真夏に強烈な太陽に向かって、蝉の大合唱の中を、子どもたちが虫取り網を手に走って行く道の脇に咲く、「向日葵(ひまわり)」こそ、一番賑々しく咲く花でしょうか。それに引き換え、夕日が沈みゆく、川岸の雑草の中に、ひっそりと咲く「月見草」は、寂しそうです。
昨日、日本野球界で、名選手、名監督、名指導者、名解説者と名を馳せた野村克也氏の訃報を聞いて、この二種の花を思い出したのです。野球通を唸らせて、野球人生を送った方でした。パ・リーグという日の当たらないリーグで活躍をし、王貞治、長嶋茂のキラキラと輝くセ・リーグの影に隠れていたのです。それで王、長島の影にいたご自分のことを、次の様に述懐していました。
『花の中にはヒマワリもあれば、人目につかないところでひっそりと咲く月見草というのもある。王や長嶋はヒマワリ、俺は月見草。自己満足かもしれないが、俺はそれでいいと思っている。人気のないパ・リーグの少ないお客さんの中でも一生懸命やってきた意地が、600号につながった。華々しい場所で野球をやる王、長嶋の存在があったからこそ、俺はここまでやれた。(1975年5月22日、日本ハム戦で通算600本塁打を達成して)』
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お父上を、子どもの頃に亡くして、お母さんの手で育てられ、新聞配達やアイスキャンディー売りをしながら、家計を助けていたそうです。野球選手に憧れていて、京都の府立高校を卒業後、南海ホークスのテスト生として、無給で入団するのですが、鶴岡一人監督に見出されて、押しも押されもしない名捕手、名バッターとして大活躍をしたのです。
日米野球の際、メジャー・リーガーのウイリー・メイズにより、その姿や行動が、「ヘラジカ」に似ていたそうで、「ムース」と呼ばれ、それがそのままあだ名となった様です。そう言えば、若い頃の野村克也は、口が重く、くぐもった喋りをしていたのを覚えています。何か、ヌーっとした感じでした。ところが、監督や解説者になってからは、「野村語録」と言われるほど、野球や人生や人物への評が、優れていました。
日本の野球界では、最高峰に輝く人でした。84歳で亡くなられたのですが、六十代半ばで召された私の恩師と同じ歳の生まれでした。子どもたちに野球を指導するときも、精一杯の指導をされたそうです。貧しい幼少年期をてこに、野球を極めた方の訃報は、とても寂しいものがあります。花期が6月から9月の月見草が、咲く頃に、思い出しそうです。
(南海時代の鶴岡和人監督と野村克也氏と月見草です)
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