中国に初めて行ったのが、四川省の省都の「成都」でした。東京の工業系の大学に留学されて、卒業後、大手の企業に就職された方が、友人の教会においででした。その方のご両親が、成都の近郊においでで、お会いするために、家内と一緒に出かけたのです。私たちの訪問に合わせて、この方が休暇をとられて帰省され、成都の大きな旅館で、食事に招かれて、ご両親とお交わりをしたのです。
その時、パンダ(熊猫Xiongmao)の繁殖研究基地が、郊外の山岳地にあって、旅行業者の方に案内してもらいました。そこには檻が幾つもあり、日本人が里親になっていて、日本名の名札が下がっていて、驚きました。『生まればかりのパンダを抱いてみませんか!』と言われて、防疫のレインコートのようなものを着せられて、抱いたのです。
そこに行く途中に、岷江(みんこうminjiang)と言う街を訪ねました。そこには、四川盆地を流れる大河があって、「都江堰とこうえんDūjiāngyàn)」にも案内してくださったのです.ここは、洪水が多かったのを、治水のため、農業用に水を得るための灌漑用の「堰」を作ってありました。
紀元前3世紀頃に、蜀の国の郡守であった李冰という人が、15年ほどの難工事の末に、完成させています。
『都江堰水利施設は上流からの順で“魚嘴”(分水堰堤),“飛砂堰”(洪水調節及び砂礫排出水路),“宝瓶口”(離堆取水口)の三大部 分から構成される.都江堰の“堰”は“魚嘴”分水堰堤を指す.上流から流れてきた岷江の本流は,“魚嘴”分水堤により長江に流れ 込む外江と成都平原を潤す内江に分流される.分水堤は地形を巧みに利用して水量を調節するだけではなく,土砂をなるべく内江 に流れ込ませないような働きもある.いったん内江に入って余った水が再度岷江に排出されるよう,なお更に曲がりこむ水流を利用 し,内江に洪水の原因となる砂礫が滞積しないように“飛砂堰”が設計されている.“魚嘴”及び“飛砂堰”の機能により,岷江の水は 増水期には 4 割,渇水期には 6 割が安定して成都平野の灌漑水路に給水されるようになっている.都江堰着工後,冬の渇水期に修 繕 工 事 を ず っ と 行 い ,お よ そ 2000年 間 約 2000k m 2 に 農 業 用 水 を 供 給 し て き た . 近年には貯 水 池 や 水 路 の 建 設 に よ り 受 益面 積 を 拡 大 し,現 在 は 約 7000k m 2 の 灌 漑 面 積 とな って い る (雷 興 林記)』
実に見事な堰です。この街に入った時に、この李冰の大きな像があって、その功績を讃えていました。吊り橋のような架橋を渡って、その「角嘴」を見て、あんなに小さな部分が、激流を収めることに驚かされたのです。
この建設事業を、文献で知った、戦国時代に甲州を収め、天下取りを目指していた武田信玄が、暴れ川の御勅使川(みだいがわ)が、釜無川と合流する地点に、「堤」を建設しています。難儀していた甲府盆地の釜無川沿岸の農民のために、大工事を遂げていたのです。昔の治世者は、民百姓のために知力も人力も財力も、そして心も注いで、治めているのです。今でも、甲府盆地のみなさんは、「信玄さん」と呼んでいます。
あれから数年して、私たちは、四川省の成都ではなく、天津に導かれたのです。そして一年後には、華南の街に参りました。その街の大学で、成都出身の学生が、授業中に、私がハーモニカを吹いて、日本の歌を紹介したのを、大変気に入って、『ハーモニカを教えてください!』と言われて、授業の後に、キャンパスの隅で、一緒に吹いたのです。
その彼が熊本大学をでて、長崎大学の大学院を修了して今は、大手の日本企業に勤めておいでです。クリスチャンになられて、教会生活もしておいでなのです。不思議な主の導きがあっての今の栃木なのです。
(成都の雨の日の街並み、都江堰、信玄堤です)
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