高校の教師になり、そこでハンドボール部を作って、全国大会に出られるチーム作りの願いもありましたが、信仰を回復した私は、宣教師の招きで献身し、伝道者にさせていただく願いが与えられ、依願退職をしたのです。

 それ以前に、伝道者として、日本では勢いのよい働きをして名をなしていた方が、母の教会に来られました。男らしく日本的 で、successful な牧師だったのです。彼の後について行こうかなと思ったほどでした。スポーツ選手として願いを果たせずに、断念し、挫折者のような自分は、それを挽回したい願いが強いのでしょう。field は違えども、伝道者の道で成功者となりたいと言う願いがあったのだろうと思います。でも、主は、それを許しませんでした。

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 ちょっと先輩な、また同輩の牧師たちとの出会いがありました。みなさん成功願望で野心的でした。彼らと切磋琢磨して、成功街道を切り拓いていくような誘惑の機会、交流があったのですが、その交わりへの参加も、主は許さなかったと思います。

 その世界で、有名な伝道者になりたい願いを、また挫かれたのです。日本精神や野心や成功願望は、挫折体験の背後に潜んでいるものなのでしょうか。成功よりも、内側に潜むものを取り扱われる必要があったようです。そして、成功願望者が陥りやすい、金銭的誘惑、成功への誘惑、名を成したいとの願い、異性の誘惑に陥ることのないような勧めが、やってくる説教者は異口同音に語って迫ることが、若い頃には何度もありました。

 ただ忠実な僕であることを、主は私に願ったのです。母教会にやって来たニューヨークの聖書学校の教師が、私の頭の上に、手を置いて祈ってくださった時に、聖霊のバプテスマを受けたのです。それは一生を変える、人生計画を覆してしまう出来事でした。きっと、あのエジプトで、パロの娘の子として拾われ、育てられたモーセが望んでいた、

 『信仰に由りてモーセは人と成りしときパロの女の子と稱へらるるを否み、  罪のはかなき歡樂を受けんよりは、寧ろ神の民とともに苦しまんことを善しとし、  キリストに因る謗はエジプトの財寶にまさる大なる富と思へり、これ報を望めばなり。(文語訳聖書 ヘブル書112426節)

 あのモーセの経験を思い起こさせるような、この世の栄誉、冨、成功ではない、義への渇望、永遠への憧れ、品性の向上、同胞や隣人の救い、主を求めることの願いを、モーセーのように、二十代の悶々としていた私の思いの中に、主が入れてくださったのです。

 この世の富、名誉、成功以上のもののあることを分からされたからなのです。あれは異言を語るペンテコステ体験だけの出来事ではなく、自分の実態に気付かせ、赦しを確かにさせられ、十字架を理解させ、イエスさまをもっと知りたいとの願いを起こさせ、永遠のいのちへの憧れ、献身の願いを起こさせ、自分により頼むことをやめさせた画期的な体験だったのです。

 五十数年経った今、さまざまなことが、すべて益であったのだということが分かります。今は、史上驚くほどの価値で測られる選手たちの繰り広げる “ MLB “ の祭典が、始まろうとしています。でも、主が測られる価値には、次のようにあります。

“Since thou wast precious in my sight, thou hast been honourable, and I have loved thee: therefore will I give men for thee, and people for thy life.”(KJ訳 イザヤ43:4)

 「あなたは高価で尊い」と、主なる神さまが、今でも言ってくださっているのです。こんな自分を、” precious “ だと言ってくださる主に、ただ感謝したいだけの、春の陽のさす窓辺の私です。

(Christian clip arts によるパウロのイラストです) 

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この五年の記

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 2018年、華南の街のお借りしていた家で、家内の体の具合悪くなったのです。隣街にあった養老院に、牧師子女で長く医者をされてきた老姉妹、そのお父さんが、旅人や貧しい隣人たちに宿や食事を提供していたのを見て育った老クリスチャンでした。同じような信仰的な背景のみなさんを訪問し、交わりをして、帰宅した後でした。ちょうど教会の降誕節が終わったた直後だったのです。

 ちょうど訪ねてくださった姉妹が、家内を見て、『すぐ病院に行きましょう!』と、数年前に、家の近くに開院した、省立病院の別院に、車で連れて行ってくださったのです。しばらく待って診察していただき、担当医師が、『精度の良いMRIが本院にありますから、そちらに行って撮ってもらってください。』と言われ、20191月元旦に、本院に行ったのです。

 そこでMRIをしていただいて、その結果を診た医師が、即入院という診断をしてくれました。緊急を要したのでしょう、家内は、それに従ったのです。一週間経って、主治医に私が呼ばれて、診断結果を話してくれ、『重大な病ですから、直ぐに日本に帰国して、大学病院で診てもらい治療されたらよいでしょう!』と告げられたのです。

 直ぐに飛行機のチケットを予約し、翌朝、入院先から直接、飛行場に、その姉妹に連れて行ってもらったのです。もちろん、旅行用のスーツケースには必要な物を入れて、帰国準備はしてでした。伝道師さんたちとその他の兄弟姉妹がたくさん見送りに来てくださったのです。

 その姉妹が、チケットをビジネス席に換えてくださり、搭乗前の空港付医師の診察を受けましたら、「搭乗不可」を言われたのです。仕方なく家に戻って、翌日の便を予約していただきました。家内にとっては、家に戻って、必要な物を、自分で選ぶことができたのは幸いだったのです。一番は自分のベッドで眠ることができたことでした。

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 慌ただしく翌早朝、空港で診察を受けると、搭乗許可が出たではありませんか。あちらこちらと、みなさんが手を回して下さっていた結果だったかも知れません。大勢の見送りの兄弟姉妹が、また来ておられて、挨拶を交わして搭乗したのです。みなさんは、家内と泣き別れでした。彼らは、家内の病状を告げられていたからで、二度と会えないと思って泣いていたようです。知らなかったのは家内だけでした。

 成田には、長男が迎えに来てくれていて、栃木の友人のご両親が住んでおられていて、空き家になっている家に連れて行ってもらったのです。二日後に、獨協医科大学病院に、省立病院の紹介状を持って診察をお願いしましたら、総合診察科での診察の結果、即入院ということで、呼吸器アレルギー科病棟に入院になりました。入院中、この家を貸しくださったご夫妻の助けは溢れるほどでした。

 診断結果は、第四期の肺がんでした。余命半年とのことで、治療が始まり、保険扱いになったばかりの免疫力を強める新薬の「キイトルーダー」の投与が始まったのです。病院では、放射線治療を勧めてくれたのですが、子どもたちも家内も、放射線治療は希望しないむね、何度か持たれた主治医との面談で、主治医に伝えてありました。食べられず、毎日採血の連続で、家内は弱くなっていく一方でした。ついに頸部から栄養剤を注入する手術をしたり、体中が管で繋がれていたのです。

 子どもたちに、母親の病状や余命のことを伝えましたら、直ぐに、4人が家族を連れて駆け付けてくれました。ちょうどインフルエンザの大流行の時でしたが、一人のN看護師さんのご好意で、特例の面会が許されたのです。この方は、微に入り細にわたり、懇切に看護して下さっり、家内の慰めと励ましをしてくださったのです。『今夜が峠!』と言われる中、じょじょに回復をみせ、管の一本一本が外されて行ったではありませんか。家内は快方に向かい、家内が歩いてトイレに行く様子を見かけた看護師さんが、『アッ、歩いてる!!!』と驚き喜んでくれたそうで、もち直したのです。それで4ヶ月後に退院の運びとなったのです。

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 その年の暮れには、また子どもたち家族が、再び全員で集まることができ、たっての家内の願いの「家族写真」を、近くの写真館で撮り、日光のオリーブの里に一泊し、日曜日でしたので、集会場をお借りして、家族で礼拝を持つことができ、家内は、大喜びでした。

 『お母さん、世界中でお母さんのために祈っているよ!』と、子どもたちが言い、友人知人、主にある兄弟姉妹、家内の姉妹たち、私の兄弟たちからの祷援があったのです。県北の教会に牧師夫妻も、熊本の友人夫妻の教会の朝の祈祷会でも、祈りの手を上げていてくださると言ってくださっていたのです。華南の街で出会って、今は帰国されている日系企業マンの奥さまが、加賀や日田などの銘菓を送って激励してださったり、激励の便りをくださるみなさんがおいでです。

 家族にも勝るとも劣らない愛で支え続けてくださっている中国の教会のみなさんの愛と犠牲は、実に大きいのです。何組も何組も、わざわざお見舞いに来てくれました。漢方薬や健康回復の食べ物、教会の愛兄姉の愛を運んでくれたのです。昨年の暮れにも、おいでくださったのです。『あなたたちは「一家人(家族)」だから!』だと言ってです。

 家内の現実の病状を見るにつけ、信じられないほどの回復に、ただ主を認めることができたのです。それでも、一喜一憂、強い薬の投与の連続でしたから、体への損傷や副作用は大きいのです。あのキイトルーダーの投与の後遺症が現れて、身体に発疹が出たり、激しい痒みがあったり、なかなか太れない状況にあります。それで時々、シャワー時に、泣くこともあったようですが、家内は弱音を吐かず、主に信頼しての病との対決姿勢は素晴らしいと思っています。

 自分のことだけしか見えていないのではなく、ラジオ体操に出かけられるようになって、散歩もでき、駅のコンコースの街中ピアノを弾きに出かけられるようになってきています。この街に、主をあがめる賛美で満たしたいのだそうです。近所のみなさんやデーケアー仲間、そして近所のみなさん、訪ねてくださるみなさんへの思いを忘れていないのです。『あの人、どうしてるかしら?』と思うこと仕切りです。亡くなられた方のご家族や、弱くなったり、入院したりしているみなさんへの思いも強いのです。

 まだ、不安材料は溢れていますが、主への期待だけは満ち続けています。それでも、時々、『そろそろかなあ?』との思いがやってくるのです。病まなければ、その当事者の闘いの厳しさは分かりません。死と対峙しながら、もちろん誰もが、そういったところにあるのですが、今は、漢方医でもある、県の病院の医師に、漢方治療を受け始めています。総合的な診察をしてきださり、ことばによる激励もあって、感謝でいっぱいです。

 この医師は、「メディカル・カフェ in 宇都宮」と言う、癌と戦う患者さんと、医療従事者、ボランティア、家族の交流会にもやって来てくださっている方なのです。何よりも、『我はエホバ、汝を癒す者!』とおっしゃる主がいらっしゃるのです。その同じ信仰を持つみなさんからの応援を肌に感じながら、春の到来を待ち望んでいる今であります。創造主や多くの兄弟姉妹、友人たち、家族に感謝の五年の毎日です。

(華南の家の庭に咲いていた花、今咲く胡蝶蘭、宇都宮のおりおん通りです)

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香り立つ珈琲を

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 コーヒーが、まだ漢字混じりのアジア風の香りのする「珈琲」の時代から飲み始めて、ずいぶんになります。初めて喫茶店という店に入って飲んだ珈琲は、ただ苦いだけでした。香りも、それほど気持ちを落ち著かせてくれるような芳香ではなかったのです。

 いつでしたか、宣教師さんと一緒に珈琲店に入った時に、この方は、白湯を一杯もらって、珈琲をそれで割って飲んでいたのです。American の飲み手で、日本の珈琲店のものは濃過ぎたようです。高級種のBlue mountain を、この方の唯一のこだわりにしておいででした。

 華南の街にも、珈琲店ができ始めていく中で、時々、スターバックスに入ったことがありました。「星巴克(xīng bā kè )」と看板が出ていて、木造建築で、とても雰囲気があって、居心地が満点な空間でした。

 その店で、主だった客層は、アメリカや日本と同じで、学生さんたちでした。テーブルにパソコンを置き、あのアメリカの大学街のスタバと同じスタイルで、居心地よさそうに過ごしているのです。アメリカ文化の象徴といった風景でした。

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 この数年、時々行くのが、名古屋発のコメダです。通院日に、好數値の出た時に、《ご褒美コーヒー》をしたくなって行くことが時々あります。珈琲を飲み始めた頃には、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいました。もちろんインスタントコーヒーでしたが、やはりコーヒーは、豆をミルで粉砕したものが最良で、それを無糖でミルクなしの straight で飲むのが美味しいことを知って以来そのままです。

 このコーヒーですが、飲むことを勧める論と、コーヒー毒論の二論があって、論陣張って闘わせているのです。身体的な健康と精神的な健康の健康論からの論戦です。どちらに軍配をあげたらいいのか、右と左に振られてしまうのですが。最近、お昼には、ミルク割りの家内と一緒に飲むようにしており、美味しそうです。

 何事も、「過ぎたるは及ばざるが如し」で、一杯のコーヒーで満足でいられるのです。父の世代の歌でしょうか、1939年(昭和14年)の春に、「一杯のコーヒーから(作詞が藤浦洸、作曲が服部良一)」が歌われていました。日中戦爭が始まって1年半ほどの頃です。

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一杯のコーヒーから
夢の花咲くこともある
街のテラスの夕暮に
二人の胸の燈し火が
チラリホラリと つきました

一杯のコーヒーから
モカの姫君 ジャバ娘
唄は南のセレナーデ
貴女と二人 ほがらかに
肩を並べて 唄いましょう

一杯のコーヒーから
夢はほのかに 香ります
赤い模様の アラベスク
あそこの窓の カーテンが
ゆらりゆらりと ゆれてます

一杯のコーヒーから
小鳥さえずる 春も來る
今宵二人の ほろにがさ
角砂糖二つ入れましょうか
月の出ぬ間に 冷えぬ間に

 こんな歌が流行ったのには、驚かされますが、やがて戦争の泥沼にはまり込み、もう引き返すことができないまま、太平洋戦爭が始まり、敗戦を迎えるのです。今では街中にではなく、郊外に小じんまりした店があって、ノンビリできるのもいいようです。

 先週は、お隣の佐野まで、「ふれあいバス」で出かけ、スタバではありませんでしたが、素敵な香りの立つcafe を飲んだのです。十數年ぶりに、この店に入りました。けっこう美味しい一杯で、まだ国內は平和で、コーヒーを楽しむことができました。そんな空間で、ゆったりと過ごせることが長く続くようにと願う春めいた二月の一日だったのです。

(ウイキペディアによる珈琲、華南のスタバ、ウガンダの有機コーヒーです)

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イギリスに学ぶ

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 イギリスと言うよりは、大英帝国というべきなのでしょうか、それほど歴史と格のある国家と言えるでしょうか。でもアジアやアフリカなどの国々を植民地化するような横暴な支配を行った歴史もありますから、手放して格付けするのも問題は残りそうです。

 日本が、封建国家から脱却して、近代国家となっていく過程で、その模範としたのが、この大英帝国でした。長州藩士の志道聞多(のちの井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)、野村弥吉(のちの井上勝)の五人が、洋行留学(密航してイギリスに留学)をしたのです。「長州五傑」と言われる面々でした。1863年、明治維新の5年ほど前のことでした。同じ時期に、薩摩藩は、19名の留学生がイギリスに密航しています。アメリカではなかったのです。

 ところが、四カ国連合(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)が、長州藩の下関を砲撃する事件、「馬関戦争」が勃発してしまいます。それを聞くと、井上と伊藤は、危険を冒して帰国をします。その井上は、後の三人には残って、学びを続けるように命じるのです。

 残った山尾は造船業を学び、明治維新政府の殖産興業の要職に就き、野村は鉄道を学びました。野村はのちに「井上勝」と名乗るのですが、「日本鉄道の父」と呼ばれるほどの活躍をしています。また遠藤は大蔵省に出仕し、貨幣制度を研究して、「日本造幣の父」と呼ばれるに至ります。あの大阪造幣局の桜の通り抜けは、実は遠藤が発案なのです。伊藤は「日本内閣の父」、井上は「日本外交の父」ということで、5人とも、維新後に新政府の要職に就くのです。明治元年の1868年に帰朝しています。

 少なくとも、明治維新後の日本が、欧米に遅れをとっていたものを取り返していくために、この五人は留学したこと、ロンドンでの学びは意味深いものがあったことになります。明治初期に、イギリスの影響を強く受けたことは、意味深いものがあったことになります。

 いつでしたか、journalist で、tourist writer の兼高かおる女史が、TBSのテレビ番組の「兼高かおる世界旅行」で、30年以上も世界中を訪ね歩いて、つぶさに見聞した方でした。その仕事を終えた時に、次のようなことを、兼高かおるさんは言っているのを聞いたのです。『もう一度、ここぞという思いで訪ねたい国はどこですか?』と聞かれて、この方は、『イギリスを訪ねてみたい!』と言っておいででした。

 それが若い私には、印象深かったのです。政治家や学者ではなく、journalist の目で見た世界で、強烈な印象を残した国という点で、私も、イギリスを訪ねてみたい思いにされたのです。イギリス人には、蒸気機関車のスチーブンソンがいて、ブラウニングという詩人がいて、アフリカ大陸を宣教し探検したリビングストンがいます。彼らは、その生涯を終えて、ロンドンの Westminster Abbey(ウエストミンスター寺院)に葬られています。

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 また、“Never,never,never give up 、ナチス・ドイツの猛攻の前に、母校の後輩たちに向かって、そう言ったのが、ウインストン・チャーチルでした。悪の枢軸に屈することのない、不屈の思いを持って、イギリス国民を鼓舞した首相のことばは、実に重いものがありました。

 この有名な言葉は、19411029日、チャーチルが学んだ母校であった、ハーロー校(Harrow School)で行った演説で語ったものでした。同窓の後輩たちに向かっての演説でした。戦時下のイギリスの真っただ中で、対ドイツとの戦いは余談を許しませんでした。そんな時局に、チャーチルは、自分の心の内にあった確かな信念と強い意志を、後輩たちに告げたのです。

 多分、この地上でなされて、数限りない演説の中で、最も強烈で、強く人々に迫ったことばの一つと言えるでしょうか。このことばは、戦争という国家的危機状況の中で、政治を任された責任者としての、強固な決意が込められていたのです。映えある大英帝国が、どんなに困難な状況に立たされても、決して絶望しないでいること、最後まで戦い続ける決意を鼓舞したのです。それは、イギリス国民に、希望と勇気を与えたのです。

 チャーチルは、戦争の終わった後も、イギリス国民を導いた政治家でありました。1965124日(日曜日)彼はその、90年の生涯を終えています。130日に、「国葬」が営まれ、棺は、「聖マーティン教会( Church Street, Bladon, Woodstock, Oxfordshire, England )」に運ばれ、両親の葬られた同じ墓地に葬られています。ちなみに、時の日本の岸信介首相(長州閥の流れを汲む人でした)も、葬儀に臨席しています。人間は、棺に覆われて、その生涯の全てが評価されるのでしょう。

 「和魂洋才」と言う、不思議な slogan の下に、日本の国作りが行われていくのですが、お隣の群馬県は、養蚕業のメッカで、絹糸の生産の牽引車であった「富岡製糸場」があったことで有名です。わが家に、時々訪ねてくださるご婦人の写真が、この富岡製糸場の記念館に張り出しあてあると言っておられました。実家でも養蚕をされていて、ご自分は、製糸場で働かれたのだそうです。この製糸業は、フランスに学んでいるようです。輸出で得た資金で、日本は国作りをし、工業化と軍国化をしていったわけです。

(ウイキペディアによるスチーブンソンの蒸気機関車、チャーチルの学んだハロー校です)

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よっちゃばれ

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 『こころよき言は蜂蜜のごとくにして 霊魂に甘く骨に良薬となる。(文語訳聖書 箴言1624節)』

 私が生まれた街、当時は、郡部で山の中の村でした。後に合併によって大都市の一部になった村なのです。その地域には、方言があって、独特な言い回しがありました。家の中では、標準語でしたし、自分は病弱で外で遊ぶことが少なかったのですが、それでも方言が、今でも、ひょっとすると出てくるのです。

 その方言の中に、「よっちゃばれ」と言う言葉があります。人が集まること、集まっている状態、集まりを、そう言うのです。『教会は、いろんな人の〈よっちゃばれ〉です!』と言う言い方です。性格も、関心も、価値観も、教育も、生活程度も、思想も違う人たちが、呼び集められていると言う意味で、「よっちゃばれ」なのでしょうか。

 最近、そう言った「人の集まる場」がなくなっているのではないかなと思うのです。集まることを嫌う人たちが増えているわけです。我慢したり、自分を押さえたり、周りの人に合わせたりして、気を使うのが嫌な人が多くなって、一人でいた方が気楽でいい、そういった人が増えているのでしょう。不登校や不出社なども、そんな理由もあるかも知れません。

 漢字を学び始めた頃に、「人」」と言う字が、人が人に支えられた状態を表す象形文字だと学んだのです。人は一人では生きられず、家族や仲間や友人がいて、彼らに支えられ、自分も誰かの支えになる、それが人であるわけです。” person “ は、ギリシャ語が元で、” perusona ” で、“ per” “ sona ” に分けられ、「(前置詞で、〜当たり、〜毎に」と「声」の合成語です。声をかけ合って交わる者を言っているのでしょうか。

 そばにいるだけではなく、言葉を介しながら交流をしながら、生きるように、神さまは、「人」を造られたのではないでしょうか。人と話すのは、時間も必要ですし、待ったり、聞いたり、感じたりしなければならないので面倒なのでしょう。それで、面倒を避けて、一人でいるのを、現代人は、とくに好むようになっているようです。

 高校の頃に、後ろの席に座っていた同級生とは、喋った記憶がないのです。話しかけても、ニコッとしたり、目を向けるのですが、言葉を交わさなかったのです。知る限りでは、誰とも話さなかったのです。教師との受け答えはしていたのにです。ある有名中学から、その高等部に進まないで、入学してきたのです。決心して一生懸命に勉強して、東北地方の優秀な国立大学に進学していきました。その後の消息は不明です。『こんな奴がいるのか!』と思った変った同級生でした。

 親子の間で、兄弟の間で、級友間で会話がない人が多くいるようです。一人でいるのがいいのです。でも、人は言葉を語るように造られてありますから、言葉を引き出して上げる人や機会が必要なのです。そう言った場を提供している人たちがおいでです。群馬県下で、駄菓子屋さんを経営していらっしゃる方は、店にやって来る子どもたちのために、「人とつながる場」を設け、子どもたちに提供する努力をされておいでです。「居場所」、「思い出を作る場所」なんだそうです。

 そんな場所が、日本中に、いえ世界中にあったらいいですね。人は、究極的には、孤独ではいられないのです。孤独の中に閉じ込もってしまった原因があるのです。それを解いて上げたら、人はもっと快活に生きていけるようになります。面倒なことを避けないでいられるような場を提供し、機会を設けたら、人は心を解き放つことができるのでしょう。「よっちゃばれ」が機能しますように!

 「教会」は、そのような場でもありますし、教会の主であるイエスさまとの交わりの場でもあります。人だけの交わりだけでないことが、人と人との関係を最善に保つことができる場となります。賛美し、みことばを聞くことによる「父と子と聖霊」なる神さまが、「二人、三人集まる中」にいてくだるのです。

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巴波の漣

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 まだ春本番ではないのですが、散歩帰りに、巴波川河畔を歩いていましたら、流れの漣(さざなみ)が春の光を感じて、喜んでいるように、キラキラと輝いていました。光一つ、春への願いを見せているかのようで、寒い日はあっても、自然界は春に向けて準備中です。

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夢を見る

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 『その後われ吾靈を一切の人に注がん 汝らの男子女子は預言せん 汝らの老たる人は夢を見 汝らの少き人は異象を見ん 。(文語訳聖書 ヨエル228節)』

 どこへ行っても、どなたと会っても、私たちの世代が語る話題は、過ぎ去った時のことばかりです。過去にあった出来事ばかりを語ったり、書き記したりするのは、どうも年老いて来たことの徴(しるし)なのでしょう。自分のブログも、老いを意識していない頃とは、主題も内容も、過去の出会いや出来事ばかりのようです。

 聖書に、預言者ヨエルが予言しているのですが、「老たる人は夢を見」と言っています。本来、若者が、星雲の志をもって、溢れるほどの可能性のある未来に目を向けて、様々に夢を描いては、それを語り、記し、その夢の実現に向かって生きたのです。

 それは、自分にもあったことですが、今や年老いて、曜日感覚も鈍くなってしまっています。テレビなしの生活で、番組にも誘われないわが家では、曜日の一日一日が、ゴミの種分けでの曜日や図書館行きのための開館日などだけが気になるだけなのです。

 かつて、ここ下野国の人たちは、海外雄飛など考えてみることなどまったくなかったのでしょうね。また京の都上りなどを願うことだってなく、幕末になってから、やっと長崎や横浜に学びに行こうと、若者たちが、わずかに現れたのでしょうか。庶民は、まず無理で、武士階級か豪商か豪農の若者たちだったわけです。

 江戸時代の寺小屋に学んだ子どもたちでも、どんなに優秀であっても、藩黌(藩の学校です)で学ぶことは、稀にはあっても、京や江戸に遊学するなど考えられないことだったに違いありません。

 十七の私は、南半球の南十字星を見上げられる南米に行きたかったのです。アルゼンチンは、憧れの地でしたし、それが可能でした。と言うよりは、未知の世界を知りたかったのか、現実逃避だったのか、不安定な年齢期の麻疹のようなものだったのでしょうか。

 与えられた仕事、奉仕の機会に従って生きて来て、家内の病気を期に、退職しての今の生活は、終り方としては思い定めた通りではなく、中途で終わったようにも思えますが、一仕事をし終え、もう行程を走り終えて、人生のゴールへの助走をしているような感じがしています。「人生至る処青山あり」と言われ、青山に向かって歩み続けて、今や、その山陰に歩を進めているのでしょうか。

 聖書は、『夢を持て!』と語り掛けています。『年少きものもつかれてうみ壮なるものも衰へおとろふ。然はあれどヱホバを俟望むものは新なる力をえん また鷲のごとく翼をはりてのぼらん 走れどもつかれず歩めども倦ざるべし。(文語訳聖書イザヤ4030~31節)』

 未来に向かって、望みうることが、まだあると言うのです。

 『ヤコブの家よイスラエルのいへの遺れるものよ 腹をいしより我にはれ胎をいしより我にもたげられるものよ 皆われにきくべし。なんぢらの年老まで我ははらず白髪となるまで我なんぢらを負ん 我つくりたれば擡ぐべし我また負ひかつ救はん。(文語訳聖書 イザヤ463~4節)』

 もし足腰が弱ってしまったら、主なる神さまは、『背負う!』と言ってくださるのです。どこに導くのかと言いますと、

 『彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて、己が榮光の體に象らせ給はん。 (文語訳聖書 ピリピ321節)』

 「栄光」へと導いてくださると言うのです。十字架によって贖われた私を、十字架の主と同じ「栄光」の姿に変えてくださり、永遠のいのちを与えてくださるのです。ですから、老いは、人生の終点ではなく、輝ける「栄光」への Step なのです。『さあ夢を見ようではないか!』と、私を造られ、導かれ、負われる主が言っておいでなのです。

(窓際で一生懸命咲いてくれている胡蝶蘭です)

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時の流れへの波乗り

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 ちょっと季節外れですが、「波乗り」をされたことがありますか。湯河原に吉浜という海水浴場があります。高校2年の夏に、兄の後について、海水浴に出かけたのです。そこは、東京でガラス店を商う会社の職員のみなさんのための「夏の家」があって、兄の同級生のお父さんが、5人ほどの子どもさんの夏休みの利用を兼ねていました。二週間ほどいたでしょうか、その間に、会社の人は見かけないで、息子さんたちの学んでいた大学の運動部のみなさんの休暇の家のようでした。

 アメリカンフットボール部や弓道部や他の部の大学生がほとんどでした。弟さんたちが台所の世話をしてくださって、3食の賄いとおやつもあって、昼間は泳いで、昼に食事に帰って、また昼寝の後に午後は夕方まで泳いだり、砂浜で大学生たちの会話を聞いていたでしょうか、小難しい知的な話はなかったようです。

 夜はゲームをしたり、スチールギターやギターでハワイアンを演奏してくれたり、一夏をそこで過ごしたのです。漁師さんが、朝獲った小鯵を、『手の指で割いて、わさび醤油で食べると美味しいんだよ!』と、教えてもらって食べたのは、鮮度抜群で美味しくて、何匹食べたか覚えていないほどでした。

 さて、その「波乗り」ですが、サーフボードなどなかった時代でしたから、体一つで、それに興じたのです。弟さんが、その乗り方を教えてくれ、けっこう上手く乗れるようになったでしょうか。そんなで、一度台風接近で、海が荒れ始めて、遊泳禁止に中、引き潮がとても強かった日がありました。それでも波乗りをしていましたら、引き潮に連れられて、危うく沖に流されるところでした。命の危険を感じていたら、大きく寄せる波が来て、フワッと砂浜に連れ戻してくれたのです。

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 漁師さんたちは、その引き潮を「ミオ」と言って、沖に流されて亡くなることがあると言って注意してくれました。遊び呆けていて、危なく水死するところを、奇跡的に助かったのです。あんなに怖かったことはありませんでした。でも、波乗りの水遊びは、最高にに面白かったのです。

 今、多くの若者が、時の流れに、正しく乗れないで、人生を棒に振ってしまうことが多いようです。何学年か後の世代に、「70年安保」があって、学生運動が勢いをつけて、『安保粉砕!』の叫び声を上げていた時代です。反政府、反米の運動で、政府転覆計画の暴力闘争がありました。全共闘、革マル、連合赤軍とかが、ヘルメットとゲバ棒で身を固めて、学園占拠、成田三里塚騒動、原子力船エンタープライズ佐世保寄港の反対運動、新宿駅の騒乱事件など、実に賑々しかったのです。

 ある党の指導者になった人物たちの中には、デモの第一線には出ないで、第二、第三線に隠れるようにしていたりして、活動を助けていたのです。ある学校に私は転職することになって、卒業と成績の証明書が必要で、学んだ学校に出かけた時、正門がバラ線に巻かれて barricade をされていて、横にならなければ入れないほどの通り口を通った時、悲しかったのを思い出します。

 そんな過激な学生運動を利用して政治家になった者たちがいたのですが、麻疹(はしか)のような学生運動が収まりながらも、身の振り方を誤ったのでしょうか、時代の〈波の乗れなかった者たち〉が、少なからずいました。先日ニュースが二件ありました。刑期を終えた女性の活動家の出獄のニュースと、末期ガンで名乗りを上げた連続企業爆破事件で指名手配されていた男のニュースでした。

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 正義感に燃えてもいたのでしょうか。自分の生まれ育った国を愛していたのでしょうか、でも、その方法を間違えてしまった人たちの〈其の後〉です。内部の主導権争いもありました。そいえば、人の集まるところに、指名手配犯の写真が掲出されてありましたが、その中に、過激学生運動家の男女たちのものもあってよく見ました。同世代人だったからかも知れません。彼らは、自分の人生の生き方を誤ったに違いありません。ある人は、軌道修正ができなかったのです。

 あさま山荘の立て籠り犯もいましたし、ヨド号のハイジャック犯も、クアラルンプール事件犯もいました。死刑判決、無期懲役、懲役刑、そして国際逃亡で指名手配された者もいたのですが、追随者たちも含めて、彼らはその後をどう生きたのでしょうか。

 新宿騒動の参加者は、20000人もいたようです。口を拭って、過去を隠して、敗残者のようにひっそり生きているのでしょうか。あのことを糧に、様々な分野で生きて活躍した人がほとんどでしょうか。でも「後の後悔先に立たず」、時流に〈乗り切れない〉ままで、自分の人生を棒に振ってしまった人もいたのです。

 同世代、下の世代、みんな後期高齢者になって、騒がしい国際状況下、彼らは「今」何を思っているのでしょうか。

(ウイキペディアによるサーフィン、今のJR新宿駅七十年安保の学生騒動です)

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ジョーク九話

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 《中国ジョーク集》の中に、面白く、世の中の有り様、諸相を、痛烈に風刺したものがありましたので、もう帰国しましたので、みなさんにご紹介しようと思います。

[第一話]

記者:もし10ム◯(約992平方メートル)の土地を持っていたら半分を共◯党に寄贈することに同意されますか?

老人:もちろん!

記者:では家を2軒持っていたら?

老人:もちろん!

記者:車2台なら?

老人:もちろん! :もちろん!

記者:牛が2頭いたら?

老人:ダーメ!

記者:なんで牛だけダメなんですか?

老人:だって牛は本当に持っているからね。

[第二話]

宇宙船・◯舟10号の打ち上げが成功した!喜びに沸く人々。記者は老人に取材した。

「ご老人、◯舟10号の打ち上げ成功は何を意味していると思いますか?」

「汚職取り締まり、教育、住宅、医療、食品安全・・・これらの問題は・・・『天に昇る』、より難しいということじゃよ。」

(「天に昇るより難しい(比登天還難)』という慣用句とロケット打ち上げをかけたジョーク)

[第三話]

記者:ご老人、市長が誘拐されました。犯人は身代金1000万◯(約17000万円)を要求しています。支払わなければ市長をガソリンで焼き殺す、と。現在、寄付を募っているのですが、あなたはいかほど寄付なさるおつもりですか?

老人:(ガソリン)10リットルってところじゃな。

[第四話]

記者:ご老人、◯州では63000万◯(約106億円)を投じ公共墓地を整備するそうですが、党幹部しか埋葬できないそうです。どう思われますか?

老人:生き埋めかい?

[第五話]:

記者:ご老人、新政権の汚職取り締まりは本気のようです。どう思われますか?

老人:っていうと、今までの取り締まりはお遊びだったのかい?

[第六話]

記者:ご老人、お子さんは何人おられるのですか?全員学校に行かれましたか?

老人:男の子二人は行ったよ。女の子は行ってない。

記者:なぜですか?男女差別は批判されますよ!

老人:だって校長は男だもの。

(校長先生が小学生女子をホテルに連れ込む事件があったので)

[第七話]

公用機が墜落。乗っていた政治家は全員死亡した。調査グループは現地の老人に事故当時、本当に生存者はいなかったのか質問した。

すると老人は笑いながら答えた。

「いたよ。ワシの足にすがりつきながら、オレはまだ死んでないって言っていたよ。ただ皆さんご存知のとおり、政治家は本当のことを言わないものだからね。だから埋めておいた。」

[第八話]

記者:こんにちは。ご老人、いくつか質問させてください。以前、農民は牛馬に劣る生活を強いられていたそうですね。今ではどうなのでしょうか?

老人:今かね、願い通りになったよ。牛馬の生活を超えたからね。

[第九話]

記者:ご老人、なんでも最近100万◯(約1700万円)もうけたそうですね。本当ですか?

老人:そうさね。ある日、携帯電話をひろったんだがね。それにメールが届いたんだ。「◯局長、あの件をお願いします」ってね。すぐにワシの銀行口座番号をメールしたってわけさ。

 いかがでしょうか。旧ソ連のものも、ユダヤ人のものも、とても痛烈な joke があります。

(ウイキペディアによるトランプの「ジョーカーです))
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古代の音の世界

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 自分が越して来た街に、古代人の住居跡があることを知って、『どんな場所で、自分の祖となる同時代人たちがいて、どんな風に生活をし、泣いたり笑ったり、悲しんだり喜んだりしていたことだろうか?』と思いの中に湧き起こって、学校から家に帰って、ランドセルを投げ置いて走って訪ねたのです。

 そこは多摩川を見下ろせる、そう高くない高台でした。あの頃、人はまだ井戸掘りはしなかった時代でしたから、やはり水場に近い場所に住居を構えたのでしょう。魚をとったり、タニシやしじみも 野うさぎや鳥などもとって、食料にしていたことでしょうか。

 そんな古代人の生活の場や生活ぶりを想像しながら、木の枝を手にして、懸命に土を掘ったのです。土器のかけらや鏃を見つけて大喜びをしたのです。何かTime slip するような思いもしたようです。父や母、祖父母よりも遥か昔の人たちの生活に触れているようでもありました。

 意思伝達の会話があり、不和による言い争いも、愛情表現も、労りのことばもあったはずです。でも、土を掘っているだけでは、話し声を想像することも、鳥の囀りや獣の吠える声や風や雨の音、木々の葉を揺らす音さえも、想像できず、音が聞こえなかったのです。無音の世界でした。

 そんなことはあり得ません。人だって、鳴き声や笑い声や、怒鳴る声だってあったはずです。歌だって、楽器だってあったはずです。草笛や木で叩く音や貝をすり合わせる音、土器や動物に骨を、叩いて音を出して、それに合わせて歌を歌うことだってあったに違いありません。自然界には「音」があふれていたはずです

 土取利之と言われる音楽家がおいでです。打楽器が専門で、ジャズの世界で、名drummer だそうでです。その彼が、音楽の根源を探るために、アジアやアフリカの民族音楽を訪ね歩いています。そして、古代にあったであろう音を訪ね始めるのです。そして、縄文時代にあった音を再現するために、ご自分で、縄文人のようになって、さまざまな物を叩いて、擦ったりして音を出して演奏する performance をしてきています。

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 そして、2007年に、「縄文と音(青土社刊行)」を出されたのです。有史以前にあった「音」を求めて、縄文人のように音を作る作業をし続けておいでです。木板や土器をたたき、野の獣や鯨の骨をたたいておいでです。鹿の角や草や木などで笛を作り、三味線などの絃楽器の元となるような、動物の腱(けん)などを用いて、弦に結んで、きっと演奏が奏でられていたことでしょう。

 そういえば、旧約聖書の最初の書の「創世記」には、『其弟の名はユバルと云ふ彼は琴と笛とをとる凡ての者の先祖なり (文語訳聖書 創世記4:21)』とありますから、琴と笛という楽器が、『何故に汝潛に逃さり我をはなれて忍いで我につげざりしや我歡喜と歌謠と鼗と琴をもて汝を送りしならんを (同3127節)』とあるように、歌謡と鼗(とう/太鼓の一種です)と琴を奏でています。

 人類誕生の間もない頃には、もう楽器が奏でられ、歌が歌われて奏でられていますから、人は、楽器を奏でていて、神礼拝に、それらによって賛美がささげられていたことになります。

 BC1000年頃の人であるダビデの時代には、『ダビデおよびイスラエルの人はみな歌と琴と瑟と鼗鼓と鐃鈸と喇叭などを以て力をきはめ歌をうたひて神の前に踊れり。(歴代上138節)』と記されていますから、歌と琴と立琴と手鼓とシンバルとラッパと踊りをもって、主なる神さまをほめたたえていたのです。

 わが家には、電子ピアノ、ハーモニカが3本、ウクレレ、タンバリンなどの楽器があります。この21世紀に「音」を奏でる楽器があるのですから、人類の始祖たちも、様々な楽器を奏でながら、神礼拝をし、余興を楽しんで生きていたのでしょう。

(ウイキペディアによるタンバリン、「縄文の音」P、177の古代の楽器の写真です)

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