流れのほとりにて

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 こんなに間近に、川を眺めて生活することなど、これまでありませんでした。もちろん生まれ故郷には、山からの渓流があって、その瀬音は、自分への子守唄でした。その流れは、しばらく下りますと、滝となって滝壺に、激しく流れ落ちて、今では観光名所になっています。

 小学校時代を過ごした街は、街の南北を流れる二つの河川の間に位置し、夏が来ると泳ぎ、釣りの好きな下の兄は、釣り竿をかついだり仕掛けをしたりで、魚取りに、よく出かけていました。

 二十歳の時に、移り住んだ街にも、大きな河川があり、その流れの近く、堤防のこちら側に家があったのです。台風が来ると水量が増し、その急流の流れの端の、葦の間に逃げ込んだ魚を、素手で捕まえることができました。冬になると、流れの端の淀みが凍って、スケートができたりでした。

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 しばらく過ごした華南の街は、大河の南北に流れる川が、二分する辺りに、島のような、中洲のような岩の多い地があって、そこに大学や企業や住宅が広がってありました。やがて下流で再び合流して、大海原に流れ込んでいました。その上流には、美しい観光地があって、緩やかな流れを、孟宗竹を組んだ筏で、川下りをしました。次女の家族が来た時にも、一緒に筏遊びをしたのです。

 そこは、先日保津川下りの筏が転覆事故を起こしたような、急流や岩場ではなかったのです。浅瀬の流れをゆっくりと、竿さす二人の船頭さんの操舵で、ゆったりと景観を楽しめたのです。

 そして、五年目を迎えたこの街でも、「巴波川」のほとりの建物の四階のベランダから、眼下に流れを眺めながら、生活をしているのです。朝な夕な、その流れくる、流れいく川面を眺めて過ごしております。それで思い起こすのが、「方丈記」の冒頭の次のようにある記事なのです。

『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』

 これは、鴨長明の作で、高校の古文で学んだ箇所です。人の一生が、流れ行く川の流れに似ていると言う言葉は、取り返しのつかないものであって、暗く、虚しく、悲しかったのを思い出します。

 ところが聖書の中に、捕囚の民がひかれていった「バビロンのほとり」での出来事を詠んだ詩があります。

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The Fall of Babylon by Cyrus the Graet in 539 BC. Jeremiah 51, 59-60. Wood engraving, published in 1886.

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 『バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。 それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。 私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。 エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。 もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。 主よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と言ったエドムの子らを思い出してください。 バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。 おまえの子どもたちを捕らえ、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。(詩篇13719節)』

 犯した罪のゆえに、主なる神が、エルサレムは荒廃し、民がバビロニア帝国の補修となることを定めたのですが、捕囚の地での経験を詠んだのが、この詩です。涙を流し虚しさや悲しみもありますが、それだけではなく、祖国のエルサレムへの慕わしい思い、赦されて祖国帰還の望みが詠み込まれています。

 バビロンのケバルの流れのほとりで、祭司エゼキエルは、神々しい主からの幻を見ました。悔い改めるなら、補修の縄目を解かれる約束を預言するのです。神は怒るとも、人や国や民族が悔い改めるなら、回復の望みを与えてくださるのです。まさに、七十年後に、この民は、エルサレムに、捕囚を解かれて帰還するのです。

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 私の信じている神は、罪をいたく憎まれ、罰せられますが、赦しにも富まれるお方なのです。だから私も、どのような中にいても、希望に溢れて、その時々を生きることができるわけです。

 朝に夕に眺める、湧き水を押し流す巴波川の水は、大平洋の大海に注ぎ、海原で大気の上に上昇し、雨や霧となって地に注ぎ、泉を湧き上がらせ、再び川に流れるのです。それで、飲水を供給し、春に命を再生し、秋に収穫をもたらす植物を潤すのです。希望に満ちています。

(流れの辺り、華南の大河、バビロンの都の川、渡瀬遊水池です)

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