都会の音

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「都会の音」があるそうです。港町なら汽笛、農村なら耕運機のエンジン音、森林ならチェーンソウ音ですが、都会を代表する音は、〈地下鉄走行の音〉でしょうか。いいえ、〈サイレン音〉なのだそうです。あの消防車、救急車、警察車両、路上をゆく時に発する音です。

私たちの住む街は、ご多分にもれず、静かな街で、年配の観光客がそぞろ歩く姿が見られます。江戸期には、「例幣使街道」と言う主要国道が、街の中心を走り、明治期には、栃木県庁が所在していたのです。近所の古老によれば、「みつわ通り」は、路線バスが行き交い、人通りが溢れ、道沿いの商店は、栄えていたのだそうです。ところが、今や〈シャッター街〉に変じてしまっています。

何年も前に、倉敷に行った時、街中を歩いてみました。倉敷駅近くの道は、まさに、そのシャッターが降りたままの商店が連なっていて、目をつむると、人の波や下駄や草履の音が聞こえてきそうでした。伯備線の発着駅ですから、沿線の住民の多くが利用して、商いがかつては栄えていたはずです。

1960年代に、日本の多くの街に、仕事で出かけた頃は、どの街も元気で潑剌としていましたが、今や地方都市の中心都街が、勢いを失っているのです。新幹線、高速道路、市外のバイパスができてから、その傾向は強くなったそうです。

近所のお客様を相手にして、子を育て、教育を受けさせ、文化的な生活をしていた商家の人たちが、大型スーパー攻勢に抗しきれずに、廃業してしまったのです。その反動でしょうか、聞くところによりますと、アメリカでは、大型店では買わないで、地元や近所の店で買い物をして、彼らを支えていこうとする運動があるのだそうです。

同じように、農家を支えていく運動もあります。有機栽培、低農薬栽培をする生産者が自営できるように、支えていこうとしています。私たちが住んでいた華南の街でも、40ほどの家庭が、購入の約束をして、野菜を購入するなら、生産者を支えていけるからと、誘われていました。残念ながら、そんな動きの中で、帰国してしまったわけです。

かつての賑わいを、戻せるでしょうか。後継者が、都会に出て行ってしまって、家業を継がない、継げない現状もあります。近くに八百屋さんがあって、前には買ったのですが、値段が高いのがネックになって、足が遠のいてしまっています。この辺に、〈ジレンマ〉がある様です。

かつては県庁のあった街ですが、仕切りに〈都会の音〉が頻繁に聞こえてきます。市役所や消防署のある主要道路沿いに家があるので、とくにそうなのです。きっと、高齢者の方が、サイレン音を立てながら、搬送されているに違いありません。わが家でも、携帯電話の連絡先のトップに、《消防署》が入れてあります。これも私たちの現実であります。

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開花予報

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今年の桜の開花予報です。

情報提供者 ぽんぽんやま(PPY)@京都@mt_pompon_ppy
2月13日
2/13時点 ウェザーニュース満開予想

五稜郭公園4/27
弘前公園4/23
桧木内川4/27
北上展勝地4/18
高田公園4/8
高遠城址公園4/11
千鳥ヶ淵3/29
嵐山4/5
吉野山上千本4/9

この街の桜の名所をお聞きしましたら、「大平山」だそうです。去年は、慌ただしい中、壬生町の東武日光線・国谷駅の古木の桜を、家内のお見舞いの途上、蕾が膨らんでいく頃から、開花、落花、桜吹雪まで、車中から見続けました。まだかまだかの開花を追った日々でした。今春は、若き友人が、家内と一緒に、大平山にお連れくださるとのことです。楽しみにしているこの頃です。

(大平山の桜です)

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切なる願い

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〈憎しみ〉が、人の心を占領しています。
〈争い〉が、人と人、集団と集団、国と国の間に入り込んでいます。
〈主義〉と〈主義〉が、衝突しています。
〈価値観〉と〈価値観〉が譲り合っていません。
〈戦争〉でもないのに、〈飢饉〉でもないのに、どうしたことでしょうか。
〈罵り合い〉、〈殴り合い〉、〈奪い合い〉もあります。
どうしたのでしょう不協が連鎖しています。
最高傑作の人が、期待に応えられていません。
〈恐れ〉、〈不安〉、〈期待外れ〉を越えていきたいのです。
〈どうにもならないこと〉は、どうにもならないのです。
相手を思いやれる様になって欲しいのです。
切なる願いです!

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試練

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隣国、中国に、私たちの思いを向けましょう。混乱、恐れ、不安が、中国のみなさんの心を満たしています。一昨日の夕べ、武漢からは、だいぶ遠い華南に住む友人と話しました。外出制限がしかれ、食料の買い出しも、配送業者に任す以外ないそうです。大学の授業も、ネットでしようとしています。

春節で実家に戻っていた友人は、政府の許可を得て、授業の資料を取りに、大学街の家に出かけたと言っています。様々まな面で、不自由をしています。それでも、募金をして、武漢への援助をし続けているそうです。中華人民共和国の開闢以来の最大の試練の時にあります。

13年過ごした中国は、家内と私の《第二のふるさと(老家laojia)》何です。友人たちがたくさんいて、困難に直面しています。ぜひ覚えていただきたく、お願いをいたします。終息し、元の様な生活に戻れる様に、とくに、患者さんの治療に当たり、重症化を防ごうとしている医療従事者、円滑の業務ができる様に、市の責任者のためにも覚えてください。

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ことば

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forest glade with blooming flowers

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「物を言う」時、どう言うかによって、随分と、聞く人の応答が違ったものになります。とくに若者の行動や言動を注意する時に、どう言うかによっては、攻撃的に反逆してきたり、あるいは素直に受け入れるかで違うのです。

私は、言葉で失敗したことが多くありました。言ってはいけないことを言ってしまったり、言い方が正しくなくて、相手を怒らせたり、落胆させたりしてしまったのです。それは私だけではなく、多くの人が失敗している様です。ガリラヤ湖の漁師だった方が、こんなことを言い残しています。

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。』とです。この方の経験か、周りの人を観察しての経験でしょうか。ことばは、燎原の火の様に、焼き尽くすものを飲み込んでしまいます。唇や舌の世界は、〈火の世界〉だと言うのです。

1953年(昭和28年)2月28日のこと、時の総理大臣、吉田茂が、衆議院予算委員会で、社会党の西村栄一と質疑応答の後、席に戻ろうとして、小声で『バカヤロウ!』と言ったことで、衆議院が解散してしまいます。その時の質応答の記録が残っています。

西村「総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求めになりましたか」
吉田「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウアー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じたのであります。(以下略)」
西村「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。(中略)イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、(中略)日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。(中略)やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか、こう思うのであります」
吉田「只今の私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁致したのであります。私は確信するのであります」
西村「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか。
吉田(無礼なことを言うな!)
西村 何が無礼だ!
吉田(無礼じゃないか!)
西村 質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。(中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ! 答弁できないのか、君は……
吉田(ばかやろう……)
西村 何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ!! これを取り消さない限りは、私はお聞きしない。(中略)取り消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある」
吉田「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取り消します」
西村「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取り消された上からは、私は追究しません。(以下略)」

この両者の確執は、以前からあった様ですが、小声の囁きが、大事を引き起こし、吉田茂の政治生命を終わらせてしまうのです。でも、西村議員の事後処理法を学ばねばなりませんね。

その〈ひと言〉を言ったばかりに、大喧嘩になることがよくあります。関東人の〈バカヤロウ〉と、関西人の〈アホ〉とは、意味が同じでも、言葉の重さが桁違いに違っていそうです。

ことば上の失敗の経験を見聞きし、経験して学んだことが、一つあります。それは、《事実》だけを言うことです。叱ったり、注意したり、否定したりせずに、その現実を、感情を交えずに言うことです。良し悪を判定しないことで、聞く人が、自分で決めさせるのです。そう私がし始めてから、人間関係は円滑になってきています。

(ガリラヤ湖畔に咲く花です)

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花が咲いた

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アメリカの北西部にいる次女から、今週、写真が送信されてきました。日本と同じ様に、暖かいのでしょうか、春の到来が早くなっています。写真を観て、ホッとしています。陽の当たるわが家の窓辺にも、サルビヤやシクラメンや胡蝶蘭、名前の分からない花が咲き誇っています。確実に、そこは、もう春なのです。

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恐れるな!

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さしものオーストラリアの山火事が、豪雨の襲来で鎮火したニュースを聞いて、ホッとしました。その焼け跡の木から、新芽が出てきている写真が、友人から送られてきました。時々、ユラユラや、ドスンと体感する地震が起こったり、火山が爆発したり、人身が冷えたりして悲しい事件も頻発しているニュースも、多く聞こえてきます。世界中を不安にしている疫病も、どう収束していくか不明です。

そんな中で、『恐れるな!』との声が聞こえてきます。しっかり時の流れを見つめながら、風評被害の渦に巻き込まれない様にしたり、慌てたりしないことだと、自分に言い聞かせています。

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渋沢栄一

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江戸五街道の一つ、「中山道」は、日本橋から、日本の内陸を通って、京にまで至る、六十七の宿場を持った主要街道でした。その宿場町の一つに、日本橋から数えて、9番目の「深谷宿」がありました。

明治維新の後、この宿場は、「深谷市」となっていきます。この深谷は、「深谷ねぎ」で有名ですが、ねぎには比べられない、人物を産んでいます。次期、1万円札の肖像となる、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一のことです。市のホームページでは、次の様に、この方を紹介しています。

『渋沢栄一は天保11年(1840)深谷市の血洗島の農家の家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けました。7歳になると下手計のいとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。
 20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。
 一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました。明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官します。栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業の設立に関わったといわれています。また約600もの教育機関・社会公共事業の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。』
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日本の資本主義の実践や確立のために、この渋沢栄一は、大いに貢献をした人で、実業界ばかりではなく、教育界でも、大変な働きをされています。政治的には、貴族院議員に選任されますが、第一回帝国議会に、一度出席しますが、それ以降は、出席せずに、辞任してしまいます。その代わり、多くの会社を起こしたことは、特筆に値します。

ノーベル賞候補に、二度も推挙されているのだそうで、その経歴は、驚くほど多彩です。『人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。』という言葉を残しています。

(深谷市の市花の「チューリップ」です)

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伴走者

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今年は、オリンピック、パラリンピックが、東京で開催されます。陸上競技のマラソンは、《オリンピックの華》と呼ばれる競技で、前回、1964年の東京オリンピックでは、円谷幸吉選手が健闘しています。

またパラリンピックにも、マラソン競技があります。その競技者には、「伴走者」がついて走ることができます。この伴奏者については、次の様に解説されています。

『良い伴走者とは障がい者ランナーが安心して走れる伴走者です。では目が見えない障がい者ランナーが安心して走れるとはどういうことでしょうか。
まず最も大切なことは視覚に障がいがあるランナーが安心して走れるように安全を確保し、周りで何が起きているか状況を説明することです。またランナーが走りやすいようにフォームや走路、ペースに気を配りましょう。最後は目標を持って走れるようタイムなどを管理することが大切となります。そのほか障がいの程度や現地までの移動手段、コースや周囲の状況などで必要なことが違ってきます。
視覚障がい者の方にしかわからないこと、感じられないことも多くあります。また一人ひとり不安なことや知りたいことも異なります。ここに挙げたことはほんの一例だと思って、相手が何をしてもらいたいかをよく話し合って下さい。(JBMA/日本ブラインドマラソン協会)』とです。

この「伴走者」に似てる役割やことばに、「伴侶」があります。「人生の伴侶」、一緒に生きていく夫や妻のことを言っています。「伴侶」は、双方ともが人生の道を走る競技者なのです。それは競争相手ではなく、ともにゴールを目指して、助け合いながらいく仲間です。

私にとっての一番のモデルは、父の伴侶、私たち四人兄弟の母です。また母にとっての、私たちの父です。私には、賞状を差し上げたいほどの両親でした。地方の名門に生まれながらも、名門なるがゆえの仕打ちを受けて育った父と、婚外で結ばれた両親の望まれない子として生まれ、養女として育てられた母でしたが、『良くやった!』と、両親を褒めたいのです。

それぞれに逆境や危機があったのですが、それを超えて、親業を全うしてくれたからです。自由で、したいことをさせてくれ、曲がったことをすると矯正して、叱ってくれたのです。ちょっと方法はきつかったのですが、それもまた益でした。何よりも、教育を受けさせてくれたことは感謝に尽きません。

育ち盛りで、乱暴な男の子に、三度の食事を、工夫を重ねて作って食べさせてくれ、綺麗に洗濯した服を着せ、暖かな布団に休ませてくれたのです。決して手を抜きませんでした。まさに《傍(かたわら)を共に》伴走、併走してくれて、社会人として生きる様に備えてくれたのです。

中学校3年間、担任をしてくださった恩師が、長男を連れて母校訪問した時に、『お母様と同じ道を歩んでいるのですね!』と言ってくれたことがありました。恩師には、母の歩む道が分かっていたのでしょう。そんな母を誇りに思ったのです。

マラソンの伴走者は、途中で交代できるのだそうです。結婚も、育ての親から配偶者への《伴走者交代》なのかも知れません。

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月見草

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真夏に強烈な太陽に向かって、蝉の大合唱の中を、子どもたちが虫取り網を手に走って行く道の脇に咲く、「向日葵(ひまわり)」こそ、一番賑々しく咲く花でしょうか。それに引き換え、夕日が沈みゆく、川岸の雑草の中に、ひっそりと咲く「月見草」は、寂しそうです。

昨日、日本野球界で、名選手、名監督、名指導者、名解説者と名を馳せた野村克也氏の訃報を聞いて、この二種の花を思い出したのです。野球通を唸らせて、野球人生を送った方でした。パ・リーグという日の当たらないリーグで活躍をし、王貞治、長嶋茂のキラキラと輝くセ・リーグの影に隠れていたのです。それで王、長島の影にいたご自分のことを、次の様に述懐していました。

『花の中にはヒマワリもあれば、人目につかないところでひっそりと咲く月見草というのもある。王や長嶋はヒマワリ、俺は月見草。自己満足かもしれないが、俺はそれでいいと思っている。人気のないパ・リーグの少ないお客さんの中でも一生懸命やってきた意地が、600号につながった。華々しい場所で野球をやる王、長嶋の存在があったからこそ、俺はここまでやれた。(1975年5月22日、日本ハム戦で通算600本塁打を達成して)』
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お父上を、子どもの頃に亡くして、お母さんの手で育てられ、新聞配達やアイスキャンディー売りをしながら、家計を助けていたそうです。野球選手に憧れていて、京都の府立高校を卒業後、南海ホークスのテスト生として、無給で入団するのですが、鶴岡一人監督に見出されて、押しも押されもしない名捕手、名バッターとして大活躍をしたのです。

日米野球の際、メジャー・リーガーのウイリー・メイズにより、その姿や行動が、「ヘラジカ」に似ていたそうで、「ムース」と呼ばれ、それがそのままあだ名となった様です。そう言えば、若い頃の野村克也は、口が重く、くぐもった喋りをしていたのを覚えています。何か、ヌーっとした感じでした。ところが、監督や解説者になってからは、「野村語録」と言われるほど、野球や人生や人物への評が、優れていました。

日本の野球界では、最高峰に輝く人でした。84歳で亡くなられたのですが、六十代半ばで召された私の恩師と同じ歳の生まれでした。子どもたちに野球を指導するときも、精一杯の指導をされたそうです。貧しい幼少年期をてこに、野球を極めた方の訃報は、とても寂しいものがあります。花期が6月から9月の月見草が、咲く頃に、思い出しそうです。

(南海時代の鶴岡和人監督と野村克也氏と月見草です)

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