さまざまな「春の」と「の春」について

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 「春の足音」、「春の息吹」、「春の音」、「春の声」、「春の味わい」などと、その「春の」と言う言い始めに続く表現が多くあります。華南の街の春の訪れは、「春節」にあり、冬の間、待ち侘びていた春の時の迫りに、万物が「蠢く(うごめく)」、「蠢動(しゅんどう)」し始めるのですが、多くの虫が動き出すのが春だからでしょうか、この漢字が当てられています。

 ところが、4月だと言うのに、気温が30℃にもなる日がありました。今や地球は、温暖化で気温が上昇してきています。この夏場は、どうなってしまうのだろうかと心配しているところです。ですから、「短い春」を、もっと楽しみたいと思っていたのです。

 これまで聞き、読みした表現の中で、一番興味を覚えたのが、「春の背筋」、「春の歩幅」でした。北陸地方の地方市の新聞記者の方が、書いていたいた記事で、そう言う表現を知りました。それを読んで、私は、ブログに書いたのです。その一部を、再掲載してみます。

 『・・・「春の背筋と歩幅」と、ある新聞が、昨年の今頃、記していました。とても素晴らしい表現だと感心してしまったのです。と言うのは、真冬に、道行く人の背筋は丸く縮まり、歩幅は小さいのですが、どんなに寒さがぶり返してきても、春の声を聞くと、道行く人の背筋はピンと伸び、歩幅も大きくなるのでしょうか。『春だ!』との思いが、冬の防御的な生き方を終わらせ、期待感や喜びをもたらす生き方に変わっていくからでしょうか。

 これを書いた新聞記者の方が、「米原駅」での経験を添えて記していました。この駅は、在来の東海道本線と東海道新幹線、そして北陸本線の乗り継ぎ駅で、太平洋側に出掛けた方が、北陸の街に帰って行くために乗り換える駅なのです。人生の<交差点>とでも言えるでしょうか。

 この方は、金沢に帰ろうとして、北陸本線に乗り込む前に、駅弁を買ったのです。その様子を見ていた、ある人に、『北陸の人だね。』との声をかけられたのだそうです。雪国の人は、雪が少ない米原の駅でも、背筋を丸め、狭い歩幅で歩くといった特徴を見破られたのです。』

 スーパーの売り場に、真っ赤な上下揃いの下着が、溢れるほどに積まれていました。それは、華南の街の「春の風景」、風物詩でした。「春節」を待望する強い思いは、まず日本ではみられないようです。その巷に溢れかえる色彩に、〈縁起の良い色〉で、まさに「春の色」を見せておるのです。中国の赤は「紅」であって、健康色だと言われています。

 仕事着の医療を商いにする店で、散歩用の靴を買って、それを買い次いで履いてきていますが、残念なことに生産中止で、履き続けることができなくなってしまったのが残念なのです。軽くて、あの地下足袋のように、路上に素足で触れるような感じが好かったのですが、仕方のないことです。代替物を見つけずに、踵のすり減った吃を、まだ履いています。これが、十三年間、記憶に染色された私好みの「赤色のスニーカーなのです。

 もう春を話題にできないほどの気温になってしまいましたから、もう春雷も聞き、春雨に打たれ、春風を頬に感じてしまい、背筋も伸び、歩く歩幅も広くなっていき、すでに「春の終焉」と言ってもよいのでしょうか。今や「春の黄金週間」に突入しているのです。

 「プラハの春」、1968年に、チェコソロバキアの首都のプラハが、ソ連の支配を終えたことを、そう言いました。社会人一年生の年でした。もう夏なのですが、「春の到来」、例えばピョンヤンの春、ペキンの春、そして「キーウの春」は、いつ来るのでしょうか。

(ウイキペディアによる「プラハの春」です)

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ふるさとの

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 三木露風の詩に、「ふるさとの」があります。露風十八の時の作で、初恋の想いを詠んだようです。

ふるさとの 小野の木立に
笛の音(ね)の うるむ月夜や

少女子(おとめご)は あつき心に
そをば聞き 涙ながしき

十年(ととせ)経ぬ 同じ心に
君泣くや 母となりても

 明治末期の少年の恋心、それを詩に表すほどの露風の文才に驚き、さらに早熟だったのにも驚かされます。そんな片思いで終わってしまった初恋の人がいて、恋こがれるような時期が、この自分にもありました。人に言えない、そんな想いを心の奥深くにしまいこんであります。

 もうだいぶ前になりますが、NHKの夜の時間帯に、「にっぽんのメロディー」と言う番組がありました。聴取者からの便りが読まれて、毎晩二曲の歌が放送さたのです。そして俳句が詠まれ、放送を担当した中西龍(りょう)アナウンサーが解説し、番組の前奏曲と後奏曲に、「赤とんぼ」の曲が流れていました。

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか

十五でねえやは 嫁に行き
お里の便りも 絶え果てた

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

 この歌も露風の作詞で、露風の故郷の兵庫県龍野町を思い描いて作詞されたのでしょうか、実に叙情あふれる歌です。私が学んだゼミの歌で、何かあるとみんなで歌ったのです。この詞の中の「姐や」は、お姉さんなのではなく、露風の家のお手伝いさんだったのでしょう。その姐やが、少年露風の初恋の相手だったのかも知れません。この姐やへの想いを詠んだのかも知れません。

 私の家族が、東京に出てきて住んだ家は、旧甲州街道に面していて、小高い丘陵を切り開いて、道路が敷かれていました。そこには、絹糸を取る繭(まゆ)の餌になる、桑の木の畑が広がっていたのです。そこに「どどめ」と呼んだ桑の実がなっていました。

 近所の遊び友だちに誘われて、実を摘んで口いっぱいに、それを頬張ったのです。果物の少ない頃でしたし、初めて食べてから、美味しいので大好きになってしまいました。それが実る季節には、手で摘んで食べ続けていました。 ほんとうに美味しかったのです。今年も、5~6月あたりには実ることでしょう。でも桑畑が、こちらでは見当たりません。

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 幼い日の今日に至る日々の思い出は尽きません。広大な関東平野の西の端に近く、奥多摩を源とする多摩川が流れ下っていて、江戸と甲州、信州を結ぶ間にあった街でした。南に富士を仰いで、田んぼが広がる農村でした。そこに7歳から13年ほど生活したでしょうか。

 「出身地」は、生まれ故郷とは別に、小学校時代を過ごした村や街を言うのだと、聞いたことがあります。貝塚があって、そこに通っては、古代人の生活を探りたい想いで、土を掘り起こしていた日々がありました。古代と自分の時代との、時間の隔たりが不思議で仕方がありませんでした。

 もうふるさとも出身地も、遠い存在になってしまいました。聖書を読む人は、どうも過去にではなく、未来に思いを向けているようです。

 『されど彼らの慕ふ所は天にある更に勝りたる所なり。この故に神は彼らの神と稱へらるるを恥とし給はず、そは彼等のために都を備へ給へばなり。(文語訳聖書、ヘブル書11章16節)』

 「彼ら」とは、神を神として信じた者たちであり、その慕う所は、「天国」だったのです。この地上の生まれ故郷も出身地も、生活を営んだ街々も、比べればさらに勝る所なのです。信仰者たちの「憧れの地」、「永遠の故郷」なのです。そここそ、私の真正の「ふるさとの」であります。今は病むことも、悩み迷うこともあります。でも単純に信じて生きられるのは感謝なことです。

(ウイキペディアによる露風のふるさとの「龍野市の揖保〈いぼ〉川」、「多摩川」です)

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