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「地震大国」、日本を言い表す言葉がいくつもある中で、最も的確な表現だと思えてなりません。華南の街にいる13年の間、一度だけでしたが、台湾で起きた地震が、大陸を揺らしたことがあって、ちょうど友人の7階の家に、夕食に招かれていた時、テーブルだけでなく棟自体が大きく揺れたことがありました。
そして、帰国した途端、少なくとも月に一、二度は地震を体感してきています。今日も昼前に、『アッ!』と揺れ感じたら、数分後に地震速報を伝えていました。盤石の基礎の上に建っている建物のように思えますが、太平洋プレートの断層がずれて、地震が生じると言った地球の危うさに驚かされます。関東大震災を経験した父が、地震のたびに、『戸を開けろ!』と叫んだ声を、地が揺れるたびに思い出すのです。
旧約時代の預言者のアモスが、その預言書を記すにあたって、その冒頭に、次のように書き記しています。
『テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。 (アモス1章1節)』
主の再臨の前兆について、聖書は次にように記しています。
『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。 (マルコ13章8節)』
預言者は、地震に揺らされる地球に居を置いて生きている読者に、預言しているのです。安心し切っている人々、アモスの時代も今日も、地に住む者に向かって、どんな時代かを語り始めるのです。わたしが生まれてから起こった多くの犠牲者をもたらせた地震には、2011年の東日本大震災(18446人死亡)、1995年の阪神淡路大震災(6437人死亡)、1948年の福井地震(3769人死亡)があります。
地震は地面を揺らすだけではなく、わたしたちの立っている、長年培った自信や確信、経済的な基盤、祖先から受け継いだ屋敷や田畑、将来の計画、明日の予定などでさえも揺さぶり、打ち砕いてしまいます。東日本大震災で、想像を超えた津波に襲われた海岸地帯の様子を、その数年後に訪ねたことがあります。海辺の墓石が倒されていて、そこに雑草が生い茂っているのを見て、墓に入れられた亡骸でさえ押し流されてしまっていたのです。
成功者や覇権的国家が誇り、あがめているような強固だと信じられてきた組織も支配も、今も揺り動かされています。理想的な国家を築くためだったのに、主導権争いで排除された指導者がいなくなっても、また野心に燃えた指導者が、次に立ち上がり、一度崩壊した国家が、再び頭をもたげようとして、今朝も武器を使用して、隣国を侵略しています。
人種、家庭、職場、商業、工業、農業、技術、教育、そして宗教でさえも揺り動いて、浮動しています。そんな浮動の世界の中で、決して揺り動かされないのがあります。それは、《神の義》と《聖霊が説き明かす真理》と《キリストの贖い》です。ゆめゆめ、限りある人の決定と支配によって、この世界が永遠に続くかのようなことを考えてはなりません。
『この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。 (ヘブル12章27〜28節)』
朝起きた時、驚くようなニュースが目に飛び込み、耳に聞こえてくるような時代の只中に、私たちはあります。見て聞くわたしたちは、驚き怪しむのですが、やがて、度重なる報道に思いが麻痺していくのでしょう。でも、万軍の主に目を止め続けるわたしたちは、冷静にことの成り行きを見守ることができそうです。盤石な「神の国」が、着飾った花嫁のようにして、やがて天からくだってくるのです。
紀元前700年代に予言されたことと、二十一世紀に生きる私たちと無関係とは言えません。そこに、わたしたちへの警告と、どう備えていくべきかが記されているのです。
(2011年の東日本大震災時の報道写真です)
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