[人]保科正之

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 私の住む街の表玄関は、両毛線と東武日光、宇都宮線の「栃木駅」です。ここから乗る特急は、鬼怒川線、野岩鉄道線、会津鉄道線で会津田島まで行き、そこで乗り換える便で、会津若松まで行けるのです。住み始め頃から、会津を訪ねたいと思いながら、果たせずに今に至っております。

 そこには、「明君」と称えられた保科正之(ほしなまさゆき幼名は幸松です)と言う、会津藩の初代藩主がいました。徳川二代将軍の秀忠が父で、母は静、庶子とされています。その誕生は、父秀忠の側近だけが知るのみでした。三代将軍となる家光の異母弟にあたります。武家社会や大奥の習わしで、世継ぎの子を儲けるためか、大名統治の関係か、正室の他に側室が多かったので、複雑な系図が見られます。

 庶子は冷遇されるのが常で、信濃国の高遠藩に預けられ、藩主・保科正光は、徳川将軍のご落胤(らくいん)を、畏れつつ育てます。そして正光の跡を継いで、1616年(寛永8年)に藩主となるのです。ついで、1636年(寛永16年)に山形藩の藩主となります。そして、1643年(寛永20年)に、会津藩主となっていきます。

 正之は、その手腕で、「文治政治(武断政治は武力でしたがこれは学問や教育を重んじる政治でした)」を行いました。それで、主君が亡くなっての殉死の禁止、末期養子の禁の緩和などを行います。また徳川政治の関与し、甥にあたる徳川第四代将軍の家綱の政治を、一家臣のようにして助けていきます。

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 それで玉川上水の開拓など、様々な改革を打ち出しました。政治的手腕は会津にも発揮され、産業の発展に何より力を注いでいました。また1657年(明暦3年)の「明暦の大火」では、江戸城の天守が焼失した際、江戸城の天守の再建よりも民衆の生活の安定に努め、以来江戸城の天守が再建されることはありませんでした。

 会津藩には、「会津家訓十五カ条」がありました。その家訓を定めたのが、正之でした。

一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。 上下の分、乱るべからず。
一、兄を敬い、弟を愛すべし。
一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、主を重んじ、法を畏るべし。
一、家中は風義を励むべし。
一、賄を行い、媚を求むべからず。
一、面々、依怙贔屓すべからず。
一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、法を犯す者は宥すべからず。
一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし。

右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文八年戊申四月十一日 会津中将 家老中

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 幕末にも、徳川の側に立ち、長州軍と戦った白虎隊も、この家訓を守るために、勇ましく戦っていたのは周知の事です。

 会津藩は、幕末に至るまで、徳川の側について、長州の勢力との戊辰戦争の中で、飯盛山で自刃して果てはてた「白虎隊」で有名です。

 同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子どもたちは、十人前後で集まりを作っていました。この集まりのことを会津藩では「什(じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が「一人什長(座長)」となりました。

 毎日順番に、「什」の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

 会津の忠誠心は、驚くべきものがありました。新島襄の夫人であった八重は、会津の武家の娘で、手に鉄砲を持って、長州軍と戦ったほどでした。新島に、『生き方がハンサムです!』と言われた夫人でした。初代藩主と幕末の会津藩士とは、心に繋がりがありそうです。徳川初期の名三君の一人に、保科正之は、その名を挙げられています。

(会津若松の「飯盛山」、高遠城址公園です)

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あゝなんと美しいのだろう!

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  大宇宙こそ、神秘の極みではないでしょうか。計り知れない単位でしか、その距離を表現できない彼方のきらめく星々が、整然と大空に散りばめられているのを観て、古代の人たちは、想像をたくましくさせて、星や星座や星雲に、名前をつけました。

 大航海時代、地中海沿岸部で見られたのですが、やがて見られなくなった「南十字星」は、十六世紀、イタリアの探検家のアメリゴ・ヴェスピッチがアンドレア・コルサーリによって発見されています。

 大空を見上げる少年の思いって、けっこう強烈なのです。北半球にいるので、赤道の南側の世界への思いは、けっこう強いのでははないかと思います。『南十字星を見上げてみたい!』、北半球だって知らない私なのに、未知なる南半球、しかも南十字星の見える地への訪問の願いを、十代に持っていました。

 肉眼でとらえられる、渦巻のようなアンドロメダ星雲だって、じっくり眺めてみたいのです。七夕になると、年に一度だけ注目されるのですが、「天の川」を、中国の詩人の蘇軾は、詩の「中秋月」の中で、「銀漢」と呼びました。

暮雲収盡溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

 時がゆっくりと過ぎていった時代には、詩心をもって天空を眺められたのでしょう。芭蕉も、

 荒海や 佐渡に横たう 天の川

と、宇宙が広大に広がる様を、越後の海岸から佐渡が視野に入った空を見上げて観たのでしょう。英語の詩でも、次のように詠まれています。

“I Know the Stars”

I know the stars by their names,

Aldebaran, Altair,

And I know the path they take

Up heaven’s broad blue stair.

I know the secrets of men

By the look of their eyes,

Their gray thoughts, their strange thoughts

Have made me sad and wise.

But your eyes are dark to me

Though they seem to call and call —

I cannot tell if you love me

Or do not love me at all.

I know many things,

But the years come and go,

I shall die not knowing

The thing I long to know.
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 宇宙の神秘さは、洋の東西を問わないで、誰もが強烈に感じるのでしょう。さて、昨日、初めての光景を目にしたのです。それは『あゝなんと美しいのだろう!』、との印象だったのです。想像したよりも、綺麗で《いのち》が微動しているのです。そう、そこは《いのちの世界》でした。

 市の検診で要注意の知らせが来て、昨日は、医院に出かけて内視鏡の診察をしてもらったのです。食道と胃と十二指腸を、胃カメラが映し出す映像を、鼻から入れられた医療カメラの映像を、映し出したモニターテレビを観たのです。その画像を見た時に、詩篇139篇のみことばを思い出しました。

 『それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇1391316節)』

 monitor に映された私の内臓は、何億光年もの彼方で、光り輝いている様よりも、さらに神秘的でした。神が、創造者として、「組み立て」た以外には、考えることができなく感動的でした。光を当てられた、私の内蔵は、柔らかで生き生きとして輝き、いのちの動作を繰り返していました。胃壁や十二指腸が、こんなに綺麗だとは考えたことがありませんでした。

 母の胎に、《いのち》を付与なさった神が、その日から、78年もの間、活動させ、それぞれの臓器に託した役割を果たさせ続けてきたのも、自分の意思でではなく、神によるのだと分かったのです。口から食べた食物で、いのちを養い、傷を癒やし、無益な食べ物も砕き、吐き出させたり、排泄させ、たまにはお腹が、『グウー!』と鳴ったりしてしてきました。

 人の体ほど、精緻に造られているものはありません。神の《最高傑作》の被造物なのです。神に似せられて造られた被造物であることが、真に理解できた一日でした。母胎に宿った日から、1日も欠かさず、見守り、機能させ続けてくださってきた神がおられるのです。もっと大切に、体も心も美しく保たなければならないことを、感謝の内に示されたことでした。

 心は、覗き見ることができませんが、聖書のみことばに反映させて、知ることのできる世界です。昨日よりも今日の方が、曇りのない心でありたいものです。それにしても、綺麗な私の内部でした。内奥でした。

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アンテナを張って見守れ

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 私たちには、「表現の自由」、「言論の自由」、「知る権利」、「信教の自由」などが、憲法で保証されていますが、その自由が、悪用されて、ある時は、人を惑わし、恐怖させる犯罪が起こり得ます。

 『すべて人は、意見及び表明の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。(世界人権宣言 19条)』

 『1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。(日本国憲法21条)』

 「自由」の履き違い、勝手な解釈、自己都合による解釈、言い逃れのため、偽情報の流布などが、多くみられます。信教の自由という名で、強引な伝道をし、人を恐れさせ、入信を強要し、信仰のためと言って、あくどい迫りをし、〈何でもありき〉になって、大きな社会問題になっています。様々な名目での献金の強要、信じられないほど高額な宗教用具を、人の弱みに漬け込んだ販売、集会への強制参加、そんな大きな社会問題を生んでいます。そればかりではなく、「脅し」もあります。人の恐怖心を煽ることによって、社会不安を増幅させているのです。

 例えば、「キリストの再臨」についてですが、預言者の様に、その日を特定しています。何を言うのも自由ですが、聞く人によっては、大きな精神的な問題をきたしてしまうのです。いくつかの例取上げてみましょう。

 [エホバの証人のラッセル]

 ラッセルは 1.地獄はない 2.永遠の刑罰はない 3.イエスは神ではないという説を立てました。1870年初め、彼が19歳のころ、ピッツバーグ市で聖書研究会を発足させ、1881年にそれを「シオンのものみの塔冊子協会」と名づけ、エホバの証人の土台を作りました。ラッセルは、キリスト教の教理の多くを否定するとともに、いくつかの予言をしました。1914年にハルマゲドンの戦争(世界最終の戦争)が始まり、1915年までに世界は終わると予言しました。詳細には、その終わりの時までに十四万四千人の「エホバの証人」が集められ、この世の政府や一般のキリスト教会は減ぼされ、「エホバの証人」が世界を統一するという予言です。彼は64歳で心臓発作を起こし死亡しました。予言は当たりませんでした。

 [セブンスデーアドベンチィスト]

 終末の年代予言には考えるべき点が幾つかあります。一つには、少なからぬ人々が不安にかられたり、熱狂的になってしまったりすることです。1975年の時にも、学校や職場を退職して伝道に打ち込む信者もいたとのことですが、ウィリアム・ミラー牧師(元バプテスト派)が特定した主の日の様子に関しては、以下のように記録されています。

 「ミラーはキリストの再臨を1843年3月21日―1844年3月21日の間と特定し、再臨待望集会は100以上の場所で開かれ、熱狂的な雰囲気であった。運動は拡大の一途を辿り、一時参加者の数は6万人に達したと言われている。また一方でその特定は多くの人々を恐怖におとしいれ、財産を売るものもでてきた。・・・ある者は仕事を放棄し、屋根や山の上に登って天を仰いだ。しかし、その日も何の変化もなく、彼らの失望は非常に大きかった。・・・世間的現実に引き戻そうとする強制から精神不安定となり、精神障害者施設に収容された患者は、ボストン近郊だけでも170人以上もいたと報告されている」(ウィキペディア「セブンズデー・アドベンチスト教会」より)

 『では、ものみの塔の初代会長、C・T・ラッセルが予言した1914年には何が起きたのでしょうか。歴史に詳しい方ならピンとくるかもしれませんが、この年には第一次世界大戦が起こりました。これを見て、本当に予言通りだと思われた方々もいたようです。しかし、信徒たちが天に上げられる(携挙)ということは起こりませんでしたので、1843年のミラー牧師の時と同様に、失望した信者たちは組織から離れていきました。

 とはいえ、全員が去ったわけではありません。残った人々の中で、2代目の会長となったJ・F・ラザフォードが組織を再建していきました。彼は、「1914年以来、キリストが天での統治を開始し『終わりの日』が始まった」というように予言を再解釈し、基本的には現代に至るまでこの解釈を採っているようです。』

 [ハロルド・キャンピング/ロイター] 

 米国でラジオ放送局を運営するキリスト教徒の男性が、2011年5月21日を「最後の審判の日」と予言し、話題となっている。予言では21日に地震が発生し、信仰心の厚い人は天国に召されるが、そうでない人は取り残され、数カ月にわたって続く世界の破滅に巻き込まれるという。

 予言をしたのは「ファミリー・ステーション」のハロルド・キャンピング(89)。同氏は1994年にイエス・キリストの再臨を予言したことがあるが、今回の予言について、「いかなる疑いの影もなく成就する」と自信をのぞかせた。

 ファミリー・ステーションは全米に66局を配し、提携先を通じ30カ国語以上で世界各地に向け放送を行っている。

 キャンピング氏の支持者は、全米約2200カ所に最後の審判の日について屋外広告を掲示したほか、数十人が各地で予言を広めている。

 土木技師でもあるキャンピングは、聖書の解釈やノアの大洪水などの古代の歴史を基に予言を行っている。21日はカリフォルニア州北部アラメダで妻と一緒に様子を見守る予定とし、「おそらくテレビかラジオなどのそばにいるだろう。(最後の審判の日に)世界の裏側で何が起きているのか興味がある」と述べた。

 キリスト教には世界の終わりにキリストが再臨し、人間は審判を受けるとの考えがあるが、世界の終末の日を特定する予言は異端で、多数派とは一線を画している。

  [新宿シャローム教会の富田慎悟]

 『(中略)つまり、この2014年と2015年は聖書の歴史において非常に重要な「時」となります。天文学的な驚くべき確率で全ての事がこの時に一致して起こるのです。多くの人々が、終末の「時」に関して言うと、「危険だ。おかしい。異端だ。」と警戒し、教会はその事を語るのを恐れます。なぜなら今まで、様々な偽りの指導者によって「この日が再臨の時だ」という惑わしが多く蔓延したからです。

 また教会だけでは無く、一般においてもノストラダムの予言や2000年問題、2012年のマヤ予言などが話題となり、実際にその時になっても「何も起こらなかったじゃないか。」と人々の心を終末に対して鈍らせて来ました。

 しかし、今までの予言と言われるものは、全て何の聖書的根拠も無いものです。しかし、この2014~2015年は、御言葉の預言と、聖書のカレンダーに基づく「時」です。創世記を読むと太陽と月が創られた目的が「しるしのため、季節のため、日のため、年のため」と記されていて、その第一の目的は「しるしのため」です。

 さらにヨエル書2章、使徒の働き2章には「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」と記されています。月食は月が血のように赤くなり、日食は太陽が暗くなます。明らかな天のしるしです。

 しかし、その前に!幼子から老人に至るまで、今までの歴史の中で最も激しい聖霊の注ぎがもたらされ、「主の名を呼ぶ者はみな救われる。」のです。これから非常に短期間の間に、人知を遥かに超えた勢いで、爆発的な魂の大収穫が全世界でなされ、そして主イエスが花嫁を迎えに来られます。

 私はこの事を思います。「終末の事を知っている。」のが花嫁ではなく、絶えず聖霊に満たされ、御言葉に従って忠実に歩み、聖さを喜びとし、日々祈り、主イエスとの親密さの中を生きる者。そして、麗しさと同時に手には主の剣を握り、勇敢に主の戦いを闘い抜き、主にある愛とあわれみを身に帯びて魂の大収穫をしていく。それがキリストの花嫁としての歩みです。

 ダビデの幕屋はその「麗しい愛と戦い、種蒔きと収穫」の両方を同時に成し遂げる為の重要な拠点であり、現在日本中、世界中で急速な勢いで絶え間ない祈りと礼拝を捧げる祈りの家、ダビデの幕屋が回復しているのは明確な終わりの時代の「しるし」と言えます。

 私達は、驚くべき時代、大いなる時に生かされています。今は、目を覚まし祈り、主に従い、主との時間を人生の第一優先とし、花婿なる主イエスと強く愛で結びついて生きなければいけない時です。これから始まろうとしている偉大な主の計画に胸を高鳴らせ。キリストの花嫁よ。目を覚ませ!』

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 何を言うのも、権利として保障されていますが、言った人は、平然と口を拭うのですが、聞く人は、惑わされ怯え続けるのです。だから、言ったことを聞き分けることが必要です。聖書を読みますと、「キリストの再臨の日」、「空中携挙の日」、「世の終わり」、「最後の審判」は述べられてあります。でも、これらのことは《隠されている》のです。でも無理にその戸をこじ開けて、決定的な、断定的なことを言う人を警戒すべきです。

 何も起こらないと、計算を間違えたとか、その他の理由をつけて言い逃れをし、訂正をし、それを繰り返すのが常套手段です。テサロニケの教会の中にも、その様な問題があり、パウロが警告しています。

 『霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。(2テサロニケ22節)』

 日常の生活を乱し、すべき義務を果たさなくなったりして混乱が、この教会にあった様です。聖書を読んで、真理を蓄えているなら、おかしな言動を見破ることができるのです。《聞くべき情報》と〈耳や眼を塞ぐ情報〉があります。アンテナを張って、『アッ、これは怪しい、おかしい!』と見破るのです。

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[人]新渡戸稲造と李登輝

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 《39歳の時》に、主イエスさまの教会を牧する責任を負って、4人の子に養育を、家内と二人でしていたでしょうか。〈不惑〉の年齢になる前年でしたが、その責任の重さを感じながら、精一杯励んでいたのです。

 新渡戸稲造が同じ《39歳の時》に、台湾総督府の民生長官だった後藤新平の招聘を受けて、台湾に渡って、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長の重責を負っています。アメリカにいた時の要請でしたが、後藤の招きに、新渡戸は病弱でしたが、即座に応えたのです。赴任早々から、台湾全島を歩いて、この島で、何を植えて育てるべきか、農業の道を探します。それで思いついたのが、「サトウキビ」の栽培の近代化で、精糖業の整備だったのです。

 清朝時代から、台湾では精糖業が行われていたのですが、それを改善し、産業として確立するための術を模索していくのです。それで、パリで行われた万国博に出席した帰りに、ジャワ島に立ち寄って、そこで行われている精糖業の全てを視察します。そして、「糖業改良意見書」を後藤長官に提出するのです。

 その意見書を見て、後藤は新渡戸を糖業局長にします。京都大学に招かれて、植民政策の講座を担当するまで、3年間、その職に心血を注いで、台湾糖業の近代化の基礎づくりに腕を振るうのです。

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 この新渡戸稲造に、心服した人物がいました。台湾の第三代の総督に就任していく、李登輝です。台北高等学校を終えて、尊敬する新渡戸が、かつて教授職にあった、京都大学農学部に入学して、新渡戸が専攻し、講義した「農業経済学」を学んでいます。李登輝、19歳でした。〈22歳まで日本人〉であったと、この人は言っています。時代の子でしょうか、日本で教育を受け、アメリカに留学し、1961年に、クリスチャンとなり、その後、政治の道に進んでいきます。

 台湾で12年間、難しい時代の台湾の総統の責務を果たして、2020年に、97歳で帰天しています。その李登輝が、最も強く影響を受けたのが、農業経済学の教師であり、クリスチャンであった新渡戸稲造だったわけです。

 台湾には、上の兄と一緒に、台北から高雄まで、2週間ほど、教会巡りをしました。お招きくださった教会で、説教をさせていただきました。その代わり、説教後のおもてなしで、5kgも体重増になってしまったのです。確りした信仰を持たれる政治指導者の国は、落ち着いていて、豊かでした。新渡戸や、嘉義農林学校で野球部を指導した近藤兵太郎、台南に農業用水にダムを建設した八田與一など、台湾の農業や学校スポーツに寄与した人物が、何人もいます。

 その日本人への評価の高い国で、新渡戸やその他のみなさんのおかげでしょうか、歓迎され、熱く迎えてくださり、奉仕をさせていただいたのです。今、日台の関係が保たれていくように願うのです。大陸の華南の街にいた時に、ビサの関係で、3か月ごとに、厦門(アモイ)から金門島まで通いました。街の雰囲気が、大陸の街とはガラッと変わっているのに驚かされました。

 華南の街のある会社で、聖書研究会をしていた時、通訳をして下さった姉妹が、今は、台北に戻られておいでです。台湾に、主の祝福を心から祈っています。

(さとうきび畑、台湾のフリー・イラストです)

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[街]ブエノスアイレス

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 初めての南米、アルゼンチンの「ブエノスアイレス(Buenos Aires)」の飛行場に降り立った時に、『40年前に、もしこの街に出かけて来て生活をしていたら、どんな生活をしていただろうか?』との思いでいっぱいにされたことがありました。初めての訪問で、珍しさで興味いっぱいなことは、常にあるのですが、このブエノスアイレスの街への訪問は違っていたのです。

 それは初めての訪問地なのに、《懐かしい感情》があったのです。十七の私は、気が多かったのか、放浪癖の思いがあったのか、南半球の街に行ってみたい思いが、強烈にあったのです。南十字星の神秘的な輝きを見上げてみたかったり、ヨーロッパ人が入植して造った国の街に行ってみたかったのです。

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 イタリヤやスペインからの移民が、大西洋を航海して着いたのが、「ボカ(Barrio la Boca)」という港町でした。移民した人たちは、故郷の国を感じたくなると、この港にやって来て、来た方に、いつまでも目を向けていたそうです。帰る術のない人たちが、船が着岸した箇所で、故郷を偲んだわけです。その一廓に、カミニート(Caminito小道の意)があって、そこで音楽が奏でられ、踊りがなされて、アルゼンチンタンゴが誕生したと聞きました。

 ちょうど横浜や神戸や函館のような港町なのでしょうか。曽祖父以来、海と関わって来た父の出だからでしょうか、海への郷愁が、私の内にはあるのかも知れません。潮騒が、無性に聴きたくなって、車を飛ばして海に出かけたことが、若い日にあったりでした。岸に打ち寄せる波が、砂浜で砕け散る潮の音が、子守唄のようだったのでしょう。

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 官能的な響きの中には、故郷回帰の思いが駆り立てられたに違いありません。でも、街中のレストランに入ると、ウエイターの接客術が実に素晴らしかったのです。誇りを持った professional な意識で仕事をされるみなさんを見て、テーブルに運ばれて来た料理が、さらに美味しかったのです。

 首都の、街を出ると延々たる〈パンパ〉と呼ばれる大草原が広がっていたのです。その写真を見てから、その地の上に立ってみたかったのです。さらにその草原を越えて、アンデス山脈の麓にあるメンドウサという街があって、それも気になっていたのです。メンドウサには行けなかったのですが、自分が生まれた故郷が、葡萄の産地で、葡萄酒の産地でしたから、そこに似た街にも行ってみたかったのでしょう。

 街の道を行く男性たちは、しっかりと背広を着ておいででした。しかし、経済的に難しい状況下で、着ていたのは着古した物だったのです。それでも背筋をピーンと伸ばして、彼らは紳士でした。

 アルゼンチンの人たちは、日本のことを知っていて、『狭い日本に、アルゼンチン人が住み、広大なアルゼンチンに日本人が交代して住んだらいいのではないか!』と言うほどでした。日本人の移民に歴史もあり、移民初期のみなさんは、その白人優先社会で、なかなか苦労をされたそうで、クリーニングや花屋をされながら生計を立てて、移民二世を育てられたのです。

(ブエノスアイレスのカミニート、初夏の街中に咲く「ジャカランダ」の花です)

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都江堰と信玄堤

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 中国に初めて行ったのが、四川省の省都の「成都」でした。東京の工業系の大学に留学されて、卒業後、大手の企業に就職された方が、友人の教会においででした。その方のご両親が、成都の近郊においでで、お会いするために、家内と一緒に出かけたのです。私たちの訪問に合わせて、この方が休暇をとられて帰省され、成都の大きな旅館で、食事に招かれて、ご両親とお交わりをしたのです。

 その時、パンダ(熊猫Xiongmao)の繁殖研究基地が、郊外の山岳地にあって、旅行業者の方に案内してもらいました。そこには檻が幾つもあり、日本人が里親になっていて、日本名の名札が下がっていて、驚きました。『生まればかりのパンダを抱いてみませんか!』と言われて、防疫のレインコートのようなものを着せられて、抱いたのです。

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 そこに行く途中に、岷江(みんこうminjiang)と言う街を訪ねました。そこには、四川盆地を流れる大河があって、「都江堰とこうえんDūjiāngyàn)」にも案内してくださったのです.ここは、洪水が多かったのを、治水のため、農業用に水を得るための灌漑用の「堰」を作ってありました。

 紀元前3世紀頃に、蜀の国の郡守であった李冰という人が、15年ほどの難工事の末に、完成させています。

 『都江堰水利施設は上流からの順で魚嘴”(分水堰堤)飛砂堰”(洪水調節及び砂礫排出水路)宝瓶口”(離堆取水口)の三大部 分から構成される.都江堰の魚嘴分水堰堤を指す.上流から流れてきた岷江の本流は,魚嘴分水堤により長江に流れ 込む外江と成都平原を潤す内江に分流される.分水堤は地形を巧みに利用して水量を調節するだけではなく,土砂をなるべく内江 に流れ込ませないような働きもある.いったん内江に入って余った水が再度岷江に排出されるよう,なお更に曲がりこむ水流を利用 し,内江に洪水の原因となる砂礫が滞積しないように飛砂堰が設計されている.“魚嘴及び飛砂堰の機能により,岷江の水は 増水期には 4 割,渇水期には 6 割が安定して成都平野の灌漑水路に給水されるようになっている.都江堰着工後,冬の渇水期に修 ,お 2000 2000k m 2 . 近年には貯 し,現 7000k m 2 とな って (雷 林記)』

 実に見事な堰です。この街に入った時に、この李冰の大きな像があって、その功績を讃えていました。吊り橋のような架橋を渡って、その「角嘴」を見て、あんなに小さな部分が、激流を収めることに驚かされたのです。

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 この建設事業を、文献で知った、戦国時代に甲州を収め、天下取りを目指していた武田信玄が、暴れ川の御勅使川(みだいがわ)が、釜無川と合流する地点に、「堤」を建設しています。難儀していた甲府盆地の釜無川沿岸の農民のために、大工事を遂げていたのです。昔の治世者は、民百姓のために知力も人力も財力も、そして心も注いで、治めているのです。今でも、甲府盆地のみなさんは、「信玄さん」と呼んでいます。

 あれから数年して、私たちは、四川省の成都ではなく、天津に導かれたのです。そして一年後には、華南の街に参りました。その街の大学で、成都出身の学生が、授業中に、私がハーモニカを吹いて、日本の歌を紹介したのを、大変気に入って、『ハーモニカを教えてください!』と言われて、授業の後に、キャンパスの隅で、一緒に吹いたのです。

 その彼が熊本大学をでて、長崎大学の大学院を修了して今は、大手の日本企業に勤めておいでです。クリスチャンになられて、教会生活もしておいでなのです。不思議な主の導きがあっての今の栃木なのです。

(成都の雨の日の街並み、都江堰、信玄堤です)

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疎開やパンのことなど

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 2019年の秋に、19号台風の襲来で、住んでいた家が床上浸水にあってしまいました。その家の管理をされていたご方の友人の教会が、宇都宮市の隣町にあって、そこに急遽連絡をとってくださって、3週間ほど、〈令和の疎開〉をさせていただいたのです。

 疎開と言うのは、戦時下に、空襲を避けるために、学齢期の児童を田舎に移動させた、〈学童疎開〉がありました。主に首都圏の東京から、近県の栃木、群馬、山梨、長野に、お寺などに集団疎開がありました。第一陣は、19448月に、板橋区の学童が、群馬県に疎開しています。その他には、親戚や知人を頼ってなされた〈縁故疎開〉があったようです。親元を離れた集団生活の話を、何人かの方から聞いたことがありました。

 避難でしょうか、疎開でしょうか、そこは、教会の二階のゲストルームでした。教会のみなさんが、秋の果物やお米などを差し入れしてくださって、実に親切で快適な時を過ごさせていただいたのです。避難生活というよりは、なにかホテル住まいをしたようでした。あのご好意が忘れられません。

 その近くに、御料牧場があるのだと、最近聞ききました。天皇ご一家が、ひさしぶりに、そこを訪ねられたそうです。美味しい野菜や果物や卵や肉が収穫されるのでしょう。

 そう言えば、お隣の国でも、中央の党の幹部のためには、特別栽培や飼育の農園や牧場があって、何千人もの人によって従事されていて、幹部の家族を養っていると聞きました。地方の省や市や村も、同じなのでしょう。ですから党員になる人が多いかと言うと、誰でもがなれるのではなく、推薦されるのだそうです。知人には、それに見向きもしないかたが多くいました。

 美味しい物や安全な物を食べても、病む人は病んでしまいますし、健康な人は健康なのです。一度くらいは、そんな食材ののった食卓についてみたいものです。舌が肥えていない自分には、その違いが分かりそうもありませんが。

 

 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 いつ失脚するか分からないような社会で、地位を追われるかも知れないと、オドオドして美味しいものを食べるよりは、平和な内にオジヤやスイトンを食べていた方が、きっと幸せに違いありません。

 お殿様が美味しかった庶民の味、〈目黒の秋刀魚〉ではありませんが、長く過ごした華南の街から遠く離れた海浜の村で食べた、中華鍋で焼いた薄皮の麺に野菜や肉片の入った伝統食が美味しかったのです。日本円で30円くらいの村人の名物でした。あれを、父や母に食べさせたいと思ったものです。元気だったら満面笑みをたたえながら喜んでくれたことでしょう。

 母は、子どもの頃に、オジヤを散々食べたそうで、唯一嫌いな食事だったのを思い出します。もう一度母のかた焼きそば、父の約束不履行の駒形のドジョウ鍋を食べてみたい、春の今日この頃です。

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鬱金桜

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 南北に長い私たちの国で、その季節の動きを知らせてくれる楽しい兆は、「桜前線」ではないでしょうか。染井吉野の桜が、江戸の染井村からから全国に広がり、淡い花びら、散りゆく様子に魅せられて、津々浦々に植えられて、日本のどこででも観られます。日本人の大好きな桜に花です。

 この桜は、まもなく津軽海峡を越えそうです。松前あたりが一番早く咲き始めるのでしょうか。きっと五稜郭も、伊達市も札幌も、そして旭川、網走、稚内、北海道全域に咲き広がるのでしょう。南から一日一日と、前線が北上していく知らせが、自転車の運転速度よりも、わずかに遅く行くのでしょう。

 札幌の整形外科医院で手術後のリハビリ中に、札幌の中島公園で咲き始めたとのニュースを聞きました。病院の近くにも、桜の木があって、そこに花がつき始めていたのです。

 この桜ですが、何と八百種もあるのだそうです。それだけ、日本人は、桜の花に魅入られてしまっているのでしょうか。春の到来を感じさせられるからなのでしょうか.一般的に淡色で、パッと咲いて、パッと散っていく潔さを好むからなのかも知れません。

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 最近気になるのが、「鬱金桜(うこんざくら)」です。ソメイヨシノが咲き終わってから咲き始めるのだそうで、江戸以前から、旧荒川(今の隅田川を荒川と呼んでいたそうです)の堤に植えられていた桜で、「淡黄緑色(黄色や黄緑や緑色)」の花を咲かせ、「荒川の五色桜」と呼ばれたようです。〈枝変わり〉と言う成長点での突然変異によって生まれたのだそうです。

 私の生まれ故郷に咲くのが有名なのだそうで、そんなことは知りませんでした。そこには家もなく、知人もいませんので、訪ねることはありませんが、今頃咲くのでしょう。東京の谷中あたり、隅田川沿いの言問(こととい)あたりが名所なのだと言われています。行ってみたいな!

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尊大な羞恥心など

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 茨木のり子に、「汲むーY.Yにー」と言う詩があります。

大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女の人と会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました私はどきんとし
そして深く悟りました大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

 この詩は、少女の頃に、憧れの女優の山本安英を訪ねた時の経験から、茨木のり子が詠んだ詩なのです。何も分からないのに生意気で、背伸びをしていた自分に、山本安英が、『人を人とも思わなくなったとき堕落が始まるのね。』と語ってくれたようです。

 茨木のり子は、1926年生まれで、山本安英は、1902年の生まれで、24歳ほどの歳の差、親子の世代の違いがありました。山本安英が新築地劇団の団員だった頃でしょうか、訪ねた茨木のり子は、反抗したのではなく、『たかをくくるな、なめてかかるな、ということを教えてくださった気がします。』と後年、思い返して、茨木のり子は感謝を込めて振り返って詩作しています。

 叱ったり、諭したり、教えてくれる人を持つことは、有益なのです。そう語られたことを、しっかり受け止めたのです。自分の実態、事実を教えてくれる助言者がいて、茨木のり子は、自分の未熟さや幼稚さを知らされたわけです。

 若い日に恥をかくべきです。それ無しに成功してしまうと、大恥をかくことになるのです。秘められたり、感謝されてしまうと、人は尊大になったらおしまいです。「山月記(中島敦作)」に、次のようにあります。

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  秀才の李徴が平凡な役人の仕事に満足できず、詩で名声を得ようとしますが挫折し復職します。その時にはすでに友人が出世しており、李徴は〈臆病な自尊心〉と〈尊大な羞恥心〉のために人付き合いが出来なくなってしまい、絶望し、発狂してしまうのです。その苦しみや羞恥心のあまり、虎になってしまうのです。李徴は昔の友人と森の中で再会し、自分の運命を語ります。いたたまれなかったのでしょう二声三声ほえて、藪の中に走り込んで、二度と自分を現さなかったのです。

 この話は、中国の「人虎伝」が元になっていますが、自尊心は、どうにかして砕かれるべき必要がありそうです。夜遅くに訪ねて来ては、真夜中になって帰って行かれるご婦人がいました。家内は一日中、人を訪ねたり、教会の用をしたり、4人の子育てをしていました。訪ねてくる人は、独身で、ほぼ同年齢でした。ある時、宣教師夫妻が訪ねて来た交わりの中で、私が、皮肉を言ったのだそうです。

 日本語をよく理解できない宣教師さんが、『準、皮肉はいけない!』と言って叱ってくれたのです。〈事実〉を語るのはいいのですが、〈皮肉〉はダメだとの教訓でした。それ以降、私は注意して皮肉を語らなくなったのです。恥じて学んだからです。あの無意識の皮肉を聞き分けた、宣教師さんに驚くと共に、感謝したのです。人は恥じて、多くを学ぶのでしょうか。

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