春の小遠足へ

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 一昨日は好天でしたので、家内を誘って、「ふれあいバス」の一日乗車券を買って、市の北に出かけました。バス停は、巴波川を跨ぐ「幸来橋」のたもとにあり、その際に、舟運の河岸風景を掘り込んだ土盤が掲出されています。

 ほぼ一時間ほど乗ったでしょうか。「道の駅」には、綺麗な桜花が満開でした。レストランには、知人夫妻が、美味しそうに蕎麦を食べておいでで、食べ終わったのでしょうか、順番を待つ私たちの前に立たれて、しばらくでしたが談笑することができました。家内は蕎麦を食べ、私はカレーライスでした。

 帰りにはイオンモールが、バスの終点でしたので、乗り換えに30分ほどありましたので、店内を歩き、市内循環バスに乗って、家の前のバス停で降りたのです。半日ほどの小旅行が出来るほど、体力の回復が見られる家内は、楽しそうでした。

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英雄から父に

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 『人の子その榮光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時、その榮光の座位に坐せん。 かくてその前にもろもろの國人あつめられん、之を別つこと牧羊者が羊と山羊とを別つ如くして、 羊をその右に、山羊をその左におかん。 ここに王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せられたる者よ、來りて世の創より汝等のために備へられたる國を嗣げ。 なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ、 裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」 ここに、正しき者ら答へて言はん「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飮ませし。 何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし。何时なんぢの病みまた獄に在りしを見て、汝にいたりし」 王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」 (文語訳聖書マタイ伝25:3140)』

 子どもの頃の「憧れ」でしょうか、英雄視していた人物が何人もいました。とくに、この時期の成長段階には、《英雄》が必要なのです。たとえば歴史上の人物、おとぎ話の主人公(桃太郎)、プロ野球の選手、映画俳優など、憧れの的でした。でも、十六貫の小太りで、髭が濃くて、何でも知ってる、Yシャツにネクタイの背広を着て、黒革靴を履き、颯爽としていたのが《父》でした。風呂に入ると、安全剃刀の歯をガラスのコップの中で研ぐように、物を大切にし、書庫や箪笥はきちんと整理されていて几帳面でした。父は、子どもの私のまさに《英雄》だったのです。でも真の英雄とは、どんな人なのでしょうか。

 1840年に、トーマス・カーライルが公演活動をし、その内容を記した、「英雄崇拝論」を刊行しています。『歴史は偉人(ヒーロー)の影響によって大きく説明できる。偉人とは、優れた知性、英雄的 勇気、並外れた指導力、神の霊感などの生まれ持った特性によって、歴史に決定的な影響を与えた、非常に影響力のあるユニークな個人を指す。』と言って、英雄を語ったのです。

 カーライルは、英雄には6つのタイプがるとしました。「神としての英雄(オーディンなど)」、「預言者(モハメットなど)」、「詩人(シェークスピアなど)」、「司祭(マルティン・ルターなど)」、「文人(ルソーなど)」、「王(ナポレオンなど)」が代表です。

 日本でも、「江戸中期の三明君」と言って、米沢藩の上杉鷹山、紀伊和歌山藩の徳川治貞、肥後熊本藩の細川重賢、「維新の三傑(英傑)」と言って、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通をあげています。きっと自分が出た学校にも、、住んでいる街にも、そう言われている人材がいそうです。

 この英雄の評価ですが、業績第一で、人格の高潔さよりも、業績の面での評価が強いのではないでしょうか。『何をしたか?』であって、『どのような人であったか?』を重視していないのです。〈英雄、また人なり〉で、父も誰も、みんな弱さを兼ね備えていたわけです。でも、聖書を読み始めて、人格の高潔さだけが、倣うべきだと判りました。

 実は、それほどの人ではなかったことを知って、裏切られたような思いにされたことがありました。これは、クリスチャンにされてからも、信仰の強者、屈強のキリストの弟子のように思っていた人物が、実際は、そんなに清廉潔白な人でも、信仰者の見本でもなかったことを知らされて、ただの野心の人だったのを知らされて、納得させられています。

 もちろん、会って交わりをして自己判断をしたのではなく、英雄のカバーを外した実態は、正直な情報を耳にしてからでしょうか、裏情報、書かれたものから、真実の姿を知ったからです。よく〈化けの皮が剥がされる〉と言いますが、〈隠されたもの〉はやがて露わにされるのです。

 旧日本軍の精鋭で、最強の軍隊だと思っていた「関東軍」は、中国東北部の満族に地に、1932年に「満州国」を建国し、五族共和を図り、大東亜共栄圏を作ろうとしたのです。それは理想国家の建国だと思われました。もちろん、それは軍部だけの策略ではなく、当時の日本政府の国策であったのです。

 この雄々しいとされた日本男児たち、軍人たちの建国した国には、遠大な理想を掲げていました。現状を打開したかった日本人は、満蒙に鉄道を敷設し、石炭の採掘などと共に、農業用移民を果たします。米英を代表する国々の支配下に置かれ、植民地となっていた東アジアの民族の解放を目論み、アジア人の地に、自らの国家を作ろうとしたのは、立派だと思っていました。

 ところが掲げた満蒙開拓のスローガンと、満蒙の現実とは、全く違っていたのです。融和政策ではなく、侵略でしたから、現地の人々にとっては脅威にしか感じられなかったのです。五族共和などは、机上の空論であったわけです。

 敗戦後、山西省にあった関東軍は、その終戦の詔勅が発せられた後、一人の佐官の将校に後を任せて、最高責任者たちは、特別機で山西省を脱出して、日本に帰国してしまうのです。2600名もの残留兵は、蒋介石軍に加わって、共産党の八路軍と、3年半も戦ったのです。

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 残留兵を指揮したのは、今村方策大佐(中国は日本軍の「最高参謀」と高く評価しています)でした。暖かな人柄の人だったそうで、部下に慕われた上官でした。部下の処遇に奔走した後に、彼らの無事の帰国の確約をとってから、ご自分は、責任をとって自決されています。こう言った事実は隠されていて、知る人のみぞ知ることなのでしょう。『私は「蟻の兵隊」だった 中国に残された日本兵(岩波ジュニア新書)』を書かれた、元山西残留兵だった奥村和一、酒井誠は、そう書き残しています。この大佐こそ、真の日本の軍人であったのでしょう。

 また〈和製パウロ〉のように、説教上手で、自分の託された群れに、多くの人を集め、さらに枝教会をいくつも興した人がいました。18ほどの私は、この人の説教を聞いて、その弟子になりたいと思ったことがあったほどでした。母が自分の魂を委ね、所属していた教会は宣教師の始められた教会で、特集に誘われて行きますと、アメリカやオランダなどからの説経者ばかりでした。そんな時に、和製説経者が珍しく来られて、若い私は、そう思ったのです。でもこの方の晩年に、問題が露見して、信頼したり、従うべきは『人ではないのだ!』と学ばされました。

 聖人のように、高い評価を得ておられた方が、貧しく病んでいる隣人への愛に生きておられて、注目の的でした。大変立派だと思っていました。ところが、団体の上手な宣伝の産物、広告塔だったこと、集まった金銭を私物化し、キリストの苦難に倣って、信者は、それを味わうべきだとして、最低限度の医療を施し、シーツも汚れたままで、痛んでいる病人への緩和治療もしなかったのです。自分が病んだ時には、近代病院で、最高水準の医療を受けていたのが分かりました。この方の偽善が暴露されたのです。ただの人でした。

 政治家や経営者はともかく、なんと有名な神学者も、名だたる牧師も、人の目から隠れた生活があって、scandalous な生き方をしていて、その隠されたことが露わにされてしまいます。多くの若い牧会者が、憧れた器が、ただの堕落者だと知らされた落胆は、非常に大きいのです。

 あの野口英世も同じでした。疫学の世界では名を馳せ、小学生の私は、幻燈や人物伝を見て、《日本のキラ星》のように思っていました。ところが、彼の生活は、大酒に溺れ、行状は最悪で、自堕落でした。この人の表した研究論文も、全く評価されずじまいでした。

 イエスさまに祝福される人とは、「正しき者(マタイ伝25章)」であると、聖書でイエス・キリストが言われたのは、隠れたところでなした善行や慈愛のことで、しかも、人に為したことは、救い主イエスさまへの行為だと言われました。誰の目にも止まらないような、認められないような、自分でも思い出すことなどない、《善意ある行い》のことです。そう言った人こそ、神の国の《英雄》なのです。まさに〈化けの皮〉を持たない人の行いであります。

 子どもの頃の英雄だった父が、英雄でないことを、大きくなるに従って理解しましたが、「英雄の父」から、「父は父なるが故に父として遇する」を学んで、敬意と感謝を表すことを、いまだに忘れずにおります。その他の人は、ただの人でした。《義(ただ)しき》は、イエスさまだけであります。すべきは、そのイエスさまへの愛と感謝であります。

(ウイキペディアの人形の桃太郎、山西省名物の山西老陳醋です)

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