汝も藤原、我も藤原!

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 「落人部落」と言う地域が、日本の国にはあるようです。栄枯盛衰、栄える時期は、そう長くなく、次の支配者に席を譲って、都落ちをし、山間(やまあい)の僻地に移り住んで、ひっそりと田や畑を耕して、生き延びてきた氏族の末裔のようです。

 何年か前に、県の北の方、日光市の湯西川に、清流が流れていて、その上流に、平家の落人伝説の地があって、そこを訪ねたことがありました。東武電鉄の鬼怒川温泉駅からバス路線があって、それに一時間ほど、まさに山の中を揺られながら進んだ終点に、その地があったのです。

 そこに住んでいる人の話によると、落人伝説ではなく、『木こりが移住してきて、ここに住み着いたのが、この部落の始まりなのだとも言われていて、この平家伝説は、最近のものなのかも知れません!』と話してくれました。観光開発のために、その可能性を引き出したのでしょうか。

 それ以前、小学校の地理だったか、歴史の授業でしたか、そこで学んだ、「五家荘(ごかのしょう)」と言う地が、九州熊本にあると言うのを学んだです。独特な伝統を残していて、とても強い興味を引き起こされたのです。

 この五家荘は、熊本の八代市の山間部にあって、『驕る平氏は久しからず!』と、「平家物語」で語り伝えられるように、ここも、その平氏の一統が、源氏の台頭に押されて、政権交代で、九州に落ち延びた、いわゆる残党が住み着いた地なのだそうです。

 ここ下野国の那須地方の出で、源氏に与(くみ)した那須氏の那須与一が、波に揺れる舟の上の扇の的を射抜いた故事がありますが、その「壇ノ浦の合戦」に敗れて、敗走した平氏、滅び尽くされないために、また、いつか再興を期したのかも知れません。

 私が生まれた、中部山岳の地には、飛鳥時代(669年)に始まる「藤原氏」の姓を名乗る家が多くおいででした。明治の御代、それまで、貴族や武士階層だけにつけられていた「姓」が、農家、商家、手工業などの庶民にも「名字(苗字)」を使えるような「苗字必称義務令」が、明治8年に発令されて、姓名を名乗れるようになりました。

 明治維新政府によって、租税を徴収したり、兵役に就かせるために、名字が必要になったわけですが、さまざまな姓が生まれたわけです。ところが武士であろうと農民であろうと、どんな名門に生まれたとしても、roots を求めると、行き着く先は、アダムに至るわけです。

 山奥ですから、奥山とか奥村の名があってよいのでしょうけど、村長さんも、その「藤原姓」でした。かつての、栄華を極めた、古代の貴族の姓だったのです。一族が分かれたり、没落していったからでしょうか、分家した人たちが、畑地や田圃の少ない山間に住み始めたのです。この藤原は、佐藤、伊藤、工藤、近藤、加藤、斉藤などの「藤」のつく氏族のルーツだと言われています。

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 ところが、聖書によりますと、人は、アダムの子たちによって、増え広がり、ノアの時代以降は、ノアと三人の子たちによって再スタートしていくのです。私たちは、この日本に渡ってきて住み着いた人々によって始まっていることになります。「名の誇り」などは、後の世の出来事であって、姓名に貴賎などないのです。

 『汝(なれ)も藤原、我も藤原!』で、日本中、藤原の子孫が溢れているのでしょう。お隣の下野国佐野に住み着いた藤原氏が「佐藤」、加賀国(今の石川県です)に住み着いた藤原氏が「加藤」だと言われています。両姓とも、日本中に多くいるのでしょう。人は姓によらず、みなアダムの末裔、すなわち罪を犯した者の子孫であって、その人の価値は、人格の高さにあって、その歴史、経緯が分かるのは、創造主なる神さまだけでいらっしゃいます。

(“ Christian clip arts ” によるイラスト、ウイキペディアによる絵です)
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