主われを愛す

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 子育て中のわが家に、「案山子騒動」の一事件がありました。家内の次姉家族が、グアム島に住んでいた時に、家内のすぐ上の兄に誘われて、わたしたちの上の子二人を連れて訪ねたことがありました。下の子たちはまだ生まれていませんでした。当時、グアムのアメリカンスクールの校長を、義姉の主人がしていたのです。その滞在中にアメリカ領事の家で、” Festa “ があって、『ご馳走が出るので、みんなで出かけよう!』と言って、着いたら、皿の上には、ほとんど残っていなかったので、よく覚えています。

 それは46、7年前のことでした。急に話が決まって、帰り際に、わたしが提案して、義姉の次男を日本に連れて帰って来たのです。領事館で義姉が働いていたので、急遽、Visaの発給をしてもらうことができたわけです。

 それで、町の教育委員会にお願いして、近くの小学校に編入でしょうか、留学させてもらったのです。日本語など皆目できない小学校2年生ほどの甥っ子は、泣いたり寂しがったりしないで一学期間ほど、日本人の子どもたちと机を並べて学んだのです。

 隣家に同じ小学校の上級生がいたので、集団登校をしてもらったのです。よく頑張った Little Yankee でした。秋のことでした、私たちの上の娘を喜ばせたくて、お土産を持って帰って来たのです。何をかと言いますと、田んぼの中の「案山子(かかし)」でした。説明足らずで、わたしは叱ってしまったのです。でも彼には、その叱られたことが納得できずに、ちっと混乱してしまったようです。

 そんな happening のあった子が、大学に行く準備のために、アメリカ軍に従軍し、当時起こっていたアフガニスタン戦争に従軍したのです。もちろん、合衆国国民としての責務も感じていたのですが。その戦いの経験から、戦争終結後に、精神的な後遺症で、多くのアメリカ兵の若者が苦しんだのですが、彼は、一緒に従軍した弟と共に、無事に帰国して大学に進んだのです。

 砂漠の戦地では、弟の無事を願って、戦火の下をくぐり抜けて、無事を、兄弟で確かめ合ったのだそうです。義姉から、激戦の中にあって、生死が危ぶまれている息子たちのために、祈りの要請がありました。その子が、結婚して親になり、今は、老いて癌に伏せてる母親のそばにやって来て、その母の最後を見守っているのです。

1 主われを愛す 主は強ければ
われ弱くとも 恐れはあらじ
(くりかえし) わが主イェス わが主イェス
わが主イェス われを愛す

2 わが罪のため さかえをすてて
天(あめ)よりくだり 十字架につけり
(くりかえし)

3 みくにの門(かど)を ひらきてわれを
招きまたえり いさみて昇らん
(くりかえし)

4 わが君(きみ)イェスよ われをきよめて
よきはたらきを なさしめたまえ
(くりかえし)

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 今や終末期の緩和治療をしている姉に、今日は家内が電話を入れました。その甥が、枕元で母親の最後に立ち会おうとしていたそうです。もうことばは発することができない状態でも、電話の呼びかけに応答するのを聞いて、幼い日に覚えた讃美歌、「主我を愛す」を、家内が賛美をしたのです。もちろん義姉は一緒に歌えませんでしたが、その賛美に応答していたそうです。

 八十五になる自分のすぐ上の姉の耳元に、スマホを寄せてくれる甥がいてくれたそうです。せめても、自分の姉に、今の自分がして上げることは讃美することだったのでしょう。共にイエスさまを、「救い主」と信じ続けて来た姉に、助けられ、励まされた妹としてできること、天に送ることばで、讃美を歌ったのです。

 獨協医科大学病院の病棟で、余命半年で、家内が苦しんでいた時に、従兄弟の助けで、この姉が家内を見舞ってくれたのが3年半前だったのです。寝ていた家内が、何かを感じて目を開けたら、姉が自分を見守っていたのだそうです。まだ姉が元気だった頃でした。でも、同じように病んで今があります。素晴らしいのは《永遠のいのち》の約束を信じていることです。平安のうちに召されるように、わたしも祈っています。主の御元に行ける望みがあるからです。

(「讃美」のイラスト、「義姉の母校(都立大泉高校)への道」です)

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