北喜行の一日を

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  きのうは、栃木から北にある県都・宇都宮に出掛けました。ある新聞記事に、「北(に)げる」という言葉が出ていました。作家の五味康祐が、そう言った表現をしたのだそうで、「逃げる」を、そう表記しているのです。『通常、人は南から北に逃げるのだ!』そうで、だから「北げる」で好いそうです。日常から意を決して、距離を置いて離れていく行動なのでしょうか。

 「北」は、「敗北」の「北」なのです。「北」という漢字のルーツ(字源)は、『背を向けて離れる。すなわち、負けて「逃げる」ということ。』なのだそうです。極北、最北、朔北(さくほく)、北限などの言葉がありますが、みな〈最果て〉を意味しているようです。

『後漢時代、紀元100年頃に著された、中国最古の体系的字書「説文解字(せつもんかいじ)」には、「乖(そむ)くなり。二人相背(あいそむ)くに从(したが)う」と書いてある。・・・じつはこれ、二人の人が背中を向け合って立っているところを描いた文字なのだ。背を向けて乖離(かいり)する(はなれる)——これは「逃げる」ということにほかならない。つまり「敗北」とは、(戦いに)敗れて逃げるということなのだ。(「不思議な漢字―意外と知らない日本語の謎(志田唯史・文春文庫+PLUS)」)』とあります。

「北」の漢字の成り立ち・由来ですが、会意文字です。2人の人が背を向けて「そむく・にげる」を意味します。また、人は明るい南面を好むが、そのとき背にする方角「きた」を意味する「北」という漢字が成り立ちました。(「漢字の成り立ち・由来辞典」より)

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 東武宇都宮線で、家内の通院や、患者さんたちの交流会などで、この過ぎた一週間は、三度も宇都宮方面に出掛けたのです。この日曜日は、「まちなかメディカル・カフェ in 宇都宮」と銘打って、がん患者を中心に、医師、医療従事者、volunteer、家族などの恋流会です。順天堂大学病院で「がん哲学外来」の診療をされている、樋野興夫医師の主唱で全国で持たれている会なのです。

 2016年に、私たちの教会に来ておいでだった方の紹介で知って、集い始めたのです。『何でも話していいのです!』、そして、話したことは、その場で封じて、他言無用の決まりがあります。「ことば」の大切さや重さなどを理解しながら、「話し」、そして「聞く」会で、けっこう熱い会話がなされるのです

 そして、「南げる」をして、意気揚々と、励まされて帰ってきました。30kmほどの鉄路を往復したのです。でも、日常から逃げたのではなく、同じ意識を持つ方々との交わりで、互いに生きる喜び、戦いを分け合って、家内は、とても楽しんでいます。

 発会以来、12年目に入っての「記念会」でした。10ほどのグループ分けがなされて、最後には、「がんとともに健やかに生きる」と言う主題での講演が行われ、家内の主治医がお話しされておいででした。「十周年記念誌」に「どら焼き(感謝の文字がありました)」を手に帰路に着いたのです。まさに「北喜行」という一日でした。

 東武宇都宮線の西川田駅のちかくのカンセキスタジアムで、「TSC(栃木サッカークラブ」と、お隣の茨木市の「いわき」と対戦する試合が行われ、行きも帰りも、そこで乗降する応援のフアンでいっぱいでした。自分も、応援団、人生の戦いの選手であり、応援団であり、当事者であるのを再確認したのです。

(ウイキペディアのオリオン通り、中央生涯学習センターです)

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今朝のベランダの花模様

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 曇り空の朝ですが、綺麗に花が咲き姿を見せてくれています。鈴蘭は全部が開いています。ルピナスは二期目です。撫子はこのところ花をどんどん咲き加えて来ています。

 そして、室内では、五期目の胡蝶蘭が大きく咲いています。みんな創造主をほめたたえ、賛美しているようです。それを眺めて、私も賛美しています。

♯ 私は静かに神を待つ

私の救いは神からくる

私は決して揺るがない

私に救いは神からくる ♯

と賛美しています♪

 好い週末をお過ごしください。

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さまざまな「春の」と「の春」について

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 「春の足音」、「春の息吹」、「春の音」、「春の声」、「春の味わい」などと、その「春の」と言う言い始めに続く表現が多くあります。華南の街の春の訪れは、「春節」にあり、冬の間、待ち侘びていた春の時の迫りに、万物が「蠢く(うごめく)」、「蠢動(しゅんどう)」し始めるのですが、多くの虫が動き出すのが春だからでしょうか、この漢字が当てられています。

 ところが、4月だと言うのに、気温が30℃にもなる日がありました。今や地球は、温暖化で気温が上昇してきています。この夏場は、どうなってしまうのだろうかと心配しているところです。ですから、「短い春」を、もっと楽しみたいと思っていたのです。

 これまで聞き、読みした表現の中で、一番興味を覚えたのが、「春の背筋」、「春の歩幅」でした。北陸地方の地方市の新聞記者の方が、書いていたいた記事で、そう言う表現を知りました。それを読んで、私は、ブログに書いたのです。その一部を、再掲載してみます。

 『・・・「春の背筋と歩幅」と、ある新聞が、昨年の今頃、記していました。とても素晴らしい表現だと感心してしまったのです。と言うのは、真冬に、道行く人の背筋は丸く縮まり、歩幅は小さいのですが、どんなに寒さがぶり返してきても、春の声を聞くと、道行く人の背筋はピンと伸び、歩幅も大きくなるのでしょうか。『春だ!』との思いが、冬の防御的な生き方を終わらせ、期待感や喜びをもたらす生き方に変わっていくからでしょうか。

 これを書いた新聞記者の方が、「米原駅」での経験を添えて記していました。この駅は、在来の東海道本線と東海道新幹線、そして北陸本線の乗り継ぎ駅で、太平洋側に出掛けた方が、北陸の街に帰って行くために乗り換える駅なのです。人生の<交差点>とでも言えるでしょうか。

 この方は、金沢に帰ろうとして、北陸本線に乗り込む前に、駅弁を買ったのです。その様子を見ていた、ある人に、『北陸の人だね。』との声をかけられたのだそうです。雪国の人は、雪が少ない米原の駅でも、背筋を丸め、狭い歩幅で歩くといった特徴を見破られたのです。』

 スーパーの売り場に、真っ赤な上下揃いの下着が、溢れるほどに積まれていました。それは、華南の街の「春の風景」、風物詩でした。「春節」を待望する強い思いは、まず日本ではみられないようです。その巷に溢れかえる色彩に、〈縁起の良い色〉で、まさに「春の色」を見せておるのです。中国の赤は「紅」であって、健康色だと言われています。

 仕事着の医療を商いにする店で、散歩用の靴を買って、それを買い次いで履いてきていますが、残念なことに生産中止で、履き続けることができなくなってしまったのが残念なのです。軽くて、あの地下足袋のように、路上に素足で触れるような感じが好かったのですが、仕方のないことです。代替物を見つけずに、踵のすり減った吃を、まだ履いています。これが、十三年間、記憶に染色された私好みの「赤色のスニーカーなのです。

 もう春を話題にできないほどの気温になってしまいましたから、もう春雷も聞き、春雨に打たれ、春風を頬に感じてしまい、背筋も伸び、歩く歩幅も広くなっていき、すでに「春の終焉」と言ってもよいのでしょうか。今や「春の黄金週間」に突入しているのです。

 「プラハの春」、1968年に、チェコソロバキアの首都のプラハが、ソ連の支配を終えたことを、そう言いました。社会人一年生の年でした。もう夏なのですが、「春の到来」、例えばピョンヤンの春、ペキンの春、そして「キーウの春」は、いつ来るのでしょうか。

(ウイキペディアによる「プラハの春」です)

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ふるさとの

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 三木露風の詩に、「ふるさとの」があります。露風十八の時の作で、初恋の想いを詠んだようです。

ふるさとの 小野の木立に
笛の音(ね)の うるむ月夜や

少女子(おとめご)は あつき心に
そをば聞き 涙ながしき

十年(ととせ)経ぬ 同じ心に
君泣くや 母となりても

 明治末期の少年の恋心、それを詩に表すほどの露風の文才に驚き、さらに早熟だったのにも驚かされます。そんな片思いで終わってしまった初恋の人がいて、恋こがれるような時期が、この自分にもありました。人に言えない、そんな想いを心の奥深くにしまいこんであります。

 もうだいぶ前になりますが、NHKの夜の時間帯に、「にっぽんのメロディー」と言う番組がありました。聴取者からの便りが読まれて、毎晩二曲の歌が放送さたのです。そして俳句が詠まれ、放送を担当した中西龍(りょう)アナウンサーが解説し、番組の前奏曲と後奏曲に、「赤とんぼ」の曲が流れていました。

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか

十五でねえやは 嫁に行き
お里の便りも 絶え果てた

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

 この歌も露風の作詞で、露風の故郷の兵庫県龍野町を思い描いて作詞されたのでしょうか、実に叙情あふれる歌です。私が学んだゼミの歌で、何かあるとみんなで歌ったのです。この詞の中の「姐や」は、お姉さんなのではなく、露風の家のお手伝いさんだったのでしょう。その姐やが、少年露風の初恋の相手だったのかも知れません。この姐やへの想いを詠んだのかも知れません。

 私の家族が、東京に出てきて住んだ家は、旧甲州街道に面していて、小高い丘陵を切り開いて、道路が敷かれていました。そこには、絹糸を取る繭(まゆ)の餌になる、桑の木の畑が広がっていたのです。そこに「どどめ」と呼んだ桑の実がなっていました。

 近所の遊び友だちに誘われて、実を摘んで口いっぱいに、それを頬張ったのです。果物の少ない頃でしたし、初めて食べてから、美味しいので大好きになってしまいました。それが実る季節には、手で摘んで食べ続けていました。 ほんとうに美味しかったのです。今年も、5~6月あたりには実ることでしょう。でも桑畑が、こちらでは見当たりません。

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 幼い日の今日に至る日々の思い出は尽きません。広大な関東平野の西の端に近く、奥多摩を源とする多摩川が流れ下っていて、江戸と甲州、信州を結ぶ間にあった街でした。南に富士を仰いで、田んぼが広がる農村でした。そこに7歳から13年ほど生活したでしょうか。

 「出身地」は、生まれ故郷とは別に、小学校時代を過ごした村や街を言うのだと、聞いたことがあります。貝塚があって、そこに通っては、古代人の生活を探りたい想いで、土を掘り起こしていた日々がありました。古代と自分の時代との、時間の隔たりが不思議で仕方がありませんでした。

 もうふるさとも出身地も、遠い存在になってしまいました。聖書を読む人は、どうも過去にではなく、未来に思いを向けているようです。

 『されど彼らの慕ふ所は天にある更に勝りたる所なり。この故に神は彼らの神と稱へらるるを恥とし給はず、そは彼等のために都を備へ給へばなり。(文語訳聖書、ヘブル書11章16節)』

 「彼ら」とは、神を神として信じた者たちであり、その慕う所は、「天国」だったのです。この地上の生まれ故郷も出身地も、生活を営んだ街々も、比べればさらに勝る所なのです。信仰者たちの「憧れの地」、「永遠の故郷」なのです。そここそ、私の真正の「ふるさとの」であります。今は病むことも、悩み迷うこともあります。でも単純に信じて生きられるのは感謝なことです。

(ウイキペディアによる露風のふるさとの「龍野市の揖保〈いぼ〉川」、「多摩川」です)

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汝も藤原、我も藤原!

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 「落人部落」と言う地域が、日本の国にはあるようです。栄枯盛衰、栄える時期は、そう長くなく、次の支配者に席を譲って、都落ちをし、山間(やまあい)の僻地に移り住んで、ひっそりと田や畑を耕して、生き延びてきた氏族の末裔のようです。

 何年か前に、県の北の方、日光市の湯西川に、清流が流れていて、その上流に、平家の落人伝説の地があって、そこを訪ねたことがありました。東武電鉄の鬼怒川温泉駅からバス路線があって、それに一時間ほど、まさに山の中を揺られながら進んだ終点に、その地があったのです。

 そこに住んでいる人の話によると、落人伝説ではなく、『木こりが移住してきて、ここに住み着いたのが、この部落の始まりなのだとも言われていて、この平家伝説は、最近のものなのかも知れません!』と話してくれました。観光開発のために、その可能性を引き出したのでしょうか。

 それ以前、小学校の地理だったか、歴史の授業でしたか、そこで学んだ、「五家荘(ごかのしょう)」と言う地が、九州熊本にあると言うのを学んだです。独特な伝統を残していて、とても強い興味を引き起こされたのです。

 この五家荘は、熊本の八代市の山間部にあって、『驕る平氏は久しからず!』と、「平家物語」で語り伝えられるように、ここも、その平氏の一統が、源氏の台頭に押されて、政権交代で、九州に落ち延びた、いわゆる残党が住み着いた地なのだそうです。

 ここ下野国の那須地方の出で、源氏に与(くみ)した那須氏の那須与一が、波に揺れる舟の上の扇の的を射抜いた故事がありますが、その「壇ノ浦の合戦」に敗れて、敗走した平氏、滅び尽くされないために、また、いつか再興を期したのかも知れません。

 私が生まれた、中部山岳の地には、飛鳥時代(669年)に始まる「藤原氏」の姓を名乗る家が多くおいででした。明治の御代、それまで、貴族や武士階層だけにつけられていた「姓」が、農家、商家、手工業などの庶民にも「名字(苗字)」を使えるような「苗字必称義務令」が、明治8年に発令されて、姓名を名乗れるようになりました。

 明治維新政府によって、租税を徴収したり、兵役に就かせるために、名字が必要になったわけですが、さまざまな姓が生まれたわけです。ところが武士であろうと農民であろうと、どんな名門に生まれたとしても、roots を求めると、行き着く先は、アダムに至るわけです。

 山奥ですから、奥山とか奥村の名があってよいのでしょうけど、村長さんも、その「藤原姓」でした。かつての、栄華を極めた、古代の貴族の姓だったのです。一族が分かれたり、没落していったからでしょうか、分家した人たちが、畑地や田圃の少ない山間に住み始めたのです。この藤原は、佐藤、伊藤、工藤、近藤、新藤、加藤、斉藤などの「藤」のつく氏族のルーツだと言われています。

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 ところが、聖書によりますと、人は、アダムの子たちによって、増え広がり、ノアの時代以降は、ノアと三人の子たちによって再スタートしていくのです。私たちは、この日本に渡ってきて住み着いた人々によって始まっていることになります。「名の誇り」などは、後の世の出来事であって、姓名に貴賎などないのです。

 『汝(なれ)も藤原、我も藤原!』で、日本中、藤原の子孫が溢れているのでしょう。お隣の下野国佐野に住み着いた藤原氏が「佐藤」、加賀国(今の石川県です)に住み着いた藤原氏が「加藤」だと言われています。両姓とも、日本中に多くいるのでしょう。人は姓によらず、みなアダムの末裔、すなわち罪を犯した者の子孫であって、その人の価値は、人格の高さにあって、その歴史、経緯が分かるのは、創造主なる神さまだけでいらっしゃいます。

(“ Christian clip arts ” によるイラスト、ウイキペディアによる絵です)
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語るという仕事に携わって

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 社会人になってから、教育関係に5年の間働き、その後、伝道者として働き、もう57年ほどになるでしょうか。「話す仕事」に主に、長く携わってきたことになります。誠実な話し手でありたいと願って、周到な準備をして、教壇と講壇に立った積もりですアメリカの教会でも、台湾の教会でも、大陸の教会でも、聖書からお話をする機会がありました。

 教師は、指導書に沿って準備をしたのですが、百科事典を参考にしたりして、授業の教案準備をした日々の充実さは、宝物のように今でも感じております。省立の学校の外国語学部で、10年ほど日本語も教えさせていただきました。また説教の準備は、テキストは聖書ですし、多くの説教者のみなさんが残してくださった書を開いて参考にし、果たして、その自分の思想が正しいかどうかを判断させてもらったのです。

 さらに、祈りながら、けっこう悪戦苦闘の日々でした。「神のことば」を語るという、畏敬の思いがあって、軽々しく解き明かすことはできませんでした。朝が白ける頃になっても、説教準備ができなかったことも何度かありました。また思いが千々に散るのでしょうか、まとまらないことも、よくあったのです。

 まだ若かった頃、母教会での奉仕を終えて、講壇から降りますと、老姉妹が、『今日のお話はよかったわ!』と言ってくださり、労われたこともありました。説教を手話通訳をしてくださって、そのように聞いておられら方もおいででした。講壇を降りて、礼拝が終わると、近づいてくださって、どんな風にみことばを聞いたかを、手話で話してくださったことがあったのです。

 さまざまな必要を持たれて、教会の交わりの中に加えられた人がおいでなのです。それが教会なのだと再認識させられた時でした。韓国やフィリピンや中国やアメリカ、さらにアフリカのナイジェリアからおいでのクリスチャンたちと、一緒に教会生活をした時期もありました。そのみなさんの顔が、今でも瞼の裏に残されて、時々思い出します。

 お隣の国にいた期間は13年でした。一年間は、天津で語学学習を留学生の立場でしたのです。その時、市の施設に見学に行行きまして、留学生証を出しましたら、それを眺めて係の女性に笑われました。60過ぎの留学生が、彼女には意外だったのでしょうか。でも、学割で入場できたのです。南の方の街に越して、省立大学の漢語学部に入学して、学びを続けたのです。

 そこには、日本人も多くいて、フィリピン、タイ、インドネシア、イギリスなどからの留学生仲間がいました。沖縄からの留学生がいて、県職員を早期退職して、単身で留学されていた方もおいででした。学生寮でパーティーが行われ、有志の出し物が演じられ、歌われて、一緒に食事をし、習いたての中国語で談笑したのです。

 教会生活を始めましたら、熱心な方は、” hallelujah “ と威勢よく初見の挨拶でもあるのでしょうか、ヘブライ語で言われるのには驚きました。『主をほめたたえる!』の挨拶も、クリスチャン同士だったらいいのでしょうか。でも使徒行伝でもパウロなどの書簡の中にはみられません。詩篇とヨハネの黙示録には出てきますから、まあ許されるのでしょう。

 韓国の蒸気機関車のように感じる伝道者が、よく講壇の上で、熱烈に話されていて、それを聞いたことがありましたが、主を愛しておられて、褒め称えずにはおられなかったのだと思います。みことばを涙を流してお話になっておいででした。日本語教育を受けておいでで、非常に上手な話し手でした。ご一緒に食事をさせていただいたことがありました。

 聴衆の心を、救い主に向けさせる、伝道者の賜物をお持ちで、非常に謙遜な方でした。この方のような説教者になりたいと、若かった私は思わされたのです。

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 同じ話し手といえば、「噺家(はなしか)」は、抜群にお上手です。昭和の名人に、六代目三遊亭圓生がいました。この円生師匠は、関西人でしたが、義太夫の稽古を受けていたようで、幼い日に東京に住み始めて、上手な江戸弁の話し手だったのです。

 聞くところによりますと、6才の時には、もう20席ほどの演目を持っていて、高座に上がるほどだったそうです。通常、真打は、30~40年の間に努力して100席ほどが普通なのだそうです。ところが、この円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることが出来た、稀代の噺家だったそうです。

 『え~一席、ばかばかしいお話を・・』と言って話し出す落語なのですが、そ れだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられ、さらに落語好きな人間とされてしまいました。何の取り柄もない私が、「聖書」を語る者にさせていただいたことは、望外のことだったのです。でも、語ることは、なかなか難しい仕事であることは確かなことです。

(ウイキペディアによる聖書の写本、6代目圓生一門の定紋です)

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この街に平安がありますように!

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『我汝らを擄移さしめしところの邑の安を求め、これが爲にヱホバにいのれ。その邑の安によりて汝らもまた安をうればなり。(文語訳聖書 エレミヤ書29章7節)』

 神さまが遣わされ、私が住むようにお定めになられた街の《平安》、《繁栄》、《祝福》を祈るようにおっしゃいました。

 週の初めの日、遣わされた街の平安を、主に祈ります。主のご栄光が顕されるためにです。

射干

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 この写真の花は、「シャガ」と呼ばれ、「里山を歩こう」から配信いただいた写真です。あやめ科の花で、「射干」と漢字表記します。原産は中国だそうで、広島の灰ケ峰の山麓に咲いていると知らせてくださっています。

 こんなに素晴らしく花開くのに、驚かされ、《創造の美》に感動させられっぱなしです。花に目覚めた私は、多種多様の花に圧倒させられ、ホームセンターに行きますと、まず、店外の花や苗のコーナーで時間を潰してしまいます。

 『もっと広い庭のある家に住みたい!』と思うことしきりです。狭いベランダには、何種類もの花が開き始めています。ペチュニアが綺麗に咲き、ルピナスは二期目の花が育っています。キキョウも、もうすぐ開花になるでしょうか。

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入笠山の思い出と鈴蘭と

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 JR 中央本線の富士見駅からも行けますが、家内を誘って登った山がありました。それが標高1995mの「入笠山(にゅうがさやま)」だったのです。その時は、車で行きましたが、12月の初めの頃でした。前日には雨でしたが、全く気にしないで、登山者用の駐車場に、車を停めて登ったのです。高くなるにつれて、登山道に、うっすらと雪が積もっていたのです。前日の雨は、そこでは雪だったのに、注意しなかったのです。

 山上の景色が実に綺麗なので、人気の山なのですが、駐車場は、なんとガラガラだったのです。360度見渡せる山に連れて行きたい思いで、登山情報を調べずに登ってしまったのです。だんだん積雪量が多くなっていくのです。お土産屋の軒の下で、お弁当で腹ごしらえをしてから、頂上行きを断念して、林道に出ました。そうしましたら、けっこうな積雪があって、動物の足圧が見られ、『ヤバイ!』と思ったのです。

 蟹に手を引くのですが、何度も滑って点灯してしまいました。雪の積もったら林道を下りても下りても、駐車場に着かないのです。『初老の夫婦、入笠山で遭難!』と言うニュースが思いにやって来るほどでした。

 登山道を引き返した方がよかったのに、それをしなかったのを悔やみながら、雪に難儀したのでしょう、また私が滑って転ぶのを何度も見て、家内は黙り込んでしまったのです。風は冷たく、靴も濡れていました。必死に、祈りながらの下山、やっと駐車場が見えた時の安堵感は、忘れられません。知人に連絡しようとしましたが。携帯電話は繋がりませんでした。

 あんなに恐怖心に駆られたことはありませんでした。山を軽く見たわけではないのですが、状況判断を怠ったわけです。あれ以来、決して無理をしなくなりました。それ以来、低山専門に変えて、今は、蕎麦屋通いの大平山、標高314mで、昨年でしょうか、熊の出没のニュースを聞いた頃から、歩きでは近づかずにしているのです。

 どうして、入笠山を思い出したかと言いますと、何を植えたか忘れていた、ベランダの隅の鉢から芽が出てきて、この写真のように、「鈴蘭」の花が咲き出したからです。この入笠山には花畑があって、鈴蘭が綺麗だったのを思い出し、危うく遭難しかけたことを思い出したわけです。

 健気で、清楚で、可愛い花ですね。若い頃に、白樺湖に行った時にも、この花が綺麗に咲いていたのに、ここ四階のベランダで咲き始めて、なんとも心落ち着かせられているところです。昨日、満開がちょっと過ぎでしたが、大好きな思川桜を見せに連れ出していただいて、それを外に見て、昨日は内に鈴蘭の開花、なんとも言えない春気分の連続です。
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思川の川辺にお連れいただき

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 昨日は、隣町の牧師さん夫妻が、私たちを訪ねてくださり、午後のひと時に、楽しい交わりをさせていただきました。家に上がっていただき、明治初年に、この街でお店を始められた老舗の「柏餅」に、渋茶を飲みながらの談笑でした。その後、私たちを連れ出してくださって、思川の堤にお連れくださって、思川桜が咲き誇っている中を、お交わりしながら散策をしたのです。

 「桜図鑑』によりますと、『久保田秀夫が栃木県小山市東島田・小山修道院に栽培されていた十月桜の種子を1954年に播種、1959年に開花したものが半八重咲で美しい桜だったことから、近くを流れる思川に因んで名付けた品種です。』とありました。

 帰りには、「道の駅」に寄って、野菜などを買うことができました。そこで売っている「給食用麦納豆」が美味しくて、『食べていただきたい!』と、ご夫人が言われてでした。その上、イチゴや焼き芋やゴボウの漬物などをお土産も合わせて買ってくださったのです。ご夫人は、堤の菜の花の芽を摘んでくださって、持たせてくれました。

 夕食に、それをおひたしにして、ちょっとホロ苦い春の味覚を楽しむこともでき、優しいお二人の心遣いでした。子どもたちが遠くにいますので、何か息子と娘の代役をしてくださったようで、ポカポカの春の暖かさも相まって、心温まるひと時に感謝を覚えたのです。

 お二人とも「第二世代」で、牧師家庭に育っておいでで、お嬢さまと息子さんの二人の親御さんです。閉じ籠りがちの私たちを、爛漫の春の河辺に連れ出してくださって、その優しさに感謝した春の一日でした。

(思川桜の近影と遠影です)

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