枕する所

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 熊本地震で被災した友人が、次に起こる地震を考えると、家の中で眠ることができないで、車の中で、幾晩も過ごしたと言っていました。心理的な窮屈さに、身体的な窮屈さが重なっていましたので、熟睡はできなかったそうです。

 父親に叱られて、家を出て彷徨い、野宿をしたことが自分にもありました。枯れ草の中や、貨物列車の車掌室の長い板の椅子の上でした。きっとあの感覚に、地震の怖さが加わって、体験者だけしか感じられないことなのでしょう。

 今正月の能登半島地震でも、家屋の倒壊で、布団の中に眠れない人たちが多くおいでのようです。旅館をされておいでの方が、被災されたみなさんに、布団や毛布を供出されているニュースを聞いています。それで、やっと体を伸ばして、大の字になって眠れたことを感謝されておいででした。

 主イエスさまが、次のように話されたことを思い出しております。

 「イエス言ひたまふ『狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし』 (文語訳聖書 ルカ伝958節)」

 神の国を解き明かされたイエスさまに従った弟子の一人との語り合いの中で、言われたのが、このことばです。イエスさまに付き従うと言うのは、温かな寝具などない生活だったのです。イエスさまご自身、住む家も、宣教センターも、もちろん別荘もお持ちではなく、枕もベッドも毛布もない、そんな伝道生活を送られておいででした。

 召された弟子たちにも、その覚悟を求められたのです。中国の内陸を、中国服を着て、辮髪(べんぱつ/かつての中国人の髪型)にし、中国食を食べ、中国語を話して、福音宣教をしたハドソン・テーラーがいました。病気で子どもや夫人を亡くされたり、ご自分も病んだりしましたが、その奉仕は驚くほどのものがありました。最後1905年に、湖南省で召され、そこから天に帰って行かれています。

 この方も、イエスさまの真実の弟子で、今そのお孫さんが、志を継いでおられるそうです。

 今冬は、暖冬だと言われていましたが、実際には、極めて寒く、被災地の避難場所では、暖房設備がなく、低体温症が大きな問題となっています。また感染症も大きな問題となっているのです。ただご無事を祈ることしかできず、実際に行動の取れないもどかしさに、申し訳なさを感じてしまいます。災害関連死と言う悲しい事態から、被災者のみなさんが守られ、枕を高くして眠れる日が、一日も早く戻ることを切に願う週末です。

(ウイキペディアによる被災地の珠洲市の見附島です)

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コッペパン

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 ここ栃木県では、「早乙女」を、「そうとめ」と読むのです。県下のさくら市の地名で、苗字にもあるようです。「(喜連川/きつれかわ)早乙女温泉」がるあります。ちなみに、山形県山形市では、「さおとめ」と読むのです。春に田植えをする主力であった女性を、そう呼んでいたようです。

 さて、その苗字の児童文学者の早乙女勝元さんが、その自伝、「その声を力に」で、「コッペパン泥棒」という、小学生の頃の事件を述べています。それを、引用した藤原辰史さんが「給食の歴史(岩波新書)」の中である出来事を取り上げておいでです。

 『ある日、学校でコッペパン泥棒が出た。早乙女少年は、とっさに犯人が同じ貧乏暮らしの金田くんだと思った。金田くんは「自分のパンの半分を、弟や妹たちに持ち帰るのをのを知っていたからだ」。「学校でも給食のパンは、たいそうな貴重品で、登板から机上に配られてくると、先に目分量を確認せざるを得ない」。ゆえに、先生は怒り、「身に覚えのある者は、5分以内に前に出よと声を震わせた」。早乙女少年は「先生、ぼ、ぼくです」と身代わりなったのである。

 授業の終了後、校舎の裏に呼ばれた早乙女少年は、さきほどの理由を聞かれ、説明したのだが、先生は首を振って、「金田がパン泥棒じゃあない。むろん、お前もだ。真犯人は別にいる」と言う。名前も特定していて、「やつのこころをいれかえる」絶好のチャンスを、早乙女少年の身代わりによって失ってしまったのである。あまりにもおとなしく弱いので「勝元」ではなく「負元」とあだなされていた早乙女少年に先生は、「負元とばかり思っていたが、そうでもなさそうだ」と笑った。その勇気を見込まれて級長にさせられた、という。』

 様々なことがある学校の先生の大変さが伝わってくる、盗難事件です。半端なく貧しい級友がいて、一緒に立たされて、急に仲良くなって、ポケットを弄って小銭が出てきたので、カンパ金にして、彼に上げたことが、私にはありました。彼は、戦争孤児だったのでしょうか、本当にボロを身にまとっていて、いつの間にか転校していなくなってしまったのです。

 日本中が貧しかった時代があっての今の豊かさです。その豊かさの陰に、今も貧困があるのも現実です。それにしても、勝元少年の身代わり犯を申し出るの一件には、すごい勇気だと感心してしまいます。どういった顛末で、コッペパン紛失事件が収まったか分かりませんが、「ああ無情」の話も思い出されます。ジャン・ヴァルジャンがその主人公でした。

 『181510月のある日、ディーニュミリエル司教の司教館を、46歳の男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。姉の子ども達のために、1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していた。行く先々で冷遇された彼を、司教は温かく迎え入れる。しかし、その夜、司教が大切にしていた銀食器をヴァルジャンは盗んでしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えた」と彼を放免させた上に、残りの2本の銀の燭台も彼に差し出す。人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。(ウイキペディアから)』

 聖書に次のような箇所があります。

 『30:7 われ二の事をなんぢに求めたり 我が死ざる先にこれをたまへ

30:8 即ち虚假と謊言とを我より離れしめ 我をして貧からしめずまた富しめず 惟なくてならぬ糧をあたへ給へ

30:9 そは我あきて神を知ずといひヱホバは誰なりやといはんことを恐れ また貧くして窃盗をなし我が神の名を汚さんことを恐るればなり(文語訳聖書 箴言3089節)』

 自分の人生から、不真実と偽りの二つがないように、信じている神様を辱めるような生き方をしないように、私も生きようと決心し、そう心に決め、主に祈りながら、今日まで生きてきたでしょうか。正直に、公正に、公義を愛して生きることでしょうか。

 そう言えば、小学生の自分を夢中にさせた、東映のチャンバラ映画に、「早乙女主水之介」という侍が出てきて、額に、三日月の傷を持っていました。とても強かったのです。演じたのが市川右太衛門で、息子さんは北大路欣也で、同じように映画スターになっておられます。勧善懲悪の教えがあったのです。この早乙女勝元さんは、直木賞作家で、東京大空襲の体験から、反戦、平和主義を貫いておいででした。

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 飢えを、少なからず知っている世代としては、コッペパンを盗んで、お腹を一杯にしたかった気持ちが、痛いほど分かります。食べても、またお腹は空いてしまうのですから、心が満たされなくては、いつも盗みに誘惑されてしまうわけです。もう一度、コッペパンに、コロッケを挟んで、ソース味で食べてみたいものです。あの美味しさは、ハンバーガー・サンドに勝る物だったのです。

(ウイキペディアによるコッペパンです)

のちの日を笑ふ

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 恥ずかしながら、まだお酒を飲んでいた頃に、酔いにまかせて、格好を助けたかったのでしょうか、だいぶ夜も遅くなった電車の中で、

 妻(つま)をめどらば才たけて
顔うるはしくなさけある
友をえらばば書を讀んで
六分の俠氣四分の熱

戀のいのちをたづぬれば
名を惜むかなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む

くめやうま酒うたひめに
をとめの知らぬ意氣地あり
簿記(ぼき)の筆とるわかものに
まことのをのこ君を見る

あゝわれコレッヂの奇才なく
バイロン、ハイネの熱なきも
石をいだきて野にうたふ
芭蕉のさびをよろこばず

人やわらはん業平(なりひら)
小野の山ざと雪を分け
夢かと泣きて齒がみせし
むかしを慕ふむらごころ

見よ西北(にしきた)にバルガンの
それにも似たる國のさま
あやふからずや雲裂けて
天火(てんくわ)ひとたび降(ふ)らん時

妻子(つまこ)をわすれ家をすて
義のため耻をしのぶとや
遠くのがれて腕(うで)を摩す
ガリバルヂイや今いかん(以下省略)  

と歌ったのです。よくも恥ずかしくもなく、あんな風に歌ったものだなあと、25歳で酒をやめた私は、あの頃を思い出して、今でも赤面を禁じ得ないのです。

 隣に座っていたおじさんが、この方も、お酒に酔っておいでで、若造の私に、『きみー!』と、声をかけて来たのです。『いないんだ、才長けた妻なんて、どこにもいなんだぞ!』と、与謝野鉄幹の詩を否定するように、ご自分の現実でしょうか、それをぶっつけて来たのです。未婚の私が、結婚を、そろそろ考え始めていた頃でした。

 聖書の箴言31には、次のような箇所があります。

10 誰か賢き女を見出すことを得ん その價は眞珠よりも貴とし

11 その夫の心は彼を恃み その產業は乏しくならじ

12 彼が存命ふる間はその夫に善事をなして惡き事をなさず

13 彼は羊の毛と麻とを求め喜びて手から操き

14 に商賈の舟のごとく遠き國よりその糧を運び

15 夜のあけぬ先に起てその家人に糧をあたへ その婢女に日用の分をあたふ

16 田畝をはかりて之を買ひ その手の操作をもて葡萄園を植ゑ

17 力をもて腰に帶し その手を強くす

18 彼はその利潤の益あるを知る その燈火は終夜きえず

19 かれ手を紡線車にのべ その指に紡錘をとり

20 手を貧者にのべ 手を困苦者に舒ぶ

21 彼は家人の爲に雪をおそれず 蓋その家人みな蕃紅の衣をきればなり

22 彼はおのれの爲に美しき褥子をつくり 細布と紫とをもてその衣とせり

23 その夫はその地の長老とともに邑の門に坐するによりて人に知るるなり

24 彼は細布の衣を製りてこれをうり 帶をつくりて商賈にあたふ

31:25 彼は筋力と尊貴とを衣とし且のちの日を笑ふ

26 彼は口を啓きて智慧をのぶ 仁愛の敎誨その舌にあり

27 かれはその家の事を鑒み 怠惰の糧を食はず

28 その衆子は起て彼を祝す その夫も彼を讃ていふ

29 賢く事をなす女子は多けれども 汝はすべての女子に愈れり

30 艶麗はいつはりなり 美色は呼吸のごとし 惟ヱホバを畏るる女は譽られん

31 その手の操作の果をこれにあたへ その行爲によりてこれを邑の門にほめよ

 この聖書の記事は、微笑みを絶やさない、穏やかな女性が、理想像のように語られている箇所です。この時代が求める理想の女性像とは、ちょっとかけ離れていますが、他者、とくに弱者を顧みることにできる、愛に動機づけられた女性を、ことさらに家族愛に溢れている女性、そんな様子を聖書は推奨しているのでしょう。

 理想と現実の違いがあるかも知れませんが、男子が女子(ひと)を得る過程に、神さまの導きがあるのを知るのです。今春、五十三年を迎え、二人が互いに支え合って生きてこられたことに、深く感謝する日々なのです。華南の街でも、今住むこの街でも、道行く私たちを見て、「好夫婦」だと言われるのですが、もしそう見えるなら、ただ神さまの助けや祝福があってのことに違いありません。

 子どもたちの安心も、老いても仲良く過ごしている様子なのです。駅のコンコースの「街かどピアノ」を弾きたくなった家内と、この月曜日に、散歩がてら出掛けました。時々声をかけてくださる方たちがいるのです。奥様の葬儀帰りに、たまたまピアノの演奏を聴いたのだそうです。奥さまがクリスチンだったとかで、讃美歌がお好きだったのを思い出して、しばらくお聞きになって、声をかけてこられたそうです。

(栃木市の街角ピアノの案内です)

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Dreames

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 母の故郷の出雲市に、「一畑(いちばた)電気鉄道」と言う電車会社の駅があります。110年ほどの歴史があるのです。その電鉄出雲市駅から出雲大社駅への「大社線」、松江しんじ湖駅への「松江しんじ湖線」があります。

 1914年に、出雲今市駅から平田駅、翌1915年に、平田駅から出雲大社駅や一畑駅、そしてしんじ湖駅まで延伸してます。地方の小都市で、頑張ってきている私鉄の会社で、母の故郷でもあることから、過疎化の波に押されて赤字路線や廃線になる場合が多いのですが、応援しています。

 この路線を背景に、映画が制作されたことがあります。映画は、「Rail ways 49 歳で電車の運転手になった男に物語」でした。往年の大スター佐田啓二の子の中井貴一が主演しています。その内容は次のようです。

 『50歳を目前に電車の運転士になる決意をした筒井肇は、大手家電メーカーの経営企画室長。取締役への昇進が内定するなど、東京で妻子とともに暮らす彼の人生は一見、順風満帆そのものだった。そんなある日、故郷・島根に住む肇の母が倒れたという一報が入る。さらに、親しかった肇の会社の同期が自動車事故で亡くなった。久々に帰郷した肇は、家庭を顧みてこなかったこれまでの人生、そして今後の人生について考えた。そして自分の子供の頃の夢だった「一畑電車の運転手になる」ことを実現すべく会社を退職し、一畑電車に中途入社することとなった。晴れて運転士となったのは肇の他にもうひとり、肘の故障でプロ野球入りの夢を絶たれた青年・宮田がいた。(ウイキペディアによる)』

 50歳で、男の夢、男の浪漫、子どもの頃の夢を、現実にしたのですから、正直、『いいなぁ!』と羨ましく思わされた映画でした。思い返しますと、今のように衛星もなければ、コンピューターもない時代、自分は、絶海の海をゆく遠洋航路の船に乗って、本国や、訪問国、海上の船たちと、モールス信号で位置確認や情報交換をする「通信士」になるのに憧れたのです。

 その動機づけは、父の机上のモールス信号の発信機でした。簡単な仕組みなのに、はるか彼方との間で、意思を疎通させる仕組みに、強烈な関心を向けたのです。父は、軍部や本社との間で、機密の連絡を取り合っていたのでしょう。それを見聞きしていた私は、『無線通信士になりたい!』を持ったのです。

 小学校に入って、56年を担任してくださったS先生、中学三年間を担任してくださり、社会科を教えてくださったK先生から、強烈な感化を受けたのです。世の中に起こったこと、起こること、社会の仕組み、世界、歴史の歩み、将来の展望、人間などについて教えられて、『教師になりたい!』と思ってのです。

 立たされ坊主なのに、散々迷惑をかけたのに、叱ったり拒絶されなかった先生に、『よく立ち直った!』と言われて、ハッと目が見開いた自分でしたが、その感動と感謝が大きかったのか、教師になれたのです。教育学を学んだのではないのですが、中学一級、高校二級の教員免許を取って、実際に、女子校の社会科教師に就くことができたのです。

 一緒にボールを、追いかけ、投げ合ったクラブ仲間が代表で、『準、本当にお前教師してるんだ!』と、訪ねて来て、目をまん丸くして、じっと見ていたのです。学園事務所の受付で、10分くらい話し合ったでしょうか。お祝いと菓子折りを持ってきてくれました。悪(わる)が教員になったのが信じられずに、確かめに来たのです。
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 牧師になった時には、もうだれも来ませんでした。ただ、お金を借りに一人の級友がやってきたことがあっただけでした。お母さんがクリスチャンだとかで、その縁ででしょうか、くたびれた格好で来たのです。二万円ほど貸さずに上げました。子育て中の流行らない牧師には身一杯でした。

 「1:15 『キリスト・イエス罪人を救はん爲に世に來り給へり』とは、信ずべく正しく受くべき言なり、其の罪人の中にて我は首なり。

1:16 然るに我が憐憫を蒙りしは、キリスト・イエス我を首に寛容をことごとく顯し、この後、かれを信じて永遠の生命を受けんとする者の模範となし給はん爲なり。(文語訳聖書 テモテ前書11516節)」

 叶えれれた夢、叶えられかった夢がありますが、考えても見なかった、「キリスト教伝道者」になった、自分の人生の展開には、未だに驚きいったままでおります。今は責任から離れておりますが、ただ「赦された罪人」の感謝な今があるのみです。

 母ですが、母にも夢があったのでしょうね。山陰の宗教都市で、養女であった母には、結婚への夢、母親になる願いがあって、それが叶えれれただけではなく、心の奥に秘めた” Dream “ があったに違いありません。兄たちや弟は、何か母から聞いていたでしょうか。自分は聞かずじまいでした。

(ウイキペディアによる「一畑電鉄」、Christian clip arts による説教するパウロです)

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台湾の離島を懐かしみながら

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 在華13年の間、その後半頃には、3ヶ月に一度、台湾の金門島に日帰りをして、ビサの更新をしていました。一時間ほどの乗船だったでしょうか。波止場に牛肉麺屋さんがあってお昼をし、帰りの直近の便で戻るのです。一度だけ旅館に宿泊したことがありました。その近くに、知人の息子さんが、どうしても行きたくて行った、金門の “ 7-11 センブンイレブンに行ってみたのです。今、彼は、東京の名門大学に学んでいます。

 さて、一泊した翌日、drugstoreにバスで出掛けたのです。ところが、帰りのバスの便が少なく、しかも暑い日で思案にくれていましたら、一台の乗用車が、行き過ぎてから戻って来て、目の前に停まって、話しかけてくれたのです。日本人で、訪問中で、バスの便がなくて困っている旨話しましたら、『どこに行きますか?』と聞いてくれて、『アモイ行きの船の出るフェリーターミナルまで行きたいんです。』と言いましたら、親切にも、『乗ってください。お連れします!』と言ってくれたのです。

 あんなに助かったことはありませんでした。車の中で、日本に行ったことがあって、とても素敵な国だと、思い出を話してくれました。私は、以前、本島の台北から高雄まで、宣教旅行を兄と一緒にしたことがあったことなど話していたら、ターミナルに着いたのです。それで感謝をしようとしましたら、『不用buyon!!』と言って受け取らないで去って行かれたのです。爽やかな若いcouple だったのです。

 それ以前、台南にいた時に、日本語の上手な方と話をしていましたら、『日本統治の時代には、駐在所があって、家に鍵をかけなくても、治安が良くて、泥棒が入ることなどなかったんです!』、服の縫製と輸出をされれいる方が、お茶を立ててくださった時に聞いた話でした。駐在さんがいて、街を守っていてくれたので、平和だったのだそうです。対日感情は、とてもよかったのです。日本が敗戦で、撤退した後は、元の木阿弥(もとのもくあみ)、で、昔の台湾に戻ってしまったのだそうです。

 日本の侵略だけが取り上げられる中で、日本支配の優点を、台湾のみなさんが、前の世代から語り継いでいた日本への好意でした。台湾の南西部の農地は、塩分濃度が高かったそうです。それで、米などの収穫量が、他の地域に比べて少なかったのです。そんな嘉南平原が、農地の生産力を強化して、穀倉地帯に変わっていった理由がありました。

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 日本人の八田與一が、農業用水確保のために、灌漑用ダムを建設したからです。それが、「烏山頭水庫wushantoushuiku」と呼ばれた農耕用の貯水ダムなのです。これを設計し建設した、八田與一は、石川県の現在の金沢市で生まれ、東京大学で土木工学を学び、台湾総督府の土木部門に就職しています。1918年に、台南の嘉南平野の調査を始めているのです。旱魃があって、農地としては使えない状況であるのが分かって、灌漑事業の必要性を感じ、国家公務員の職を辞して、一介の技士として、ダム建設に当たったのです。

 1920〜30年の間、途中日本本土の東京を中心に襲った、関東大震災(1923年に起きました)の最中も、ダム建設に励んだのです。八田與一は、ダム建設の実務だけではなく、共に働く仲間の福利厚生面にもl気を使った人だったようです。宿舎・学校・病院なども建設整備しています。温情あふれる指導者だったからでしょうか、顕彰碑(胸像)などが、今でも烏山頭水庫の岸に建てられています。

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 2014年に、台湾映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」が、台湾で製作上映されたのですが、その映画にも、八田與一が登場する場面がありました。嘉義農林学校の野球部を、甲子園中等学校野球大会に出場させた、元松山商業の監督・近藤兵太郎が猛練習の指導をして、台湾代表として出場し、準優勝したのです。昭和6年の夏のことでした。『球(たま)は霊(たま)なり。霊正しからば、球また正し』と言い残して、野球の真髄を突いておいでです。八田と近藤は共に、台湾で活躍した代表的な日本人と言えます。

 こう言った日本人が、占領下で、政治的な思惑とは関わりなく、人道的な行いをして、活躍したと言うことこそ、21世紀の私たち日本人が忘れてはいけないことに違いありません。上の兄に誘われて台湾訪問をしたのですが、台北から高雄まで、台湾新幹線に乗って、幾つもの街で降りて、兄と私は別々の教会を訪ねて、特別集会を持たせていただいていたのです。

 すっかり台湾贔屓になって、美味しい台湾料理をご馳走になって3、4kgも体重が増えてしまいました。美味しい中国茶を飲みながら、日本統治時代を聴かせていただき、いつか家内と一緒に訪ねたいと思っていたら、大陸に導かれてしまい、13年も過ごすことになった次第です。

 この13日に、台湾の総統選挙が行われ、頼清徳氏(民進党)が、第八代総統に選ばれました。第四代の総督の李登輝氏は、新渡戸稲造の知的にも信仰的にも、強い影響を受けた指導者でした。これからの台湾政治に、その頼氏の活躍に期待します。

 この金門島の名産は何だと思われますか。包丁などの刃物なのです。大陸から打ち込まれた砲弾の破片を原材料にしているのだそうで、お土産屋さんには、たくさん並べられている、悲しい歴史があるのです。私たちにはとても懐かしい島であります。

(ウイキペディアによる「台湾風景」、嘉義農林の準優勝チームです)

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森有礼の思う壺かも

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 「劣等感」と言うと、〈劣っていて役立たず〉にみられてしまうので、” complex “ と言い換えて、劣等感に被せものをして誤魔化そうとする、心の動きが見えて仕方がありません。

 市の支援センターからの「ふれあい通信」が、今朝、配られてきました。そこに、「フルエル(震える)予防をしましょう!』とあります。ごめんなさい、歳をとると、体が震えるので予防をしよう、と言う注意勧告かと思いましたら、“ Frailty /フレイルティを、変えて言っているのが、辞書を引いて分かったのです。「フレイル加齢により心身が老い衰えた状態」の「虚弱」と言う意味だそうです。「虚弱」は、強いことばなのでしょうか。『それを使わない方がいい!』で、英語のカタカナになったのでしょうか。

 このところ、ラジオのニュースとか解説とか特別時事問題などを毎夕聞くのですが、実に、〈カタカナ〉の使用が目立つのです。で、最近は英和辞典をそばに置いて、『今なんて言ったの?』、「何ていう意味?』の答えを見つけるばかりなのです。

 これって、日本人の言語complex なのではないかと思うことしきりなのです。明治時代の書生さんが、

  デカンショ デカンショで半年暮らす  ヨイヨイ
あとの半年ゃ寝て暮らす  ヨーイ ヨーイ デッカンショ 

 薩摩芋の種類に〈デカン薯〉があって、それを言っているのかと思ったのですが、それは、「デカルト」、「カント」、「ショウペンハウエル」のことを言ってるが分かったのです。西洋思想や学問の学びの象徴と言って優れた西洋の哲学者の名を、放歌高吟した、書生さんたちの心意気で歌ったのです。

 それくらいはいいと思いますが、爺さん婆さんが聞くニュースの中に、英語のスペルをはっきり言ってくれるなら分かるかも知れないのですが、日本語化した英語を聞かされて、ただ混乱するだけで、『こんなこと知らないと時代遅れになるのではないか?』と恐れるあまり、「震える」ことなんだ、歳とると、よくおじいちゃんが震えていたからなあ!』と思い突いたわけです。

 この傾向、すなわち〈カタカナ語化〉は、どこまで行くのでしょうか。日本語が消えてなくなり、日本での英語化を提唱した、明治の要人、文部大臣を務めた森有礼の思う壺になっていくのでしょうか。日本語の表現とは、綺麗で、素晴らしいので、もっと生かして用いていただきたいものです。

(ウイキペディアによる「カタカナ表記」です)

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函館の人

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 菊地吉彌牧師の「ひとりの重さ」の中に、一人のカナダ人のことが記されてあります。菊地師の函館時代に出会って、恩師として仰いだ人が、ウイリアム・レニー師でした。この人について、函館市文化・スポーツ振興財団の機関誌の次のような記事があります。

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 函館名物に、『一に朝イカ、二に石川啄木、三にウイリアム・レニー!』と謳われ、函館の人をこよなく愛し、その持てる物すべてを与え、祈りの生涯をつらぬきとおしたカナダの恩人。1866年(慶応2年)1117日、カナダのトロントで父ウィリアムと母サラの三男として生まれる。

 レニー家は、カナダの開拓農家であった。開拓時代に、父や叔父の経営した農場は、最優秀経営農場として表彰を受け、父の創設した種子会社は、全カナダの農家に広く知られて繁昌した。裕福な家庭環境で幸せな少年時代を送ったレニー先生はやがて農学校に進み、卒業後は父の農場で農夫として働く。そのかたわらYMCAの活動に参加する。

 明治21年東洋を回ってきたYMCAの先輩が、日本は後進国であるから、文明の進んだ国の人たちが行って助けなければと言う話を聞き、これが機縁となって来日することになる。横浜に上陸すると、昼間はラシャ販売店に勤めたり、聖書を頒布する米国聖書協会の書記などをし、夜は日本語学校へ通い、日本語を学んだ。

 ある時、泥酔して千鳥足で歩き回わる日本人の姿を見て、日本に必要なものはヨーロッパの文明よりもっと大切な人間の魂を救う宗教ではないかと思い伝道者になる決心をする。

 明治23年、そのために必要な学問をすべく帰国する。高校からトロント大学へ進み、文学士の称号を取得し更にノックス大学(神学校)に学び神学を修める。

 明治39年、再び日本の土を踏む横浜に上陸してすぐに、函館の中学校で英語の教師を探しているのを聞き、日本のキリスト教主義の学校で働くよりは、普通の公立学校で働きたいと考えていたレニー先生は、早速函館に向った。庁立函館中学校(現・函館中部高校)、函館商業学校(現・函館商業高校)、函館工業学校(現・函館工業高校)、函館商船学校(昭和103月廃校)で英語教師として教壇に立った。

 住いは、元町の商業学校の近くに下宿したが、間もなく汐見町の金森森屋の貸家を借りる。その家は、函館の中心街であった十字街から坂を上ったところにあった。レニー先生は、乗物には一切乗らず、家を出て坂を下り十字街に出て、電車通りを時任町の函中まで駆け足で通勤した。

 山高帽に古洋服、ドタ靴が、トレードマークとなったが、汐見町に住んでいた頃は、タキシード、天火、冷蔵庫、鏡のついた洗面器、本箱、立派な額、ベッドなどを所有していた。

 生活費としては、英語教師として受ける各学校からの相当の収入があり、また父の遺産として年間3000円の送金を受けていた。しかし、それらのお金の大部分は、教会への献金、伝道者への補助、学生の援助、貧民への施し、伝道用の書籍やパンフレットの購入等に用い、自分の生活は極めて簡素であった。

 日中戦争が始まると憲兵や特高の目が光るようになり、毎年夏になると地方伝道に出掛けるのを、スパイ行動と誤解され、圧迫がきびしくなる。憲兵や特高ににらまれるだけではなく、これまで可愛いがり馴れ親しんできた近所の子供たちまで、外人なるが故に敵視するようになり、家のガラス窓は石で壊わされ、幾らも持ってない持ち物は、何もかも盗まれてしまうまでになった。

 昭和162月、この頃から宣教師の引き揚げが始まり、912日、レニー先生も目に涙をいっぱい浮べ「今の文明はだめです」の言葉を残して帰国の途についた。この時74歳であった。

その後の消息はしばらく不明だったが、教え子の元に届いたカナダ人牧師からの手紙で昭和26515日に84歳で死去したことが判明した。

昭和471026日、函館中部高校前の児童遊園地の一角に教え子らによって記念碑が建てられ、毎年、教え子が集まって亡き師の遺徳をしのぶ会を開いている。今年も515日記念碑の前で行われる。

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 母は、昭和初期に、近所の友だちに連れられて訪ねた、島根県下で伝道されたカナダ人宣教師家族との出会いを通して、万物の創造者が「父」でいらっしゃること、その御子である救い主イエスと出会って、信仰に導かれています。

 『全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよ。  信じてバプテスマを受くる者は救はるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。 「文語訳聖書 マルコ伝福音書161516節)』

 十字架の福音宣教に召された人たちの奉仕で、日本人は、神を知り、神の御子イエス・キリストを知るに至りました。レニー師は1864年に生まれていますので、1861年に生まれた内村鑑三と、ほぼ同世代人でした。精霊なる神さまは、人を召して、福音宣教に奉仕にお連れになられます。令和の時代も例外でありません。

(ウイキペディアによる五稜郭タワーから眺めた函館市街地と函館山、市花のツツジです)
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緊急事態を知らせてくれて

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 危険が迫っている時、「ことば」によって、それがどれほど危険が迫っているかを伝えるのは、道具や機器なしでできる、もっとも優れた伝達手段なのです。

 この正月2日、ラジオで、地震緊急放送がありました。津波が襲ってきて、すぐに高台への避難を促す、アナウンサーの声が、必死だったのです。まさに異常事態を伝える、ふだんラジオでは聞けない、声の高さ、命令的な言い方でした。

 聞いて、従う必要があったのは、能登半島地震で揺れた海岸付近においでのみなさんでした。『今すぐに、今すぐに!』を繰り返していました。『今すぐに逃げること!』、『高いところ、高台に避難すること!』、異常事態の緊急連絡としては、簡潔で的確でした。説明なしの伝達でした。

 逃げる必要のない、北関東の内陸、しかも四階にいて、大きく長く揺れる中で聴いた私の腰を浮かさせ、立ち上がらせるに十二分な迫りの声を聞いたのです。悠長に選び取りをする事態ではないとの公共放送の役割を感じた声だったわけです。

 「ことばの伝達」の力は大きいのを感じたのです。その「ことば」よりも早く、確実に緊急事態を告げるのは、「火」です。

 紀州有田郡湯浅廣村(現在の和歌山県有田郡広川町)の高台に住む村長の家の井戸の水が急に引いたのです。その異常で、津波の到来時の異常事態を理解した、村長が、海岸の近くに住む住民に、非難を呼びかけるために、村長宅の田んぼに、収穫して干してあった稲むらに火をつけたのです。

 1854年(安政元年)1223日午前10時に起こった「東海地震(全国で20003000人が亡くなっています)」での、村長の英断、決断、行動が、多くの村民を、津波から救った実話なのです。

 その火を見た、村民が、『村長の家が火事だ!』と言って、その消化活動のために高台に駆けつけたのです。それが緊急避難となって、津波での死を免れたそうです。これは、ラフカデオ・ハーン(小泉八雲)が書き残した「稲むらの火」と言う物語りとなって、小学校でも教材となって教えられたのです。

 鐘やサイレンを鳴らしたりして、そして、Media の媒体によって、緊急事態を告げる「ことば」の持つ力は、実に大きいのです。『逃げろ!』、『出ろ!』、『走れ!』、『来い!』、人に行動を起こさせるための伝達手段です。NHKのアナウンサーの一見、hysteric な声は、驚かせたのですが、ラジオの持つ役割の大きさ、広さを感じて、たいへん感謝でした。

(ウイキペディアによるShure Brothers社のマイクロフォンです)
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昭和、時と街と歌、そして私

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『イエス言ひ給ふ『なんぢらは下より出で、我は上より出づ、汝らは此の世より出で、我は此の世より出でず。 (文語訳聖書 ヨハネ伝8章23節)』

 「昭和」と言う響きは、戦争、敗戦、欠乏、地震災害などの暗い面ばかりではなく、豊かさ、躍進、新幹線、オリンピックなどのキラキラした時代で、この自分が生まれ、そういった時代の吸った空気そのものを思い起こさせてくれる時代でした。

 その時代に運ばれ、そのまま大人になって生き始めていった時代だったのです。もどかしく、不確かな時を重ねて、父を見上げ、兄たちに真似、映画スターに影響され、父のタバコを盗み吸いをし、盗酒の味も知り、興味津々で大人の世界に足を踏み入れ、戸惑ったり、危険を感じたり、刺激いっぱいでした。タバコの煙、酒のにおい、母になかった化粧の匂い、溢れるほどに罪の感じられる匂いが立ち込めていたでしょうか。

 そんな脇道をたどり、歩き回って、母の魂の故郷だったでしょうか、キリストと、キリストを信じる人たちの群れ、キリスト教会にたどり着いたのです。そこで佳人を得て結婚し、四人の子育てに懸命な時を過ごしました。そして老いを迎えたのは、平成であり、とっぷり浸かっているのは、令和の今なのです。時は流れ、人が行き交い、去っていき、またやって新たな出会いがあります。

 父も、母も、恩師たちも逝ってしまいました。「走馬灯」のように、顔出しでの思い出ばかり、表情やことばや、それぞれの時のニオイも思い出させてくれます。VideoでもCDromでもFace Time  ではないのです。紙芝居や幻灯で映し出されるかのような懐かしさイッパイの映像です。聞き覚えの歌の一節、『  ああだれにも故郷がある、ふるさとがあーる ♯』が口を突いて出て来ます。

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 19261225から198917日を、時代区分で「昭和」と呼びますが、再来年は、「昭和百年」を迎えるのだそうです。生まれた故郷があり、育った街があり、独立して子育てをした街、命をかけて移り住んだ街、たくさんの街を通り抜けた街の中で、「新宿」は、もっとも昭和の匂いを思い出させてくれる街なのです。南新宿に家を買って、子育てをしようと考えた父が、盛場の近くを避けたのは、父の大英断だったのです。

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 作詞が悠木圭子、作曲が鈴木淳で、八代亜紀が歌った「なみだ恋」に、次のような歌詞がありました。

夜の新宿 裏通り
肩を寄せあう 通り雨
誰を恨んで 濡れるのか
逢えばせつない 別れがつらい
しのび逢う恋 なみだ恋

 子どもの頃、電車に跳び乗れば、一本で行けた新宿でした。二十歳を過ぎた頃、この街の場末の裏通を、どこへ行くともあてなく歩いていたのです。それほど恋の危なげなど感じなかったのですし、そんなに入り込まないようにしていたと思っていました。いえそんな冷静ではなかったかも知れません。隣りには、札幌から出て来ていた同級の女ともだちがいました。肩を抱くようなことはなかったのですが、時には肩が触れながら、そぞろ歩いたのです。生意気盛り、大人ぶっても、中身は子どもでした。新宿の京王線の改札まで送って、指も触れないまま、卒業後、彼女は札幌に帰って行きました。

 あの頃を彷彿とさせてくれる新宿の街は、この歌が言っているようだったかも知れません。自分たちの場合は、そんなに切なくも、危なかしくもなかったのですが、昭和の立ち込めた街を歩いた時を思い返して、この歌が言ってるようなことがあり得たかな、と思い出すと、やはり危なっかしさに晒されていたのかも知れません。

 演歌全盛が昭和だったでしょうか。その時代の男たちが支持した、その頃を代表するような女性歌手が、その八代亜紀でした。昨年末に亡くなったと、ニュースが伝えていました。「昭和が行く」、まさにあの頃を切々として思い出されて参ります。これも「この世」の現実であり、わが青春の譜の一頁なのでしょう。

 だれもが定められた時と場所を、人は生きて、その走路を走り終えるのです。「此の世」で、どう生きたかを問われるお方がいると、聖書は、厳粛に言います。全てをご存知の神さまが、私の行いや思いを精査される時、「神のみ前で弁護(KJ訳は advocate )してくださる方(1ヨハネ2章1節)」を、私が頂いていて、救われるのを感謝しては、ただ喜びにむせぶことでしょう。

(ウイキペディアによる「富士を望む新宿」、新宿御苑、青年期の頃の新宿風景です)
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