香川県

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 四国の愛媛県に一人の牧師を訪ねたことがありました。それで、東名道、名神道を走って、姫路市に寄り、瀬戸内海をフェリーボートで小豆島に上陸し、土庄港(とのしょうこう)からフェリーに乗り換えて、上陸したのが香川県高松市でした。

あれは高松 最終便
聖書(☞グラス)持つ手に 汽笛がからむ
ここは瀬戸内 土庄港
俺(☞恋)も着きます 夢もゆく
春の紅さす いのち(☞ネオン)町(「波止場しぐれ 3番)

 高松市に、源平合戦で有名な屋島があります。権勢をほしいままにした平氏が、京の都から福原に逃れ、そこから筑紫国の太宰府に西走するのですが、そこにも居場所を見つけられずに、ついに、屋島に落ち着きます。しかし源氏の追手は、戦を仕掛けてきまして、そこでの戦いを「屋島の戦い」と言います。

 源頼朝に従った、下野国の那須與一が、揺れ動く船の扇を射抜くという有名な出来事があったのも、この戦の時でした。優れた武将を産んだ下野国、現在の大田原市には、與一(与一)由来の温泉や饅頭や最中(もなか)があって、郷土の誇りなのでしょう。

 この那須は、源氏の武将の出の地ですが、日光の奥、福島県寄りには、平氏の落人(おちうど)伝説のある「湯西川」があります。現地の方の話では、野武士の残党説もあって、観光目的の村興しなのかも知れません。この春、泊めていただいたペンションの女主人に、『わたしの祖先は、源氏一党の末裔(まつえい)だと、父が言っていたんで、泊めていただいても大丈夫ですか?』と言いましたら、苦笑いをしていて、敵愾心なしでした。
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 さて、香川県の県都は高松市、県花と県木はオリーブ、県鳥はホトトギス、県獣は鹿、人口93万人で、県の面積は、46都道府県の中で最小なのです。

 戦後間もない頃に、「二十四の瞳(ひとみ)」という映画が上映されました。瀬戸内海に位置する小豆島の小学校を舞台にした、戦前から終戦後の間の学校物語でした。学校で見たような記憶があります。学校出たての新任の「大石先生(おんな先生)」が担任で、12人の生徒の物語でした。瀬戸内海に浮かぶ小島という舞台は、遠い世界の感じがしていたのを覚えています。

 香川は、律令制下では、「讃岐国(さぬきのくに)」で、壊疽幕府のもとには、高松藩、丸亀藩、多度津藩の三藩がありました。わたしたちの住む街にも、讃岐人が始めたのではない、讃岐うどん店(丸亀製麺)があって、全国展開、いまでは海外にも支店を持っていることで有名な、「うどん」で有名な県なのです。どこにもあるうどんですが、香川県は、うどんの王道は、「醤油」の特産地であるので結局、おいしい生醤油(きじょうゆ)で食べられることも、「讃岐うどん」が人気な理由なのでしょう。

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 わたしは若い時に、岡田稔という牧師の説教を聞いたことがありました。実に穏やかな話し方をされた方で、堅固な聖書主義の立場から、淡々と話される説教に、引き込まれたことがあります。後に、四国学院大学の名誉教授となられた方です。

 戦時下、日本基督教団に、諸教会が統合される中で、当時牧会していた灘教会(神戸市)を、偶像礼拝に反対する立場から、その団体に加盟させませんでした。そのために、三井三池炭鉱での強制労働に服させられます。もの凄くひどい時代だったのですね。戦後、岡田師は教会と神学校を復興されたのです。

 それで、灘教会を退職後、神学校で教えられ、後に善通寺市で伝道をなさったと聞きました。その頃のお説教でした。わたしにとっては、「讃岐うどん」よりも、真の福音主義、聖書主義の伝道者が過した街として、善通寺市はより印象的なのです。四国学院は、キリスト信仰の上に建った、素晴らしく教育的な配慮がなされた学府です。

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 団扇(うちわ)と扇子(せんす)の生産は、全国生産の半分近くを占めているようです。この県の出身者で、「父帰る」や「恩讐の彼方に」で有名な菊池寛がいます。妻子を捨てた父親が、20年ぶりに、妻や妻子の住む家に戻ってきます。明治末期の時代設定です。お母さんと次男、そして娘が父を許して受け入れるのですが、長男の賢一郎は、赦そうとしません。家を捨てた父に代わって、家族を支えた賢一郎だったからです。その父を赦し、受け入れる賢一郎の心の動きを描いて秀逸でした。

 そんな父親には、わたしはならなかったのですが、子と父、母と娘という関係は、意外と複雑な相克なものかも知れません。「エデンの東」のキャルとお父さんの和解の顛末に通じるでしょうか。『わが家は、どうかな?』の香川県でした。

( 生醤油の讃岐うどん、四国学院大学のキャンパスです)

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