高知県

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 1959年(昭和34)に、「よさこい節」を歌詞に入れた、「南国土佐を後にして」」と言う歌が、一世を風靡しました。作詞が武政英策、作編曲が武政英策、歌がペギー葉山でした。

 華南の街に住み始めて、数年後、一人の中学生が、師範大学の教員住宅のわが家を訪ねて来ました。彼が、日本語を上手に話すので驚いたのです。日本のアニメが好きで、それで日本語を覚えたのだそうです。実に流暢に話をしていて、彼のはアニメの会話ではなかったのです。市内の百貨店の地階にできた日本ラーメン店(熊本拉面と銘打っていました)に、案内してくれました。

 その頃、高知県にある高校の校長先生と秘書の方が、市内のアメリカ系のホテルに来ていて、紹介してくださった方がいて、お会いしたのです。このお二人と親しくお話をしてる間に、この少年の留学の話が持ち出されました。共通の知人のいる校長と、話が合ってしまい、『私が面倒をみましょう!』と言ってくださり、翌春の留学が決まったのです。

 親御さんが来れないので、前学期が終わって、休みに入って帰国中のわたしは、彼の入学式に代理出席したqのです。式の前日に着いたわたしは、竜馬空港でレンタカーを借りて、訪ねたかった、大山岬を訪ねました。そこは万葉集研究者の加持雅澄の赴任地だったのです。そこに、彼が詠んだ短歌が、碑として建てられてありました。

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あきかぜの福井の里にいもおきて安芸の大山越えかてぬかも

 この短歌が刻まれているのを「愛妻之碑」と呼んで、土佐の海の波打ち際に立っていました。鹿持雅澄「は、高知藩の最も下級の「徒士(かち)」と呼ばれた武士でしたが、50年の歳月を万葉研究に捧げて。「万葉集古義」をまとめ上げています。赴任地から、高知城下にいる奥方を思って、一首詠んだのです。

 もう少し、高い防波堤の際の道を車で行くと、 「よさこい節」に謳われた室戸岬がありました。

土佐の高知の
はりまや橋で
坊さんかんざし買うを見た
ハアヨサコイヨサコイ

御畳瀬見せましょ
浦戸を開けて
月の名所は桂浜
ハアヨサコイヨサコイ

土佐は良い国 南をうけて
薩摩おろしがそよそよと
ハアヨサコイヨサコイ

西に竜串 東に室戸
中の名所が 桂浜
ハアヨサコイヨサコイ

思うて叶わにゃ
願かけなされ
はやる安田の 神の峰
ハアヨサコイヨサコイ

言うたちいかんちゃ
おらんくの池にゃ
潮吹く魚が泳ぎより
ハアヨサコイヨサコイ

 律令制下、ここは南海道の土佐国と呼ばれ、山内一豊(やまのうちかずとよ)から幕末まで、山内氏の統治が続く土佐藩、その他に、土佐藩の支藩の中村藩、土佐新田藩がありました。

明治以降、高知県と呼ばれ、県都は高知市、県花はヤマモモ、県木はヤナセスギ、県鳥は八色鳥(やいろちょう)、人口は68万人です。

 中学の時に、田宮寅彦の「足摺岬」を読んで、敗戦後の大学生の姿や生き方を知って、ずいぶん複雑な思いをした覚えがあります。結核を病んで、世をはかなんだのでしょう、死のうと思って、足摺岬に行くのです。旅が長かったからでしょうか、病状が悪化して、泊まった宿で伏してしまいます。宿を同じにした遍路の老人や旅の商人たちが、伏せる学生を甲斐甲斐しく世話をするのです。自殺の決心がくじけて、思い直す、そんな心の動きが描かれていました。

 学問は、人を救わないが、人の愛や助言が、自殺の決心を挫くのを知らされたのです。自殺願望を持つことなく生きて来られたわたしは、足摺岬に行こうとは考えませんでした。ただ断崖絶壁の映像を見たことがあり、あんな寂しい最果ての地で死のうなんて考える気持ちは理解できないままです。

 時間があったら行きたかったのは、「最後の清流」と言われている四万十川でした。川のせせらぎを聞き、その水で生湯を使ってもらったわたしは、今も、川辺に住んで、なかなか離れられないまま年を重ねてしまいました。

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 さて、土佐と言えば、坂本龍馬ですが、あまりにも有名なので、ここでは避けて、日本人で初めて蒸気機関に鉄道や蒸気船に乗り、アメリカへに最初の留学生であり、「ABCDの歌」一本に紹介した人物、ジョン万次郎(中濱万次郎)の紹介をしてみましょう。

 土佐の「いごっそう」で、難破船の炊事補佐の14才の文字も書けなかった少年が、アメリカで学び、帰国後は、幕府の旗本の身分を与えられ、東京大学の前身の開成学校で、英語教授になっています。

 自分の前に開かれる人生に展開に、気分の前にやって来る波に乗じて、生き抜いた人だったのです。驕り高ぶることにない謙虚な人だったそうです。貧しい人には、よく施しをしたようです。『若しも此人をして総理大臣の地位に当らしめ政府の全権を任せたらんには、国家百年の長計は兎も角も、踔励風発、満前の障害物を一掃して一時天下の耳目を一新するの快断、必ず見る可きものありしならん。』と、福沢諭吉に言わせたほどの土佐人の後藤象二郎を、土佐藩校で教えた人でもありました。

 薩長の影に隠れたのですが、秀逸な人材を輩出した県でもあります。桂浜の高台に立って、太平洋を眺めた時、娘たちのいるアメリカ大陸が、目の前に見えるようでした。九十九里の海岸線を思わせるような土佐の海は広かったのです。

 息子が、河内からの帰りに、「鰹のたたき」を買ってきてくれてことがあって、じつに美味しかったのです。大山岬ヘの途中にあった道の駅で食べ鰹のたたたきも美味しかったのです。

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