どう生きる

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 『自分の思い通りに生きたかどうかが大事。』、ある人が、ご自分の人生を、こう言って生き、立派な業績を残され、賞賛を受けられたのですが、病に倒れて亡くなりました。

 ところが聖書は、次のように記しています。

 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。(アモス54節)』

 『そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。 そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。 「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。(イザヤ3816節)』

 病気になったユダ王国のヒデキヤ王に、預言者のイザヤは、「病は治らずに、死ぬ!」と、主からのことば告げました。病気になった時に、ヒデキヤは自分の生涯を振り返って、大声で泣いて訴えたのです。時は、アッシリアの猛攻を受けて、国家的な困難な状況下にありました。憐れみ深い神さまは、彼の生涯に「十五年」を加えられたのです。それでも、彼は最終的には死んでしまいます。
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 人は、願わない「死」を避けることができないのです。みんな、『あのことも、このこともしたかった!』と思いながら志半ばで、その時を迎えねばなりません。彼の死を知らされた人は、『もっと生きて、もっと素敵な働きをして欲しかった!』と、その死を惜しむのですが、人の願いの届かないところに、人の一生があるのでしょうか。

 どうも人は、〈思い通り〉に生きて、〈何をしたか〉によって測られるのでしょうか。業績主義のこの社会の中では、そうに違いありません。『あのダムは、お父さんが作ったんだよ!』も、『このスリッパはお父さんが作ったの!』とは、双方の子どもにとっては、自慢のお父さんの仕事によるので同じです。ところが履き古して一年でダメになるものと、半世紀以上も貯水と発電の働きをするものでは、貢献度が違うわけです。でも一事に全情熱をかけているなら、同じなのです。

 思い通りに生きた人が、翻って自分の来し方を振り返ってみるなら、果たして、思い通りであったかは確かではなさそうです。でも悔いのない一生を生きるとするなら、例えば、正しい動機で生きた一生は、素晴らしいに違いありません。パウロが、『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10章31節)』と、コリントの教会の信仰者たちに勧めたことばは、万金に値します。

 人が、自らを創造した神のいますことを認め、神の栄光のために生きるなら、それに優った一生は他にありません。そのような人に、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』と、主人(神)に言われるなら、それこそが、最善な私たちの生き方に違いありません。そう、神さまの評価を得られる一生を生きたいものです。

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[街]駒ヶ根

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 次女の主人が、JETの英語教師として、長野県の南信の高等学校に勤めていたことがあります。このJETプログラムには、「外国語指導助手(ALTAssistant Language Teacher)」、「国際交流員(CIR)」、「スポーツ国際交流員(SEA)」の3つの職種があり、地域の外国語教育の普及と、国際化の推進で、それに励んで3年ほど、励んでいたでしょうか。

 阿南町、飯田市などの高校に勤務する彼らを訪ねるために、よく通過したのが、「駒ヶ根市」でした。彼らの最初の子は、飯田市立病院で生まれているのです。そんなわけで、車で中央自動車道を使って、時には伊北インターチェンジで下りて、国道153号線で、阿南町や飯田市に出掛けました。

 そこは南アルプスの西側の山岳部の間にある地で、りんご園やブドウ園や梨園などでの果物栽培が盛んなのです。かつては米作や蚕が行われていたのですが、転作でしょうか。主力は果物のようです。日本の農村は、かつては、どこも貧しかったようです。戦前、満州開拓の呼び声で、貧しい農家の方々が、それに応答したのです。とくに下條村の農民の多くが、そのために海を渡離、戦争末期、から戦後にかけては、大変な困難を経験したのです。

 高速道の伊北ICで下りて、県道19号線を走ると、箕輪や伊那に続いて、駒ヶ根市があるのです。その街に車でさしかかった時、突然、この街を、「終の住処(ついのすみか)」にしたいとの思いがやってきたのです。不思議な想いで、自分自身が驚いてしまいました。

 射していた陽の光、流れていた風、山肌の色、畑や田んぼの土の匂い、今までにかいだことも、感じたことものないものを、強烈に感じたからでした。それまで、そんな印象を受け取ったことがありませんでしたので、五感で感じるものだけではなく、深い心で中で、何かを感じたという経験だったのです。

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 今は、そんなに強い思いは無くなったのですが、実は、どこでも住み始めると、その地への愛着でしょうか、原風景への回帰なのでしょうか。または愛惜でしょうか、すぐに住んでみたくなるのは、何か麻疹のような、初恋の回想のようなものに似ているのかも知れません。

 ここは、木曽山脈と伊那山地との間の伊那谷の中央に位置し、諏訪湖から流れてくる天竜川の河岸段丘に位置しています。スズランが市花で、赤松が市木で、32万の人口を要す街です。この地域で、注目されているのが、「ソースカツ丼」なのです。カツライスの具の千切りキャベツを、丼の米飯の上にのせ、そこに揚げたトンカツを乗せ、特製の薄口ソースをかけるのです。煮たカツ丼しか食べたことのない私を驚かせました。市内には、三十数店舗の「ソースカツ丼店」があるのです。

 県北地域とも、南信の飯田、県南の諏訪地方とも違った趣の街です。なんか落ち着いて、老後を過ごせる感じがして、終の住処のと思い立ったのですが、私たちを導かれる神さまは、栃木に導かれたのです。空気も水も食べ物も、そして隣人たちも素敵な人が多いのです。もしもう一度越すことが許されるなら、駒ヶ根がいいなの、2023年のたけなわの春です。

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蘭二様

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 上の鉢の花は、ラジオ体操仲間で、元県の農政に携わられて、今は隠居されてるラジオ体操仲間の方から、いただいた「シンビジューム」です。昨年、もう一鉢いただいたものは、花がつきませんでした。きっと、それを知ってでしょうか、綺麗に咲いた花をくださったのです。

 下の胡蝶蘭は、退院した2019年の家内の誕生日、そして12月に、長女が父親の誕生日のお祝いにと贈ってくれたもので、第四期目の花を咲かせています。ただ週一回の水やりだけで、ここまで花を咲いてくれているのです。花のある家で、創造の美と、人の丹精とで、これほどに綺麗に咲く様子に、大いに慰められています。

 昨日は、家内と東武日光線の電車に乗って、渡良瀬遊水地の近くの街の友人宅に出掛けました。音楽伝道をされている方で、奥さまとお二人のお子さん、それにご主人のお母さまのご家族です。

 それに中国からやって来て、東京で、アルバイトをしながら、語学学校を終えて、この春、自動車メーカーの自動車整備学校に入学を前に、別れの挨拶に来らたのです。華南の街の教会で、一緒に礼拝を守った青年で、送別で、回転寿司で食事をしたのです。

 私たちの近くで、学校を探されたのですが、入学を許されず、中京圏の学校に合格しておいでです。華南の街では、ピアノの調律師をしておいででした。大学で学ばず、自分の好きな道を選んだのです。祝福をお祈りして、送り出せました。

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流れのほとりにて

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 こんなに間近に、川を眺めて生活することなど、これまでありませんでした。もちろん生まれ故郷には、山からの渓流があって、その瀬音は、自分への子守唄でした。その流れは、しばらく下りますと、滝となって滝壺に、激しく流れ落ちて、今では観光名所になっています。

 小学校時代を過ごした街は、街の南北を流れる二つの河川の間に位置し、夏が来ると泳ぎ、釣りの好きな下の兄は、釣り竿をかついだり仕掛けをしたりで、魚取りに、よく出かけていました。

 二十歳の時に、移り住んだ街にも、大きな河川があり、その流れの近く、堤防のこちら側に家があったのです。台風が来ると水量が増し、その急流の流れの端の、葦の間に逃げ込んだ魚を、素手で捕まえることができました。冬になると、流れの端の淀みが凍って、スケートができたりでした。

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 しばらく過ごした華南の街は、大河の南北に流れる川が、二分する辺りに、島のような、中洲のような岩の多い地があって、そこに大学や企業や住宅が広がってありました。やがて下流で再び合流して、大海原に流れ込んでいました。その上流には、美しい観光地があって、緩やかな流れを、孟宗竹を組んだ筏で、川下りをしました。次女の家族が来た時にも、一緒に筏遊びをしたのです。

 そこは、先日保津川下りの筏が転覆事故を起こしたような、急流や岩場ではなかったのです。浅瀬の流れをゆっくりと、竿さす二人の船頭さんの操舵で、ゆったりと景観を楽しめたのです。

 そして、五年目を迎えたこの街でも、「巴波川」のほとりの建物の四階のベランダから、眼下に流れを眺めながら、生活をしているのです。朝な夕な、その流れくる、流れいく川面を眺めて過ごしております。それで思い起こすのが、「方丈記」の冒頭の次のようにある記事なのです。

『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

 これは、鴨長明の作で、高校の古文で学んだ箇所です。人の一生が、流れ行く川の流れに似ていると言う言葉は、取り返しのつかないものであって、暗く、虚しく、悲しかったのを思い出します。

 ところが聖書の中に、捕囚の民がひかれていった「バビロンのほとり」での出来事を詠んだ詩があります。

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The Fall of Babylon by Cyrus the Graet in 539 BC. Jeremiah 51, 59-60. Wood engraving, published in 1886.

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 『バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。 それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。 私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。 エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。 もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。 主よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と言ったエドムの子らを思い出してください。 バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。 おまえの子どもたちを捕らえ、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。(詩篇13719節)』

 犯した罪のゆえに、主なる神が、エルサレムは荒廃し、民がバビロニア帝国の補修となることを定めたのですが、捕囚の地での経験を詠んだのが、この詩です。涙を流し虚しさや悲しみもありますが、それだけではなく、祖国のエルサレムへの慕わしい思い、赦されて祖国帰還の望みが詠み込まれています。

 バビロンのケバルの流れのほとりで、祭司エゼキエルは、神々しい主からの幻を見ました。悔い改めるなら、補修の縄目を解かれる約束を預言するのです。神は怒るとも、人や国や民族が悔い改めるなら、回復の望みを与えてくださるのです。まさに、七十年後に、この民は、エルサレムに、捕囚を解かれて帰還するのです。

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 私の信じている神は、罪をいたく憎まれ、罰せられますが、赦しにも富まれるお方なのです。だから私も、どのような中にいても、希望に溢れて、その時々を生きることができるわけです。

 朝に夕に眺める、湧き水を押し流す巴波川の水は、大平洋の大海に注ぎ、海原で大気の上に上昇し、雨や霧となって地に注ぎ、泉を湧き上がらせ、再び川に流れるのです。それで、飲水を供給し、春に命を再生し、秋に収穫をもたらす植物を潤すのです。希望に満ちています。

(流れの辺り、華南の大河、バビロンの都の川、渡瀬遊水池です)

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思川桜2023

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 今日は、念願の「思川桜」の観桜で、快晴のもと、先ごろ入手した中古自転車(フレームが軽量のアルミニューム製です)をこいで、思川東岸の白鴎大学の大行寺キャンパスまで出かけました。

 昨年は、4月3日に、思川西岸の小山市役所の近くの堤の上に咲く桜を、若き友人とお嬢さんとで観たのですが、今日は、一人で出掛けてみました。この思川桜は、野生種の江戸彼岸(エドヒガン)、豆桜(マメザクラ/富士山周辺に咲くそうです)、大島桜(オオシマザクラ/関東地方の桜、桜餅の葉に用いられるそうです)の遺伝子を受け継いでいるそうで、小山修道院にあった十月桜(ジュウガツザクラ)が祖であったとみられたのですが、科学的な研究によって、野生種であることが判明したようです。

 染井吉野(ソメイヨシノ)ばかりが人気取りをしていて、あまり見向きされない桜に注目したくて、今年も出かけたわけです。1978年は、小山市の「市花」に制定されています。小山市民でない私ですが、小山評定が行われた歴史的な地に咲く花を愛でることができて、嬉しいばかりです。

 『神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった(創世記111節)』

 遺伝子解析が、そこまでたどって、自然交配の様子を突き止めてしまうのには、驚きです。桜の品種の多さにも驚かされます。

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博多っ子

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Hand drawn illustration of a mill. EPS 10. No transparency. No gradients.

 

 こんな句が残されています。

風車 風が吹くまで 昼寝かな

 オランダの象徴のように、風に身をまかす「風車」が、風の起こるまで、じっと待っている姿が、見て印象的だったのでしょう。左遷され、不遇な時期に、オランダの風車を眺めたからでしょうか、ジタバタしたり、悔やんだりしないで、読書に専念していた頃に、第32代総理大臣を務めた廣田弘毅が、「かざぐるま」と詠み始めた句なのです。このお方の生き方そのものだったようです。

 江戸期の幕藩体制化、筑前国に、黒田氏の治めた「黒田藩(福岡藩の俗称でそう呼ばれています)」がありました。この藩士たちを、「黒田武士」と呼び、明治維新後、この黒田の武士たちによって、欧米の植民地化されていたアジア諸国の解放を旗印に立て上げた政治団体に、「玄洋社」がありました。

 この団体は、ただの〈右翼〉では片付けられない、明治維新政府の偏向を正す意味でも、その主張や動きや存在に、大きな意味があった、と見ていいのではないでしょうか。後に、外務大臣、総理大臣に就任する若き日の広田弘毅は、父と共に、この玄洋社に関わっていたのです。

 この父子は、日宋貿易の商取引の中心地の博多の出身でした。そこで、お父さまは、農民野出で、丁稚奉公をし、石屋の養子とされた勤勉な石工をされていたのです。ただの石工ではなく、政治的にも目の開かれていた人でしたので、その親を見て育った広田弘毅も、父の信念に従ったのだろうと思われます。この方の半生を見た時に、いわゆる極右であったとは言えません。

 福岡の名門の修猷館(しゅうゆうかん)中学校から、一高、東大に学んだ優秀な学徒で、外交官試験に合格し、外交官となって、国に仕えようとした人でした。不遇時代に、苛立ったり、悔やんだりするのではなく、風が吹き始めるまでは、読書三昧で過ごし、日本の行くべき道筋に思いを向けていたのです。人は屈んでいる時に、力を蓄えられるのかも知れません。

 平和な時代に、生きることを許されず、大国主義の日本の怒涛のようなうねりの中で、終戦を迎えます。戦後処理の「極東軍事裁判」で戦犯として処刑されて、その生涯を終えてしまった、実に惜しい器だったのです。平和な時代に生きて、穏やかな日本に、良き導きをして欲しかった器でした。

 その東京で開廷された、日本の戦争責任を問う裁判の折、法廷に立つ被告たちの裁判に不利にならないように、自らの弁明を引っ込めたのです。二・二六事件後に、軍人畑でなく、名門出でもない廣田弘毅が、首相に就きます。また盧溝橋事件後に、外務大臣に就き、和平工作に広田弘毅は励のでですが、それを阻まれます。

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 その首長在任中の南京陥落、南京虐殺、さらに太平洋戦争開戦時の外務大臣時、さらに総理大臣時の責を負っても、自己有利な証言をせずに、断頭台に上がったのです。戦争には、直接関わらなかった非軍人に、死刑を宣告した東京裁判にも、大きな問題が残るにではないでしょうか。でも、広田弘毅の「潔さ」は、あの責任回避、責任の擦り合いのさなかで、際立っていたのではないでしょうか。

 要職にあった時、地元に道路を敷いたり、橋を架けたり、工場を誘致したりなどの、故郷への貢献などは、全くしなかった人だそうです。ただ、古里の若い人を激励したり、育てたりした人でした。また、東京に連れて行こうとしても引き返すお母さんをおぶって、家に連れ帰ったりした、市井の人だったのです。それで、私のpen name は、この方の名に因んでいるのです。

 『廣田弘毅ばよか男やけん!』、この人のような政治家を、今の時代こそ必要としているのですが、どこかに隠れて、風車を見ているのでしょうか。次の日曜日は、わが県議会の議員選挙の投票日です。

(オランダの風車のイラスト、博多湾全景です)

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納豆とくさや

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 わが家の夕食の食卓に、必ず載せられている「おかず」があります。それは「納豆」です。

 お隣の国で過ごしていた時に、その街には、日系企業で働く日本人が、けっこういらっしゃって、『あの通りの角の店に納豆があります!』と言う情報を得て、何度もバスに乗って買いに行ったのです。上海経由で、冷凍納豆が置かれてあったのです。言うまでもなく、とても高いのに閉口しました。

 その他に、オーストラリアからの留学生で、お父さんが東京の下町の出身で、オーストラリアの街で商店をされていて、功夫(カンフー)の修行のついでに、語学研修をしていた方が、〈納豆菌〉を持参していて、自家製で作ったのです。弁当箱のような器に入った物を、ニ、三度頂いたことがありました。菌がよく働いていないで、ネバネバなしの納豆だったのです。

 室町幕府の足利尊氏や鎌倉幕府を起こした源頼朝の祖に、「八幡太郎」と言われた源義家がいます。「下野守」を任じられて、この下野の地を治めていた方です。この方に、納豆の逸話が残されているのです。

 『八幡太郎義家とは通称で、平安時代後期に活躍した武将「源義家」のことを指します。義家は後の源氏勢力を形成するべく、京都から奥州平定を進めていきました。その戦でたどった道筋には、なぜか現在にも続く納豆の産地が多く含まれているそうです。なぜなのでしょうか・・・
戦に兵糧は欠かせませんが、その一つに煮豆がありました。その煮豆をワラで編んだ俵に詰め込み、馬の背に載せて携行していたそうです。でも、そのままではいくら進軍しようとも「ワラに入った煮豆」でしかありません。それがある偶然を経て、糸を引く納豆へと変化したようです。その条件とは・・・
それは「馬の体温」だといわれています。馬の体温はわれわれ人間より高い38度前後だそうですが、その38度というのが、ワラに付着した納豆菌が活発に繁殖する温度になります。(現在の納豆づくりでも納豆菌を加えた煮豆を発酵させる部屋の温度は38度ぐらいを目安に管理されています。)その条件によって元気になった納豆菌が煮豆に作用したことで、糸を引く納豆の原型のようなものができたようです。(ちなみにその戦では京都丹波山国地方よりの出兵が多く、現在もその名残で京都京北の山里では自家製納豆が作られ、「京都京北が納豆発祥の地」と村おこしをされておられます。)
現代の私たちは納豆という食べ物を認識していますから、もしその場にいたとしても「これ、腐ってるように見えるけど、食べてみたら結構いけるんやで~」などと言えるかもしれませんが、実際その場にいた兵士達は最初どんな気持ちで食したのでしょう・・・戦の中の食事ではそんな悠長なことは言ってられなかったのかもしれませんね。
そんなこんなで兵糧として納豆が偶然としてうまれ、義家が進軍した地域と帰ってきた京都にその製法が残り、その地ではいまでも納豆文化が続いているということのようですね。(「鶴の子納豆本舗」HPから)』

 スーパーマーケットなんてない子どもの頃、この納豆を自転車に積んで、売り歩いていた人がいました。同じ大豆から作る豆腐も、兄の同級生が、売っていたのです。

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 健康維持や促進に、《発酵食品》が良いことが分かっていて、どこの民族にもあります。伊豆諸島の利島で、中学校の先生をしていた方が、『ご家族で遊びにおいでください!』と招いてくださって、みんなで出かけた時、船着場付近に、伊豆名物の「くさや」作りの建物があって、そこにタンクがあったのです。くさやを漬け込む液が入っているとのことで、その匂いが強かったのを思い出します。

 その液が、「魚醤(ぎょしょう)」と言う発酵液なのです。くさやはその昔、離島の厳しい日々の暮らしの中から生まれた、生活に知恵のひとつだったようです。漁で獲った大切な魚を、より長く保存するために、桶の中の塩水に漬け込んで干し、干物にしていたのです。

 塩や水は、当時はとても貴重であったため、一度使った塩水に塩を足しつつ何度も漬け込みを繰り返したのだそうです。魚の成分から微生物が発生し、塩水が発酵、ついには独特な香りと味をもった「くさや液」が出来上がったそうです。その匂いを、豊島で嗅いだわけです。このくさや液の手入れは、主に女性が日々培ってきた感覚で維持・保存されてきています。

 母がしていた、あのぬかみその手入れと同じ手法でした。ぬかみその味がその家のお母さんの腕で決まるように、くさや液は島の嫁入り道具のひとつになったそうです。また、くさや液は古いものほど良いとされ、二百年以上前から手入れ保存されているものもあるのです。

 美味しいのですが、その匂いが嫌いな方がいるので、アパートの部屋で、買ったのを焼いて食べる勇気がありません。秋刀魚も、モクモクと煙を出す炭火のコンロで焼くのが美味しいのですが。スーパーの鮮魚コーナーんは、ほとんど見かけません。山奥で焼いたらいいのでしょうか。熊や猪が匂いにつられて出てきたら、どうしよう!

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散り始めの桜花(VTR)

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🌸Video 近くの道路脇

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 散歩帰りの桜が、41日の今日、チリ始めています。春の全国高等学校野球選手権大会で、山梨学院高等学校が優勝しました。山梨県の山奥で生まれ、子育てをした街の高校が、優勝できたのは、とても嬉しいことです。笑顔や健闘、清々しさが素敵でした。何百校の頂点に立つと言うのは、いい気持ちなのでしょう。さらなる精進を願う、卯月朔日です。

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栃木県

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 今の群馬と栃木は、毛野国(けぬのくに、けののくに)と呼ばれていたそうです。律令制下では、群馬は上毛野(上野国/こうずけのくに)、栃木は下毛野(下野国/しもつけのくに)と呼び名が替えられています。栃木を北から南に流れる、「鬼怒川」がありますが、その呼び名の漢字表記が、毛野川、衣川、絹川を経て、鬼怒川に定着したと言われています。漢字伝達以前に命名され、呼ばれていたのを、漢字表記をしたことから、そう考えられています。

 関東平野の奥まったこの地域は、氾濫原であって肥沃で、穀物、とくに米をよく産出したようです。確かに、東京から電車でも車でも乗って、栃木に向かう地は、延々とした平野であることが分かります。その地を、勤勉に、農家のみなさんは耕して植えて実りを収穫してきた姿が、見えるようです。

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 源平の合戦の折に活躍した、源頼朝に仕えた「那須与一」が有名で、大田原市に、その名にちなんだ「与一温泉」があります。これも温泉ブームで誕生した温泉であって、郷土の偉人の名を冠しているのです。関ヶ原の合戦前に、小山において「評定(ひょうじょう)」がもたれています。

 この「小山評定」は、徳川家三百年の安泰の道筋をつけた重要な軍議だと言われます。慶長五年(1600)の七月に、家康は、会津の上杉景勝を討つために北上の途上、小山に本陣を置くのです。その時、石田三成が兵を動かしたとの知らせがあって、急遽家康は本陣に諸将を招集したのです。『このまま上杉を討つべきか、石田を討つべきか?』を軍議にかけ、家康の従う者たちの結束ができ、石田征伐を決めます。これが「小山評定」なのです。

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 この軍議が行われた場の近くに、思川が流れ、今では、「思川桜」が、きれいに咲き誇り、もう間もなく観桜できそうです。

 江戸時代には、宇都宮藩、壬生藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩佐野藩、足利藩、吹上藩、高徳藩、喜連川藩がありました。とくに喜連川藩は、参勤交代なし、江戸下屋敷もなく、大名の石高は極めて少なかったのですが、高位の大名の取り扱いを受けたのだそうです。

 私たちにとっては、〈まさかの栃木〉で、住み始めるとは考えたこともありませんでした。それなのに、今や第三の故郷のように感じてきているのが不思議です。宇都宮氏の居城のあった宇都宮は、県都です。実は、栃木市が、そうなるべきだったのかも知れませんが、明治維新政府の県令、薩摩藩士だった三島通庸の一存で、そうなったのだと聞いています。この栃木は、自由民権運動が盛んだったそうで、それを嫌った三島の独断だったのかも知れません。

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 ところが、この三島は、『手にすくう水もなし』と言われた那須野ケ原に、開拓の手を入れ、その貢献は大きいのです。福島県令も兼務したので、猪苗代湖から「安積疏水」を作り、栃木には「那須疏水」を作っていますので、栃木の開発には尽力した人でした。自分の別荘を、那須に作っていますから、この地が好きだったのでしょう。乃木大将も別宅を設けていますし、大山勲、松方正義、青木周蔵らの明治の元勲たちが、この地を愛したようです。後に、三島は、警視総監を務めています。

 サキソフォン奏者の一人者の渡辺貞夫の出身地であるからでしょうか、それよりも以前からでしょうか、宇都宮は〈ジャズのある街〉と言われています。アメリカでは、ニューオルリーンズが有名ですが、そういえば、宇都宮も栃木も佐野も足利も、街を歩くと、喫茶店が大変多いのです。我々世代がよく席を温めながら、美味しそうに珈琲を楽しんでいる姿をよく見かけます。

 上野国の北に那須があります。温泉地や御用邸で有名ですが、かつては、「国造(くにのみやっこ)」が置かれ、後に大田原氏の居城のあった、現在の大田原市が中心でしょうか。この街に、大田原宿の近くに、「黒羽(くろばね)」と言う、黒羽藩があって、芭蕉は、ここを訪ねています。私たちの知人のお母さまの故郷なのです。

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 ここの「奥の細道」の芭蕉が、十三泊十四日で逗留したことで有名です。あの旅の日程の中でも長期滞在したことになります。多くの俳句を詠んでいます。

(ゆく)春や 鳥啼き魚(うお) 目は泪

山も庭も 動き入るるや

木啄(きつつき) (いお)は破らず 夏木立

 居心地の良い街だったのでしょうか。ここには、那珂川が流れていて、その水流を利した「舟運」が盛んに行われていました。栃木市の巴波川と同じように、商業で栄えています。

 『近世中期の頃から明治の終わり(鉄道開通)頃まで、那珂川には帆かけ船(小鵜飼船)や筏による舟運が行われた。黒羽の属する東野地方は、利根川水系の文化圏に属し江戸と結ばれ、奥州街道の開通によって、南奥(白河、会津方面)にまで商圏を拡大していた。輸送の経路は黒羽から常陸の野田や長倉を通じて水戸に入り、更に一部陸送し、北浦を南下し、利根川をさかのぼって江戸へと、廻米等の物資輸送が行われ、常陸、野州、奥州の文化経済交流の役を果たしていた。黒羽には両河岸(上河岸・下河岸)があり、天保4年(1833年)頃の持ち船は46艘を数え、主な輸送物資は、米、酒、しょう油、たばこ、茶、絹糸、木材等で、帰りの荷は海産物が主で、乗合にも利用されていた。現在下河岸跡には石垣と水神を祀る小祠が老松の傍らに残っている。河原は河川公園となっている。(大田原市資料)』

 この栃木の南に、野木町があります。ここには、130年間創業した「煉瓦工場跡」があります。「近代化産業遺産群」の一つに選定されていて、日本近代化に大きな役割を果たしたのです。どんな建物に用いられたのでしょうか。

 やはり、栃木県と言えば「日光」です。家康の墓所で、小学校の修学旅行で行きました。左甚五郎の作で、陽明門に「三猿」、回廊に「眠り猫」があって有名ですが、なんか遠くてしっかり見たような記憶がありません。「鳴き龍」の下で手を打ったのですが、無反応でした。この日光は、二宮尊徳の終焉の地でした。小田原の人でしたが、請われて、現在の「真岡(もおか)」の桜町の農村改革に尽力したのです。その後、日光でも、同じように働いたのです。

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 2020年の今頃、家内を見舞いに、中国からご夫妻が来てくれました。忙しく教会のお世話をするご夫妻で、よくお招きくださって、親しく交わりを持たせていただいたのですが、家内の闘病に力になってくださろうと仰って、祈るために訪ねてくれたのです。案内して下さる方がいて、日光に行かれ、東照宮の近くにある聖公会の教会の存在を知って、大きな感動を示しておいででした。雪を知らない方で、戦場ヶ原では、雪原に身を投げ打って、子どものように雪の感触を楽しんで、はしゃいでいたのです。

 栃木から、SONYの創業者の井深大が出ています。会津藩士を祖とする家系の出で、親戚筋にあたる、井深八重は、神山復生病院の婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた人でした。井深はクリスチャンで、Sonyの企業的な祝福に原点が、彼の信仰にありそうです。

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 かつて下野国の農村部から、国防の使命を託されて多くの若者が、「防人」として、九州の防備に当たっています。京から遠い地の足利は、足利氏の支配地で、室町幕府の開幕に携わった、足利尊氏は有名です。県都宇都宮は、軍事施設があったりで、連合軍の爆撃に遭って、多くの市民のいのちや施設が失われています。県民として五年目を迎えた栃木県は、県花は「ヤシオツツジ」、県木は「トチノキ」、県鳥は「オオルリ」、人口は190万人です。

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