野分

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 今朝の天気予報、とくに「台風情報」について、写真の様な知らせがありました。子どもの頃に、大きな被害をもたらせた「伊勢湾台風」がありましたし、青函連絡船が転覆した、大遭難事故も引き起こしたこともありました。一昨年の19号台風は、家内と私がお借りしていた家の床上浸水で、避難したり、引っ越しをしなくてはなりませんでした。

 そういえば今日は、「立春」から数えて「二百十日(にひゃくとおか)」にあたり、台風の多い日と言われてきています。それで今日の台風予報を検索してみたわけです。台風が発生するフィリピン海域の付近には、それらしい兆候は見られなく穏やかな様子なのです。

 この「台風」という呼び方は、1956年(昭和31年)から始まったそうで、もともとは、「野分(のわき)」と言われていたそうです。私たちが古文で学んだ「枕草子」に、その記述があります。実際に被害にあったり、新聞記事などを読んだ私たちには、「台風」の方が猛烈さを感じさせられてしまいます。

 去年は台風が、日本列島を直撃する件数は少なかったのですが、本年は、9月に入ったばかりですが、ちょっと心配でなりません。とくに、「戻り梅雨」で、熱海の土石流事故や九州から西日本にかけての暴雨があったので、なおのことです。

 17歳の時に、湯河原に海で海水浴をしていた時に、台風で遊泳禁止の中を泳いでいて、潮の引きが強くて、岸に戻れないで死にそうになったことがありました。『もうダメだ!』と思った時に、フワッと岸に押し戻す波がきて、それに乗せられて難を逃れたことがありました。あの時の死の恐怖をいまだに覚えています。

 それでも毎年平均、11個の台風が日本列島をかすめたり、上陸しています。地球の温暖化が進むに従って、風の強さも雨の量も年々強まっているのを感じます。問題児のことを「豆台風」などと言っている内はいいのですが、竜巻の様に家族を巻き込んだりしてしまうと、そんな悠長なことは言っておられません。

 それにしても、気温が19℃には驚かされています。長袖のシャツを引っ張り出してきてしまいました。真夏に、こんな日があったら良いのですが。また暑さはぶり返すのでしょう。お元気でお過ごしください。

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木を植えた男〜2〜

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 第一次世界大戦が勃発します。「わたし」は従軍し、5年間を戦場で過ごしたのです。プロヴァンスでのことを考える暇などなかったのです。でも、戦争から復員すると、新鮮な空気が吸いたくなって、わずかな手当を手に、あの荒れ果てた地に向かうのでした。その地に変わりばえはなかったのですが、「廃墟の村に来ると、はるかかなたに、灰色がかったもやらしきもの」が見えます。

 その地を訪ねる前夜から、そこでの羊飼いとの出会いのことが思い出されるのです。「ああ、ひょっとして、一万本のカシワの木が、あんなにもひろくねづいたのかも・・・」と呟きます。五年もの戦争体験で、多くの人の死を見てきた「わたし」は、あの羊飼いも、もう亡くなっている様に思えたのです。ところが彼は生きていました。

 会うと、もう60ほどになっているであろう羊飼いの男は、かくしゃく(矍鑠)としてるではありませんか。その頃、彼は羊は木の苗を食い荒らすので、4頭だけ残して、100箱の養蜂を始めていました。そしてこの5年間も、木を植え続けていたのです。1910年に植えた、10歳になるカシワの木は、「わたし」の背丈を越して、大きく成長していたのです。

 その光景を目にした「わたし」は、言葉を失ってしまいます。羊飼いのビフィエ氏は、黙々と林の中を歩き回るのにしたがって、「わたし」もついて歩きます。三区域に分かれた林は、長さが11キロメートル、幅3キロメートルの広さに広がっていました。「戦争というとほうもない破壊をもたらす人間」が、ほかの場所では、「こんなにも神のみわざにもひとしい偉業」を成し遂げることができていたのです。

 ビフィエ氏は、思いついたことをみなやりとげていたのです。ブナの木などは、「わたし」の方に降りかかるほどの高さになって、みわたすかぎり広がっていました。カシワの森も、動物たちにかじられるのを耐えて、密生しているではありませんか。ビフィエ氏は、カバの木立も見せてくれました。五年の歳月を耐えていましたから、戦争で戦っていいた1915年ころには、もう芽生えていたことになります。「まるで若者のようにすっくと立ち」、みずみずしかったのです。(つづく) 

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