80年代

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 この写真は、写真家の秋山陵二氏が、1980年代の中国で、子どもたちを写したものです。写真集「你好小朋友」に掲載されていて、中国のサイトに載っていたものです。40年も前ですから、この少女は今では五十代になっているのでしょう。

 図書室の壁際に座った少女が、書物に目を向けています。室内の照度も佇まいも八十年代の中国を感じさせられるのです。彼女の頭の上の壁には、読書する少年少女の絵が掲げられ、読書や学習の奨励がなされています。また、その上には、「静」と書かれた漢字が掲げられています。『静かに過ごしましょう!』と勧めているのでしょう。物音のしない室内で、彼女がじっと見入っているのは、どんな本なのでしょうか。
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 華南の街で、師範大学の古い教員住宅に住んでいた時に、となりの家の小学一年生が、大学教授を退官したおじいちゃんの指導で、こんな写真の様に、宿題をしていました。石の台を机にしていたのです。もう今頃は大学生になっていることでしょう。
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 買い物も、配給券を持って、この様に並んで食料品や日用品を買っていました。その後、日本のスーパーが、大都市に出店し、今では個人経営の大型ショッピングセンターが、全国展開しています。私たちのお世話をしてくださったご婦人も、よくこうして並んで買い物をしたと、子ども時代を語ってくれました。
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 上手にポーズをとって、撮影者の前に、この少女は立っています。キラリと輝いた目を見せています。素晴らしい将来を、こんな眼差しで見て、子ども時代を生きていたのでしょう。ずっと、こんな目で、自分の祖国が変わっていく様子を見続けたて行ったことでしょう。まさしく、今や豊かな国が出来上がっています。
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 お父さんの愛が、十二分に注がれて、屈託無く生きているのが分かる子どもたち、兄弟です。ヒョウキンに戯けていたり、やんちゃな表情を見せていますが、そんな子どもたちに、優しい目を向けているお父さんがいて、この子たちは幸せそうです。もう社会の中堅として活躍している世代になっていることでしょう。
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 この様な街の様子は、もう、どこへ行っても見られません。煉瓦の家は壊され、高層アパートに立て直され、自転車は少なくって、電動自転車と車が、ビューンと走り抜ける様になりました。道路の整備も、瞬く間に出来上がっていき、高速網も高速鉄道網も、全国展開しています。物質文明の渦中に、今や中国もあるのです。

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ありがとう!

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 四月、和名で「卯月」になりました。作詞が佐々木 信綱、作曲が小山 作之助の「夏は来ぬ」、暦の上では、「卯月」は夏の月になりますが、実際には、日本人にとっての「実感の春」の月になります。先週、日光の山里で、鶯の鳴く音を聞きました。

1. 卯の花の におう垣根に
ほととぎす 早も来啼きて
忍音もらす 夏は来ぬ

2. さみだれのそそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ

3. 橘の かおる軒場の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

4. 棟ちる 川べの宿の
門遠く 水鶏声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

5. 五月やみ 螢飛びかい
水鶏なき 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ
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 三月が「別れ月」なら、四月は「出会い月」でしょうか。島崎藤村が作詞、作曲の「惜別の歌」があります。藤村の「若菜集にある「高楼(たかどの)」の詩に、藤江英輔が曲をつけましたが、原詩は次の様です。

  高 楼
 
わかれゆくひとを をしむと こよひより
とほきゆめちに われやまとはん

   妹
 
とほきわかれに たへかねて
このたかどのに のぼるかな
かなしむなかれ わがあねよ
たびのころもを とゝのへよ
 
   姉

わかれといへば むかしより
このひとのよの つねなるを
ながるゝみづを ながむれば
ゆめはづかしき なみだかな
 
   妹

したへるひとの もとにゆく
きみのうへこそ たのしけれ
ふゆやまこえて きみゆかば
なにをひかりの わがみぞや
 
   姉

あゝはなとりの いろにつけ
ねにつけわれを おもへかし
けふわかれては いつかまた
あひみるまでの いのちかも

   妹

きみがさやけき めのいろも
きみくれなゐの くちびるも
きみがみどりの くろかみも
またいつかみん このわかれ
 
   姉

なれがやさしき なぐさめも
なれがたのしき うたごゑも
なれがこゝろの ことのねも
またいつきかん このわかれ
 
   妹

きみのゆくべき やまかはは
おつるなみだに みえわかず
そでのしぐれの ふゆのひに
きみにおくらん はなもがな
 
   姉

そでにおほへる うるはしき
ながかほばせを あげよかし
ながくれなゐの かほばせに
ながるゝなみだ われはぬぐはん
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 春が、ウキウキするのは、新しい出会いがあるからに違いありません。私にとっては、生涯の伴侶との出会い、1971年4月4日、神さまの前に誓約をして、結婚式を挙げました。まさに《男子佳人との出会い》、それは私にとっての人生最高の出来事だったのです。

 その日から五十年が経ちました。キンコンカンの鐘の音が聞こえそうな「金婚」に漕ぎ着けたのです。その日から今日まで、全く家内が、私の七の七十倍ほどの忍耐をして、共に過ごした年月だったと言えます。何よりも素晴らしいのは、四人の子に恵まれたことです。聖書的に言うと次の様です。

 「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。(詩篇127篇5節)」

 戦に出るわけではありませんが、四人四様に、矢筒(家庭)から放たれて、それぞれの矢の落ちた地で、この世との闘いの中で、「恥を見ることがない」生を生きています。それぞれに素敵な配偶者と出会って家庭を作り、社会的な責任を果たしているのです。ただ「ありがとう!』の四月、人生上の真の「入学式」の月、佳き日でした。

(卯の花、小諸城址、毛利家の矢筒です)

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