偏見から客観視へ

 


『ナタナエル言ふ『ナザレより何の善き者か出づべき』ピリポいふ『來りて見よ。』
(文語訳聖書ヨハネ伝1:46)』

 結婚の相手は、『添うてみなければその真価はわからない!』のでしょうか。いえ、試験婚の勧めをしようとしているのではありません。中学一年の時の英語教師と、二十年ぶりに会ったことがありました。たった一年教わっただけでしたが、覚えていてくれたのです。『準、何処にいるの?』と聞いたので、『〇〇です!』と答えたのです。この先生の奥さんが、その県の出身で、その県の出身者は、「最悪」だと言ったのです。

 初老で、ちょっと酔っていての弁でした。有名な大学で教授をされていました。その偏見に驚いたのです。今の不幸せを、奥さんのせいにして、教え子にまで、そんなことを言うので、最高の奥さんを持つ私は、呆れ返ってしまいました。フランス語を専攻された方で、入学した学校では英語を教えてくれたのです。

 まさに、〈添うてみなければ〉、分からなかった結婚をされた英語教師と、主から頂いた奥さんのいる私との違いを、今更ながら知らされた再会でした。フランスまで行って学んで、大学教授にまでなった一人の男性、恩師の二十年後の言葉に驚いて帰宅したのです。

 そういえば、〈飼ってみなければ〉、分からない動物の可愛さもあるのでしょうか。猫嫌いの私は、猫の可愛さが分かったのは、飼ってみてからでした。娘夫婦が、アメリカに帰国するにあたって、長野の南信の街で飼っていた二匹の猫の処遇を、私たちに任せてくれたのです。

 飼っている間に、怪我をして、手術を終えた、布団の中にいた私の胸の上を、走り込んで去って行ったり、駐車場に停めた車の音を聞いて、二匹が並んで玄関で出迎えてくれるうちに、可愛くなってしまったのです。 

 「猫じゃらし」も、娘が置いていってくれたので、それで二匹をジャンプさせるのが面白くて、よくやりました。犬には見られない戯れだったのです。部屋の茶箪笥の上のスペースが、彼らの居場所で、いつも並んで休んでいたのです。

 この猫と「マタタビ」との関係が伝統的に伝えられていました。この記事の初めに掲載した映像は、またたびに応答する一匹の猫の様子を撮影したもの(ウイキペディアによります)です。これを、「猫のマタタビ踊り」と言うのだそうです。ただ踊るためだけだと思っていましたが、それだけではないことが、研究者によって明らかにされているようです。

 岩手大学の宮崎雅雄教授は、獣医師の志望で、動物の嗅覚活動の研究を続けてこられて、ネコの尿から、「コーキシン」と言うタンパク質の新種を発見した方です。この方が、マタタビに酔うように見える猫の行為は、その成分(ネペタラクトールだそうです)で「蚊よけ」をしていると言っておいででした。

 言い伝えられたことを、科学的に研究すると、新しい習性や事実が発見されるのですね。先日の散歩の途中に、猫をヒモに繋いで散歩している方がおいででした。この猫が、私の近づく気配を感じて怖がっていたのだそうで、飼い主が小声で、『怖がらなくていいのよ!』と言って抱き上げていました。それで猫のまたたびの話を思い出したのです。

 偏見で、猫嫌いの人も、妻嫌いの人もいて、この人の世は、様々なのですね。でも、犬が、飼い主の乗っている自転車のカゴや、犬用のカートに入れられていて、それに熱い視線を向けているご婦人がいて、犬たちは幸せそうにしているのを見て、買っていた犬を思い出して、なんとも言えない違和感を覚えました。春先の光景でした。

 ナザレからは立派な人材は出ないとされていたのに、ナザレ人イエスを、行ってその目で見て、「神の子」、「イスラエルの王」、「救い主」であることを理解したのがナタナエルでした。偏見を捨て、客観的にイエスさまを見たからです。今もなお偏見で、真実の姿を見抜けない方が多くいるのでしょう。「ナザレ人イエス」とは、ナザレに「人の子」として、私たちと寸分変わらなく生きた、「神の子」でいらっしゃるのです。

(ウイキペディアによる映像です)

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