渋沢栄一

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江戸五街道の一つ、「中山道」は、日本橋から、日本の内陸を通って、京にまで至る、六十七の宿場を持った主要街道でした。その宿場町の一つに、日本橋から数えて、9番目の「深谷宿」がありました。

明治維新の後、この宿場は、「深谷市」となっていきます。この深谷は、「深谷ねぎ」で有名ですが、ねぎには比べられない、人物を産んでいます。次期、1万円札の肖像となる、「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一のことです。市のホームページでは、次の様に、この方を紹介しています。

『渋沢栄一は天保11年(1840)深谷市の血洗島の農家の家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けました。7歳になると下手計のいとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。
 20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。
 一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました。明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官します。栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業の設立に関わったといわれています。また約600もの教育機関・社会公共事業の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。』
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日本の資本主義の実践や確立のために、この渋沢栄一は、大いに貢献をした人で、実業界ばかりではなく、教育界でも、大変な働きをされています。政治的には、貴族院議員に選任されますが、第一回帝国議会に、一度出席しますが、それ以降は、出席せずに、辞任してしまいます。その代わり、多くの会社を起こしたことは、特筆に値します。

ノーベル賞候補に、二度も推挙されているのだそうで、その経歴は、驚くほど多彩です。『人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。』という言葉を残しています。

(深谷市の市花の「チューリップ」です)

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