凡に生きる

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 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 (詩篇9010節)』

 この水面に竿さす人の姿が、私は大好きなのです。静かな湖面に竿をさし、どこから来たのでしょうか。どこへ行くのでしょうか。対岸の家に帰るのか、または友人を訪ねるのか、それを私は知りません。

 竿を肩にする姿がいいのです。目を水面に向ける真剣さが伝わってくるのです。どうも渡し舟ではなさそうです。この人は、きっと魚を獲る漁師で、漁をしているのでしょう。その魚を売って、家族を養い、子に漁を教えるのです。自分の生涯をこの一事に捧げて生きています。

 この人のお父さんも、そのようにして生きていたにちがいありません。まさに凡(おお)に生きる人たちなのです。彼も彼の子も孫も、父親の後を継いで、父のように生きるのでしょう。ありきたりの一生を繰り返して、受け止めて生きていくのでしょう。

 エンジン付きの大きな船を操縦することだってできそうです。でも、そうしないのです。大海に漕ぎ出すことだってできそうです。でも、そうしないのです。父親のように凡に、この川に生きてきているのです。

 誰かに励まされたり、また貶(けな)されることもなく、ただ寂寞の中を、流れに棹さして生きるのです。流れるのは、川ばかりではなく、時代も世代も全てが流れて、元のままではないわけです

 一人で生まれ、孤(ひと)で生きて、そして独り死んでいくのです。でも、神さまの見守りがあったのを覚えていません。この絵の水面は、今は静かなのです。大雨を受けて激流、濁流になることもあったのでしょう。わが家の下を流れる巴波川を、春夏秋冬、朝な夕なに眺めて、源流の「しめじが原」のことなどに思いを向けています。

 『それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇9012節)』

 それゆえ、私たちは、自分の分の生きる日々に思いを向けるように、神さまはおっしゃるのです。幸いな日も、辛い出来事の日もあったのです。喜んだ日も悲しんだ日もあったのです。いつか、その舟も竿も子に譲る日、死すべき日が来るのです。その日を迎えても、慌てないためにです。人の世は短いのです。

 しかし神さまは、《永遠の神》でいらっしゃるのです。そして、凡に生きてきた私たちも、永遠に生きられるのです。私の日を定められた神さまを信じ、飛び去る日が来るまで、祈りながら定められた日々を、また凡に生きるのです。神と伴に。

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