沖縄県

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 これまで戦時中の話を聞いてきた中で、一番の衝撃的なことは、沖縄戦での出来事です。一つは、本土守備のために、多くの戦闘機が、その海域で、アメリカ軍の戦艦に向かって、爆弾もろともに突撃したという、特攻隊の出来事です。

 弱冠十七歳で、突撃した少年飛行兵は、『自分が死んでも絶対に泣かぬよう。国のために死ぬのです。』と、家族への最後の手紙に記しています。父や母や兄弟姉妹を思う、あの時代の少年の一途さと気持ちが読み取れて、なんとも言うことばがありません。勇ましさへの憧れが、私の少年期にもあったのですが、残念な出来事でした。

 世田谷の朝顔教会を長く牧会した井出定治牧師の手記を読んだことがあります。特攻隊員の生き残りで、出撃の準備中に終戦を迎えています。19歳の時でした。『それまで私を支え、かつ永遠と信じていた「神国」がまさに崩れ去ると、もはやこの「国宝」を支える何物も残らなかったのです。在るものといえば、ただ軍隊という組織の中で、人間性を喪失した形骸でした。痴呆、虚脱、それが私の二十代の開幕でありました。(「泉への細きわだち」から)』と述べておいでです。戦後、イギリス人の婦人宣教師との出会いを、感慨深く記しています。

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 海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2045人、陸軍では1022人の兵士が亡くなっているのです。特攻機だけではなく、「人間魚雷」での爆弾攻撃もありました。その様な時代を再び迎えたくない思いでおります。

 もう一つは、捕虜になることを恥とする思いから、集団自決をされたみなさんのことです。『アメリカ軍は捕虜は殺さないから!』と言うことを聞かなかった人たちと、聞いた人たちとの差に、私は驚かされたのです。読谷村(よみたんそん)の「ガマ(洞窟を沖縄ではこう呼んでいます)」に攻撃を避けて避難した人たちの二つの決定的な違いです。

 今は、平和が戻っていますが、民間人94000人の犠牲者を出した沖縄での戦争を思うにつけ、戦争が何をもたらすのか、国家の威信、発揚、野望などが、人の犠牲を伴なうということなのです。今まさに、ウクライナ戦争で、その亡くなられる方の数を聞きますと、震えるほどの思いになります。

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 私は、沖縄には出かけたことがありません。子どもの頃に、父が、戦時中に撮影された写真集を買ってきてくれたことがありました。見た私には強烈な衝撃ばかりでした。そのせいもあって沖縄を訪ねることをしないままでおります。県庁は那覇市にあり、県花は「デイゴ」、県木は「琉球松」、県鳥は「ノグチゲラ」、人口は147万人です。第三次産業が、80%に届こうとしている観光が主要な産業の県です。

  「試練の歴史」を乗り越えて、今の沖縄があります。この沖縄、かつての「琉球王国」は、薩摩藩が1609年に攻め入って、支配下に置いている歴史があります。豊臣秀吉は、朝鮮半島や琉球を支配下に置こうと企てますが、その間に死んでしまいます。その後、島津家久が、侵略したのです。大陸は明の時代でしたから、日明貿易での利益のための侵攻だったのです。

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 戦後、アメリカの支配が続き、日米安保条約の下で、アメリカ軍の極東戦略の重要基地が置かれ続けています。「基地問題」は、大きいのですが、基地があることでの経済効果とか、また観光収入の財源に頼る県にとっては、難しい立場を持ち続けているのです。沖縄外の私たちには、何も言えない立場に置かれているわけです。

 琉球語があり、台湾や福建省の一部の言語の「闽南语minnanyu」に似た語もあると、沖縄からの中国への留学生が話していました。沖縄で歌われた歌で有名な歌があります。

一、てぃんさぐぬ花や
爪先(ちみさち)に染(す)みてぃ
親(うや)ぬゆしぐとぅや
肝(ちむ)に染みり

<意味>
ホウセンカの花は 爪先を染める
親の教えは 心に染みる

二、天(てぃん)ぬ群(む)り星(ぶ)しや
読(ゆ)みば読まりしが
親(うや)ぬゆしぐとぅや
読みやならぬ

<意味>
天の星々は 数えれば数え切れても
親の教えは 数え切れないものだ

三、夜(ゆる)走(は)らす船(ふに)や
子ぬ方星(にぬふぁぶし) 目当(みあ)てぃ
我(わ)ん生(な)ちぇる親(うや)や
我んどぅ目当てぃ

<意味>
夜の海を往く船は 北極星が目印
私を生んだ親は 私の目印

四、宝玉(たからだま)やてぃん
磨(みが)かにば錆(さび)す
朝夕(あさゆ)肝(ちむ)磨(みが)ち
浮世(うちゆ)渡(わた)ら

<意味>
宝玉と言えど 磨かなければ錆びる
朝夕と心を磨いて 生きて行こう

五、誠(まくとぅ)する人や
後や何時(いじ)迄(まで)いん
思事(うむくとぅ)ん叶(かな)てぃ
千代(ちゆ)ぬ栄(さか)い

<意味>
正直な人は 後々いつまでも
望みは叶い 末永く栄える

六、なしば何事(なんぐとぅ)ん
なゆる事(くとぅ)やしが
なさぬ故(ゆい)からどぅ
ならぬ定み

<意味>
何事も為せば成る
為さないから 成らぬのだ

七、行(い)ち足(た)らん事(くとぅ)や
一人(ちゅい)足(た)れ足(だ)れ
互(たげぇ)に補(うじな)てぃどぅ
年や寄ゆる

<意味>
一人で出来ないことは 助け合いなさい
互いに補い合って 年を重ねていくのだ

八、あてぃん喜ぶな
失なてぃん泣くな
人のよしあしや
後ど知ゆる

<意味>
有っても喜ぶな 失っても嘆くな
それが良いか悪いかは 後になって分かることだ

九、栄(さかい)てぃゆく中に  
慎しまななゆみ
ゆかるほど稲や
あぶし枕ぃ

<意味>
栄えても 謙虚でいろ
実るほど頭を垂れる稲穂が
あぜ道を枕にするように

十、朝夕寄せ言や
他所(よそ)の上も見ちょてぃ
老いのい言葉(くとぅば)の 
余りと思(うむ)ぅな

<意味>
お年寄りの言葉にはいつでも
世間を見習い耳を傾けよ
老人の繰り言だと侮るな

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 沖縄の県庁勤務だった方が、早期退職されて、中国語の留学で、華南の町で、一緒の寮にいたことがありました。毎朝、新聞を買いに出て、学んでいた熱心な同世代の留学生でした。また、アルバイト時代に、まだ本土復帰前でしたが、その仲間に、沖縄出身者がいて、一緒に働いたことがありました。

 家内は、東京の晴海埠頭から那覇まで船に揺られて、学校の教授の引率で、沖縄を訪問したことがあるのです。食堂の手伝いをしながら、揺れに苦労しながらの旅だったそうです。卒業した先輩たちのいる離島を訪問して、交わりをもったそうです。民家に泊めていただいたのだそうですが、いつまで経っても布団が出てこなかったので、家のみなさんの様子を見にいったら、ゴザの上に横になっていたそうで、それに倣って夜を過ごした思い出があるそうです。

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 米軍の基地が多くあることが、沖縄県の大きな課題で、県の財政ににも、基地存続は欠かせないのですが、建前だけではいけないのかも知れません。一朝事ある時には、再び戦場にもなる可能性が大きく、重い課題であります。

 同じ年の生まれ、川上や藤田元治に憧れた野球小僧で、沖縄から、初めて甲子園に出場した沖縄高校のピッチャーとして、南九州代表でした。プロ野球の広島、阪神、そして再び広島で活躍した安仁屋宗八がいます。漁師のお父さんに育てられていて、同じ時代の風を感じながら生きた沖縄県人として、身近に感じる人です。

(「白旗の少女」、「ガマ」、「デイゴ」、「黒糖」、「沖縄そば」です)