あのことのあった日米に

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 『憧れのハワイ航路!』と言った歌詞の歌がありました。終戦から3年後に流行った歌だそうですが、真珠湾攻撃をしてから10年も経たないのに、日本人が、ハワイ観光を考えることが出来たことに、日本人の不思議さを感じてならないのです。ちょうどドイツ人が、ポーランドのアウシュビッツに旅行することを、しかも憧れて観光したいと願ったことと同じに考えたらたらいいのかも知れません。ほとんどのドイツ人はしなかったでしょうに。

 それまで鬼畜米英だと言っていた日本人が、敗戦後、何年も経たないうちにアメリカ映画を観て、洋モクを吸って、アメリカ製のウイスキーを飲むことに、何の抵抗もなく、心を翻すことができるのですね。適応力がいいと言えば、それですみますが、感情が平気でついていけることが不思議でならないのです。

 新聞小説の「氷点」で一躍、売れっ子作家となった三浦綾子は、戦後、大きな心の葛藤を覚えたことを語っておられます。戦時下、小学校の教師をしていた時に、多くの小学生に、戦争を肯定したこと、そして何人もの生徒を予科練に征かせたことを悔いたのです。国の教育政策に従いながら、自分が間違ったことを教えたことに、痛恨の念を覚えたことを明かしていました。

 でも多くの人たちが、そっと口をぬぐって、平気で主張も思想も変えてしまったのだそうです。支配者や指導者が変わると、上手に追従できる日本人のことを考えますと、徳川300年の鎖国下に、『長いものには巻かれろ!』とか『寄らば大樹の陰!』と言った処世術を身に付けたからなのではないか、と考えてしまうのですが。

 数年前に、息子の結婚式がホノルルで行われた時に、それまで避けていたアリゾナ・メモリアルの戦艦アリゾナの見学を、息子の結婚を機に、実現したのです。この息子が、ハワイ島ヒロの公立高校で学んでいた時に、級友から、『真珠湾の奇襲攻撃を、どうしてくれるのか?』と責められたのです。とっさに16才ほどの息子は、『では、広島をどうしてくれるんだ?』と返したのです。50年近くも経っているのに、おじいちゃんの世代の出来事を、双方が引きずっていたことになります。

 さて、戦後の子なのに、特攻隊や予科練に憧れた軍国少年魂に燃えていたことのある私は、加害者だという意識があったので、何度もハワイを訪問しながらも、行けなかったのですが、意を決して家内を伴って息子と訪ねたのです。アリゾナ・メモリアルのステージの上に立った時、『申し訳ありません!』と言った気持ちで涙が流れて仕方がありませんでした。

 『関係ない!』と言えば、そうかも知れません。しかし、侵略の被害者の中国や韓国の人たちのことを考えますと、靖国神社を参拝する日本の首相の無配慮な心に対して、『関係ない!』と、私たち加害者の国の国民には言えないのではないでしょうか。

 戦時下に、中国大陸や朝鮮半島や真珠湾で、どんなことが行われたかを知ったら、靖国神社の前で、心の踵を返して、『本当に申し訳ありませんでした。赦してください!』と謝罪して当然ではないでしょうか。私たちの世代は、アメリカのキリスト教会から贈られたLALA物資の脱脂粉乳を飲んだ時代の子だったのです。加害者の国の善意によって、生かされたのです。 あれから何年も何年も経っています。

 忘れる努力をしていてくださる中国や韓国のみなさんの前で、国家的な過去の罪を、真に知るべきではないでしょうか。そして、心からの謝罪をすべきだと信じるのです。たいへん遅過ぎるのですが。 

(写真は、ハワイのパール・ハーバーの「アリゾナ・メモリル」) 

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