人品骨柄

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 『人品骨柄(じんぴんこつがら)卑(賎)しからず。』、人の精神も容貌も品位が高くあることが、人を評価する上で、大切なことであると言われて、このようなきとばがあるのです。よく『何をしたか?』によって、人が測られるのですが、その人の品性とか道徳性ということこそ、注目すべき点であるに違いありません。

 それは、容貌の美醜を言っているのではありません。リンカーンが、『四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て!』と言いました。大統領になった彼は、国政にあたる閣僚を決めようとしていた時のことです。閣僚候補に推挙された、一人の人がいたのですが、『顔付きが気に入らない!』と言ったのです。

 それを聞いた、その人物を推薦した人が、『顔は生来のものだから、彼の責任ではないのではないか。!』と反論します。それに、リンカーンは、『四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持つべきだ!』と言ったわけです。

 顔の作りを言ったのではなく、心や考えていること、価値観や人生観が、どうも表情に投影されるのです。東京警視庁の警官をしていた人が、私の最初の職場の上司にいました。社会の治安を守る役職にある警察官は、見た瞬間の直感を養われて、出会う人の犯罪性のある無しを、瞬時にその眼差しや雰囲気から判断する能力を培うのだそうです。

 人生経験を積んで、それまでの生き様・考え方が、善きにつけ悪きにつけ、自然と生き方や表情に、如実に現れるからです。どんな家系なのか、どんな教育を受けてきたとか、どんな仕事に従事してきたか、社会への貢献度はどうなのかなどなどだけが問題視されて、道徳性を問うことがないがしろにされているのです。

 来月、一万円の新札が発行され、その肖像が、渋沢栄一なのですが、日本の資本主義制度への貢献の大きさが評価されたのだそうです。ところが、この人の道徳性、品性などが、どうだったのかなどは問わないのは、いかがなものでしょうか。日本の初代の内閣総理大臣であった伊藤博文ですが、幕末の英傑、維新政府の重鎮たちが暗殺されたり、病没したりで、人材に窮していた時に、仕方なしに選ばれたという、裏話を聞いたことがあります。

 この両者の共通点は、色好みで、人としての道徳性や品性は、劣悪だったのです。その評価基準の低さに、疑問を覚えるのは、私がへそ曲がりなのでしょうか。どうしても、こういった類の人を誇ったり、感謝することが、私にはできません。

 そのような時代に、職を追われ、赤貧の中を過ごしても、魂を卑しめたりせず、人品を卑しくするようなことのなかった内村鑑三が、「桶職」と言う一文を残しています。大正3年(1949年)に、「聖書之研究」に掲載された詩です。

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我は唯(ただ)桶を作る事を知る、
其他(そのほか)の事を知らない、
政治を知らない宗教を知らない、
唯善き桶を作る事を知る。

我は我(わが)桶を売らんとて外に行かない、
人は我桶を買わんとて我許(もと)に来る、
我は人の我に就いて知らんことを求めない
我は唯家にありて強き善き桶を作る。

月は満ちて又欠ける、
歳は去りて又来たる、
世は変り行くも我は変らない、
我は家に在りて善き桶を作る。

我は政治の故を以て人と争はない、
我宗教を人に強ひんと為ない、
我は唯善き桶を作りて、
独り立(たち)て甚だ安泰(やすらか)である。

 教育などを受けずとも、ただ桶づくりしか取り柄のない一人の人が、ないことの多い中で、最善の仕事を果してきたことを誇り、買い求める人のために、より良い桶づくりに励んでいるのです。政治家や宗教家になどにはなれずとも、その一事に邁進している職業意識に、極めて高い信念や価値を感じてなりません。

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 これは、『人品賤しからざる人であれ!』との勧めですが、品性の高さこそ、人の値打ちに違いありません。そのような人として、自分の生涯を全うしたいと、切に願うのです。私たちの外孫は、教会の寮で生活をしているのですが、彼の部屋に、リンカーン大統領の肖像画が掲げられています。人品骨柄の優れた人に、彼が憧れていて、それが嬉しいジイジであります。

(ウイキペディアの「リンカーンの大統領就任式」、北斎の桶職人、リンカーンの立候補用のポスターです)

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父の日に父を想う

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 私には二人の父がいます。御子イエスさまが、『父!』とおっしゃった《神さま》です。《陶器師なる神》で、慈愛と忍耐に富まれる創造者です。この《父なる神》のいますことを教えてくれたのが母でした。その教えから逸れることなくなく、今日まで信じ、感謝し、愛して生きてくることができました。

 もう一人は、母と共に、生んで育ててくれた父です。横須賀、満州、松江、出雲、京都、京城、山形、そして東京などで、過ごしたのが、父の61年の生涯でした。〈ほっぺほっぺよ〉とか〈高い高い〉とか〈鉄拳殴打躾〉とかしてくれ、丈夫に育ち、人様の迷惑にならないように生きていき、『何時迄もあると思うな親と金!!』との格言を与えられ、『父は父なるが故に、父として遇する!』を学ばせてくれた父です。

 父が残した写真の中に、若い頃の父の写ったものがあり、日の丸の鉢巻をしめて、軍需産業に従事していた頃の戦勝を願った集合写真の中に、父が写ったものもあったのです。また終戦後の東京の街を歩く、黒いマスク姿の写真がありました。恰幅の良かった父が、げっそりと痩せていて、子育てのために一生懸命に働いていてくれた頃のものです。

 自分の英雄の父が、ただの人であることを知ってがっかりした後、聖書から、感謝と敬意とを持つように教えられてから、父親観が変えられました。そして父への感謝や恩を、四人の子の父親となってから、さらに分かったのです。親孝行を考えていた矢先に、召されてしまいました。『ありがとう!』と、はっきりと言いたかったかな、の今です。

(「ある信徒」掲載のイラストとみことばです)

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ホタルブクロ

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 梅雨入り頃、雑木林でしょうか、里山でしょうか、通学路でしょうか、あちこちに、この「ホタルブクロ」が咲いていたのを思い出します。これは、今朝、送信していただいた、「里山歩こう」に掲載されている映像です。キキョウ科の花で、わが家のベランダにも、三季目の桔梗が葉をつけていますが、開花はまだなのです。間もなく咲くことでしょう。

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雨季なのか憂きなのか六月

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 季節が梅雨だからでしょうか、太陽の光と熱から遠ざかされる季節に、人の心が暗くなって、物憂くなってしまい、意欲が削がれ、活動も停滞し、行動が緩慢になる「六月病」が、今日日、話題になっています。

 三月、四月が、人の移動の多い月で、期待だけではなく、不安もあって、落ち着かなかったのか、五月に入ると、急に学校に来なくなってしまい、何時の間にかいなくなってしまった同級生が、何人かいました。いわゆる「五月病」なのだそうです。

 また会社などの企業体でも、社会人になって、勇躍として仕事に取り組もうとすると、未経験の世界で、失敗や挫折、上司からの叱責、人間関係のギクシャクさなどで、鬱的になって悩む若者が多いのだそうです。社会人になれて、楽しくて仕方がなかった自分には考えられませんでした。

 ただ、一緒に入社したのに、年が上だったせいもあって、何かにつけて突っかかったり、批判されました。こう言った人は、一発くらわすのが一番なのですが、ちょっと大人になったように思えて、しませんでした。自分よりも有名な学校を出てきて、しかも上司のコネで入ってきたので、自分が上だとでも思ったのでしょうか、鼻持ちならなかったのですが、相手にしませんでした。何時の間にか鎮まっていきました。

 最近は、「六月病」が話題になっているようです。入社後、入学後、もう3ヶ月にもなるので、甘やかされることがなくなり、期待度も増し加わるのですが、新しい環境に、なかなか適応できなくて、落ち込んだり、悩むのでしょうか、melancholy 症候群とでも言える心の新人がいるのです。

 だからでしょうか、離職していく、いとも簡単に辞めてしまうのです。考えられないような恵まれた職場に入ることができたのに、回された部署が、自分にはあっていなく、やって行けなくなって辞めるのだそうです。二、三年教えられて、学んで、慣れて、次の配置転換を待てばいいのに、待てないのです。

 よく聞かされたのが、「うなぎ職人」が一人前になる修行があるのだそうです。『串打ち3年、裂き8年、焼き一生!』なのだそうです。たかがうなぎ料理、されどですが、下働きの時季がなくて、すぐに一人前になれると思ってしまうからです。住んでいた家の二軒隣が食堂で、お母さまと息子さん夫妻とが経営していました。いつからか、うなぎを焼き始めたのですが、サラリーマン上がりで、注文を取りにきて、何年か注文しましたが、美味しくなかったのです。そのうちに、お母さまが亡くなられて間もなく、廃業されてしまったのです。

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 お隣の国にいた時、若い方が、よく遊びにきました。来られた時に、日本風のカレーライスを作ってご馳走で歓迎したのです。作っているのを眺めていたのでしょう、故郷に帰って、カレーライス屋を始めたのです。お金は親に出資してもらい、小さな店を構えて、営業を始めますが、続かなかったのです。

 俄(にわか)づくり、超短期養成の料理人は、真似ることはできても、売れる仕事にはならないのです。慣れ過ぎても、促成、即成でもやはり駄目な例ですが、自信のない人の仕事もまた無理に違いありません。

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 『石の上にも三年!』、辛抱なくて一人前の社会人には慣れないことを、父に教わりました。常に半人前、修行中の身であることを旨とし、それを忘れないことなのでしょうか。事に真剣に立ち向かっていくなら、自信も湧いてきますが、結局は謙虚さに違いありません。「見習い意識」でいることでしょうか。今年の関東地方の梅雨入りは遅くなるようです。そうそう、あの食堂に、招き入れられて子どもたちがごちそうになって、下の娘が、『ラーメン屋になる!』と言っていたのを思い出しました。

(ウイキペディアの梅雨前線、カレー・ライス、ラーメンです)

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病む時にもいと近き助け

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『ヱホバは彼がわづらひの床にあるをたすけ給はん。なんぢかれが病るとき、その衾裯をしきかへたまはん。(文語訳聖書 詩篇41篇3節)』

 「病院考」、これまで、自分や両親や兄弟、家内や子たち、そして自分が病んでかかってきた病院のことを、さまざまな病歴を思い出して、記してみようと思います。

 先月末に、ある医科大学附属病院に、検査のために行きました。予約した時間まで、時間がありましたので、初めての院内を見て回ったのです。家内の診察で、日赤広尾病院などにも行ったことがありましたが、その規模と、廊下から見える範囲の医療機器や医療関係者の働かれり有り様が、最初に入院した、1950年頃の病院と、雲泥の差でしたので、そんな思いに駆られたようです。

 山奥に住んでいた時に、風邪をこじらしたのか、肺炎で、国立病院に入院したのです。小学校に入学前のことでした。その入院先は、戦前の旧連隊の病院だったのが、戦後、国立病院に移管され、その街で一番の総合病院でした。廊下を歩くと、ギシギシとした音がして、木造の古びた学校の校舎みたいでした。

 下の弟が、三歳ぐらいでしたが、母が付き添ってくれ、ベッドの下で寝ていました。週末になると兄たちがやって来て、励ましかからかいか、見舞ってくれたのです。上の兄が、ベッドに横になっていて落ちて、下に置いてあったオマルに手を突っ込んだ出来事を覚えています。大きな行列で、ベッドの周りに人垣ができたことがあって、何かと思ったら、県の偉い人が見えて、院長や事務長などの大名行列だったのです。

 その病院では、一大事だったのでしょう。そんな大騒ぎを、今で思うと、父が地元出身ではなく、戦時下の国への貢献の過去、戦後の県有林の払い下げ材の事業をしていた関係で、その病んだ子の見舞いが、大仰にあったのは、思えば知事選の運動の一環だったのでしょうか。学齢期前の私には、全く関係のないことであって、賑やかだけの出来事を覚えています。

 その入院中の私のために、横須賀の実家に、大切に仕舞われていた、イギリス製の純毛の毛布を、父が持って来てくれ、戦後の空調などない冬の病室で寝ている私への父の愛だったのです。その毛布を、どうしたことか、暇にかまけた私は、ハサミで切り刻んでしまって、みんなが驚き呆れられてしまったのです。

 その肺炎のおかげで、東京に越してから、風邪をひいた私を、電車に乗せて、立川にあった国立病院通いを、母がしてくれたのです。『今度肺炎を起こしたら死んでしまう!』と、医師に厳重に言われた母が、必死になって、大病院に連れて行ってくれたのです。うる覚えですが「マキ先生」という名の主治医だったと思うのです。小学校3年ほどまでは、その繰り返しでした。

 そんな死線を彷徨いながら、生きられたのは、『死なせまい!』と、躍起に世話をしてくた母の愛、祈りだったのでしょうか。わがままな三男を、宥めたりすかしたりしての病院通いで、小学校四年になってから、突如元気になって、クラスの番長にまでなってしまったのです。

 でも、基礎的な初等教育を受ける時間が少なかったのでしょうか、文字は書けて、意味は分かっても、書き順が間違っていて、今でも直しようがありません。〈くノ一〉を〈一くノ〉で書いてしまうのです。それでも聞き学問で、ラジオからの知恵だけは与えられたのは、怪我の功名だったのでしょう。何よりも、教室での立ち歩きやチョッカイ出しで、いつも怒られ、立たされたのです。

 中耳炎での激烈な痛みもありました。兄の同級生のお姉さんが、自転車の後ろに乗せてくれて、街中の耳鼻科に連れて行ってもらったこともありました。あれ以来、泳ぐと耳に水が入って、すぐに中耳炎を起こしていました。鼓膜が破れ、しかも両耳だったのを、何年も何年も経って、六十才前に、知り合い方の紹介で、仙台の耳鼻咽喉科で、再生手術をしてもらいました。

 そればかりか、よく怪我をしました。手傷や脛の傷は数え切れないほどの傷跡を残しています。宣教師さんの住んでいた貸家を受け継いで住むために、この方が庭に作った建て増し部分をかたずける仕事をしていて、屋根から落ちて肋骨骨折で入院したのです。結婚式を挙げさせていただいた整形医の病院に入院させていただいて、懇切に診てもらいました。

 腕をつっている腱板を、右腕左腕を、10年の間隔で、二度も損傷し、縫合手術を行いました。一回目は、教会に来ておいでの姉妹が看護師をしておられた市立病院で、家内が英語を教えていた小学生のお母さんが病棟勤務でした。2回目は、ネットで見つけた、札幌の整形外科医院ででした。札幌には、中国から帰国した足で、スーツケースを宅配してもらい、その足で伺いました。

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 治療の願いは、メールで院長に伝え、MRIの映像を送って、鍵盤断裂が確定し、治療の取り付けを前もってしておいたのです。すぐに手術だと思っての札幌行きでしたが、その医院は、一日に12人もの手術を毎日するほどの注目医院でした。押し掛けの〈中国から来た日本人の患者〉の私を、市内のホテルに一泊させて、その手術日に、〈十三番目の最終患者〉で、異例の手術してくださったのです。

 手術後、系列医院でリハビリをするのが普通なのですが、この院長は、『僕の手元でお世話しますから!』と、退院まで本院に居続けさせてくださって、懇切なリハビリを受けたのです。時々、この院長には感謝と、現況を伝えております。

 これまで最大の入院手術は、左腎臓の摘出でした。39才の夏に、東京の女子医科大学で行いました。末っ子が3才の時でしたが、家内のOKがあって、次兄への移植手術をしたのです。その手術は11時間を要したそうで、麻酔から目覚めた時の痛みは、これまで味わったことのないほど激烈でした。その兄は、今年83歳になり、健在でおります。

 入院と手術前に、『主の十字架の痛みを、少しでも味わえたらと思っています!』と、ある方に話したのですが、その体の奥から湧き上がる術後の痛みは、想像を絶していて、じっと見守ってくださった看護師さんに、『痛いので、鎮痛剤をお願いします!』と、豪語した舌の根が渇く前に、そんな必死な嘆願してしまったのです。

 主の十字架の苦しみなど、万分の一でも味わうことなどできない、ただ赦された罪人の私は、あの言葉を恥じ、『ごめんなさい!』と、主に呟いたのです。四国の大学病院から研修に来られていた女医さんが、傷口の縫合をされたと聞いたのですが、一本のメスの跡ではなく、刀傷のようにみみず腫れして、今でも、振り返るとつることがあります。

 ある集会に参加した折、お風呂で、この傷口を見て、眼をマンマルくして、『ジュンせんせいは元ヤクザだったんですか?』と聞かれて、ニコニコして聞き流しました。先日も老人センターの百円風呂で、広いお風呂に入っていた先客が、私の腹部を見て、『何の傷ですか?』、と驚いて聞いてきたのです。普段は、左腕で、そこを隠しているのですが、角度が低いところから見たので、丸見えだったのでしょう。

  驚きを鎮めるために、経緯をお話ししましたら、至極感心されて、『言わなかった方が良かったかな!』と思ったのです。もうお会いすることも、そうなさそうでしたので、一見の方と安心しました。

 先月は、その医科大学附属病院に通院し、中国の省立や市立や大学の医学部の病院に、家内が二、三度入院し、シンガポールでも、救急搬送で治療を受けていますので、外国の病院の経験も、直接間接にありますから、病院について、語り得る資格があるのかも知れません。

 医学なしの今の私はなく、いのちの付与者で、保持者の神さまの憐れみなしに、私の今はないのです。母がドクダミの葉を揉んで、傷口に当ててくれました。転んで頭を強かに打った私の頭に手を置いて、祈ってくれたこともありました。今年、八十になる私ですが、昨日、検査結果が出て、今後の治療方針を、主治医がお話しくださったのです。

 驚くのは、この病院を紹介してくださった隣り人は、同じ症状で治療中なのです。《友だち》だと言ってくれ、ご夫人もご一緒に行き来や物のやり取りのある同世代の方なのです。夕方、病院の帰りしなに報告に行くと、手作りハンバーグを頂いてしまいました。善き隣人です。

(Christian clip arts によるイラスト、近所の別の方に頂いたドクダミの葉です)

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獅子と戯れる時がくることでしょう

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『おほかみは小羊とともにやどり、豹は小山羊とともにふし 犢 をじし、肥たる家畜ともに居てちひさき童子にみちびかれ、牝牛と熊とは、くひものを同にし、熊の子と牛の子とともにふし、獅はうしのごとく藁をくらひ。乳兒は毒蛇のほらにたはふれ 、乳ばなれの兒は、手をまむしの穴にいれん。(文語訳聖書 イザヤ書11章6-8節)』

 道を歩いていいると、若い頃には、そんな願いは全くなかったのですが、この頃は、途中で「小休止」したくなる時があります。でも、途中には、車社会だからでしょうか、ほとんど、そんな箇所がありません。散歩コースに、美味しい珈琲店があって、何度か立ち寄りました。そんな spot を見つけて、たまには休むこともあるのです。

 北は総合運動公園方面、南はこちらを流れる川の下流方面、西は カインズの店方面、東は生協ストアー方面に、その日の気分で歩き始めていきます。それでも最近は、「バス停」に、小型のベンチが置かれる箇所が出てきました。どなたかの寄進でしょうか。どうもお年寄りの病院通いが多いからなのでしょうか。

 最近凝っているのが、「ぶらんこ」なのです。おかくらたみの詩に「ぶらんこ」があります。

花びらが、「もう いいわ。」っておりて いったので、

かぜは、ひとりで のっていました。

かぜが、ぶらんこに のって いたら、

花びらが、「のせて。」ってきたので、

いっしょに のりました。

花びらが、「もう いいわ。」って

おりて いったので、

かぜは、ひとりで のっていました。

 岡村民、1901(明治34)年、長野県に生まれています。日本大学の国文科に学びますが中退し、幼稚園を経営し、童謡詩人、童話作家でもありました。まぶたに、花びらを乗せて揺らぐぶらんこの光景が浮かんできます。このところ、近所の公園と運動公園に、あおのぶらんこを見つけて、通るたびに、それをこいでいるのです。童心に返るというのでもなく、昔しっかりとこげなかったことへの老いの再挑戦なのです。

 ブランコと、それに乗せてもらっているおじいさんは、どうもmismatch で、そぐわないかも知れませんが、花びらになったように、振り子時計の気持ちになったり、高く行くようにとこぐ力が、じょじょに強くなっていくのです。

 その公園には、滑り台も鉄棒も、ジャングルジムもあるのですが、落ちて怪我を負いかねないので近づかないことにしています。時々、兄弟でしょうか、姉妹でしょうか、彼らの遊び回っているのを見て、その満足そうな顔が、郷愁を誘い、平和な時代の子どもたちの嬉々とした姿が眩しいのです。その公園には、「ベンチ」が置かれてあります。

 運動公園の中には、「東屋」もあって、小休止や雨宿りのために、時々利用するのです。ある箇所は、お爺さんたちの溜まり場のようになっていて、二つほどのベンチに、肩を寄せ合って座って、どんな話題でお喋りしているのでしょうか。時々、『仲間に入れてもらおうかな!』と思ったりたりはしますが、未挑戦の今です。

 生きてきた道を、「人生街道」と言っても良いのでしょうか。日本橋を起点に、江戸五街道には、「一里塚」が置かれ、また、宿場も設けられて、旅人のための便宜が図られていたのです。実に賢い道路管理があったようです。街道沿いには、茶店が置かれ、旅の疲れが癒されたように、「人生のベンチ」もあったらいいのではないかなと思ったりします。

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 崖崩れや、川止め、獣や盗賊の出現などの情報の交換がなされたように、人生街道にも、小休止場所がって、情報を得ているようです。そこは「息抜きの場」でもあって、これって人に必要な場所に違いありません。それだけではなく、「会話の機会」が、人には必要不可欠なことでもあります。ただし、情報氾濫の今の世では、正しい情報を聞き、答える有益な会話の場が必要なのかも知れません。

 私は、週の初めの日に、人との会話ではなく、魂の創造者、永遠のいのちの付与者である、《神さまとの会話》の素晴らしさを味わっているのです。讃美を歌い、祈り、信仰を告白します。それと共に、講壇からなされる礼拝説教を聞くこと、これこそが、不可欠の神と人との会話なのです。

 驚くような事件の頻発の世界に、熊も獅子もまむしも、幼い子供と戯れるような時が、間なくやってくるのでしょう。私たちの神は、「平和の君」でいらっしゃり、やがて平和な時の到来があることでしょう。その時は、面と面と向かって、父との会話、救い主との会話をすることでしょう。

(私の愛乗のぶらんこ、「いらすとや」のベンチです)

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砂漠花が咲いて

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『荒野とうるほひなき地とはたのしみ、沙漠はよろこびて番紅の花のごとくに咲かがやかん。盛に咲かがやきてよろこび且よろこび且うたひ、レバノンの榮をえ、カルメルおよびシヤロンの美しきを得ん。かれらはヱホバのさかえを見われらの神のうるはしきを見るべし。(文語訳聖書 イザヤ書35章1-2節)』

 今朝、わが家のベランダで開花した、「ノトカクタス(サボテンの一種です)」です。素晴らしく綺麗で、圧倒されてしまいました。砂だらけの砂漠に、いのちが育つことの象徴の植物、背の高いサボテンが、アメリカの西部劇映画に登場していました。

 イザヤも、楽しみや喜びを輝かす「番紅(サフラン)」の花を、荒野や砂漠にも咲かすことを語り、記しました。過酷な自然の中に、いのちを育む、創造の神さまのみ業なのです。

 これらの花よりも、はるかにいのちに溢れ、輝き、喜ばれる神さまがおいでなのです。何度も刺されたので、隅に追いやっていたサボテンの鉢が、大歓迎で、テーブルの上に運ばれました。外は昨夜来の雨ですが、この部屋が輝き出しています。

(上の写真は昨夕、下は今朝撮影しました)
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小遠足の思い出話

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『もろもろの花は地にあらはれ、鳥のさへづる時すでに至り、班鳩の聲われらの地にきこゆ。無花果樹はその靑き果を赤らめ、葡萄の樹は花さきてその馨はしき香氣をはなつ。わが佳耦よ、わが美しき者よ、起て出きたれ。(文語訳聖書 雅歌2章12-13節)』

 ローカル線の電車の運転手さん、市バスの運転手さんと、話す機会があり、人の移動の助けをしている仕事柄、興味深い話をお聞きする機会が多いのです。

 群馬県桐生市に、JR 両毛線の桐生駅を始発に、渡良瀬川の岸を走る電車の始発駅があります。1610年に銅鉱石が発見され、徳川幕府の直轄の鉱山として、その採掘を始めた足尾銅山を結ぶ電車なのです。そこで採掘された銅は、加工を経て、日光東照宮や芝増上寺の造営に使われたそうです。さらに、「鋳銭座」を設け、寛永通宝などの銅銭を鋳造したのです。

 明治期になって、鉱脈が尽きたのか、減産に減産を重ねていきます。ところが古河財閥の手で、新鉱脈が発見されるや、20世紀の初めには、日本の銅の40%を採掘していくのです。そのようなので中で、馬の背での運搬では間に合わなくなり、鉄道が敷設されるに至ったわけです。当時、栃木県下では、宇都宮に次ぐ人口の多い街として、賑わったのが、この足尾だったそうです。

 鉱山王のグリン・ビビアンが、クリスチャンとなって、世界中の鉱山で働く坑夫に重荷を持ち、各国にの鉱山の街に、教会ができるように、この方の遺産が捧げられ、伝道を開始していくのです。ここ足尾でも伝道が開始され、1908年に、キリスト教会が始まります。その教会の建物は、現在も、通洞駅近くにあって、礼拝のために使われていて、過疎になった街に、灯火をかかげ続けています。

 その鉄道が、民営に移管されてた「わたらせ渓谷鉄道」で、2020年の初夏に、私は利用をしたのです。その電車に乗って、上下線の待ち合わせ停車の時間に、運転手さんと話をしたのです。ローカル線の若手の方で、キビキビと運転され好感度満点だったからでしょうか、話しかけたのです。

 『みなさんには楽な仕事に思われるんですが、神経を大変使って、日頃運転しているんです!』、『夜間走行時には、カモシカや日本シカが線路上に出てきて、轢(ひ)いてしまうことが、3週間に一度くらいあるんです!』、それで質問を私がしましたrs、『事故処理は、どうされるのですか?』と、すると、『電車を止めて、線路上に降りて、自分でするんです!』と言っておられました。

 熊とかは皆無で、轢かれるには、逃げようとしない鹿だけで、どうも仕方がないことなのだそうです。渓谷美を見せる沿線では、そんなことが起こっていたのです。帰りは、通洞駅から、東武日光駅まで、日光市営バスに乗車しました。実に美しい、梅雨前の緑の木々の間を走り抜けたのです。また出掛けてみたい小遠足でした。

 足の銅山の公害があったことなど忘れさせるほど、渡良瀬川の流れも清く澄み、木々の緑も圧倒されるほどでした。ここも強者どもが夢の跡で、何事もなかったかのように、自然が溢れた静かな地でした。

 先日乗った市営バスの運転手さんが、『花いじりをした後は、年配者は、石を集めるのだそうです!』と、趣味の変化の話をされておいででした。ベランダに植木鉢が、今は溢れていますが、これから出先で拾った「石」が集められ、やがて置かれるのでしょうか。「収集家( collector  )」とは、年寄りのタイトなのでしょうか。

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 鏃(やじり)や土器のかけらを、家に置いていたことがあった小学生の頃を懐かしく思い出してしまいました。そろそろ入梅でしょうか。銚子港に、入梅いわしが水揚げされたとニュースが伝えています。

(わたらせ渓谷鉄道の車内、ウイキペディアのイワシの魚群です)

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朝顔の鉢植えを終えて

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 今季も、「朝顔」をベランダに咲かせる準備を終えました。種を冷暗所で発芽させ、それを、五月末になって鉢植えしたのです。真夏には、日陰を作って、涼を添えてくれる、花ある景色が好きだからです。

 華南の街の八階のベランダにも、いっぱいに咲かせたことがありました。下から見るには高すぎる景色でしたが、住む私たちには、一夏の慰めでした。年が明けて、正月になっても花を咲かせていたのには驚きました。

(“ ぴくらいく ” からの朝顔のイラスト画です)

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